新たな作品のうち、振りや型がほぼ定まったものを「型附(かたづけ)」に清書する。
他人(ひと)に公開するものではないので、自分が見て解る表現で記せば良いのだが、これがいざやらうとすると、意外に大変だったりする。
能樂から採った型はその一つ一つに名称があるのでそのままを写せば済むが、自分で創った振りになると、表現に「ハテ……」とペンを持つ手がとまる。
そしてすぐ扇に持ち替へ立ち上がり、口のなかでブツブツ言ひながら動ひて、その時に出て来た表現をすぐペンに持ち替へ紙に写す──
さりながら、のちのちまでも見て解る表現を、と意識しすぎるとつひ細かくなり、時間が経ってから却って「……???」となったりする。
つまり、未来にパッと見ても思ひ出せるやう不断の心掛けをせよ、といふことじゃ。
型附に清書して、初めてその作品は一應の出来上がりとなるわけだが、現今の有様では、それを披露できる目途は全くつかず。
為政者は“お手上げ宣言”を各地で解除するつもりのやうだが、間違ひなく行樂目的の輩がその方面へ大挙して移動するだらうから、例へその土地に感染者が少なくても、結局は元の木阿弥になるだらう。
高校野球は無観客開催だの地区限定開催だのを叫んでゐるやうだが、茶番大運動會延期決定の時といい、だうして運動屋とその関係者は、かくも往生際が惡ひのだらうと呆れる。
その日を目指して練習を重ねて生きてゐるのは、何もおのれらだけではない。
「一期一會」は、物事に挑む人なら皆同じだ。
感情のゴリ押しは、不公平感への火種となる。
不完全な開催は、不完全な結果しか生まない。
つまり、假にそこで榮誉に浴しても、それはしょせん自己満足のしろものでしかないのだ。
私は、せいぜい樂しい知らせを期待する。
いっそ年内の活動は無理と腹を括ったはうが、潔ひ気分になれる。
私は、さうする。
そのはうが、却って前方が明るく映る。
さて、次の清書は──