掛川宿はお墓に縁のある宿場、というわけでもないのでしょうが、もう一ケ所、見て行くことにします。
掛川城の東側約400mほどの場所にある天然寺には、↑写真のやうな、蒲鉾型の珍しいお墓を、道沿いから見ることが出来ます。
これは江戸時代、ゲイスベルト•ヘンミィという、オランダ商館使節団の一員だった人物のお墓。
寛政十年(1798年)、江戸城で十一代将軍徳川家斉に謁見して長崎へ帰る途中の六月五日、投宿した掛川宿本陣で発病して倒れ三日後に死去、この寺に葬られたもの。
墓石の表面にはオランダ語で謂われが彫られていますが、長い年月で風化して判読できなくなったため、傍らの墓碑に移刻されましたが、
それとても私のような門外漢には……。
再び東海道に戻ると、仁藤町交差点を過ぎて病院の先で右折、今は住宅密集地となっている喜町地区に残る七つの曲り角──「七曲がり」を通り、
掛川宿をあとにします。
かつて葛布が名産であったことに因んだものでしょうか、葛川(くずかわ)という地区をまっすぐ通るとやがて「葛川一里塚」跡の先で逆川を渡って交差点を直進、さらに成滝地区を抜けたところで、国道1号線に合流します。
さらに二十分ほど行った伊達方地区には二ヶ所、緩いカーブを描いて旧道が残っています。
二ヶ所目の旧道は東名高速道路への入口に通じてゐるため、
道幅のわりに交通量が多めです。
↑写真左の東名高速入口の標識の向こうには「伊達方一里塚」跡の碑があり、明治三十三年頃まで里程標のあった場所に道路案内があるのも、なにかの因縁でしょうか?
伊達方地区の先で再び国道1号線に合流すると掛川バイパスをくぐり抜けてしばらく直進、坂上田村麻呂ゆかりの「事任(ことのまま)八幡宮」を右手に見て過ぎると、旧道はすぐ左手へと分かれ、
掛川宿から一里二十九町(7,1km)の、日坂(にっさか)宿へと入って行きます。
道の両側に並ぶ家屋がすでに旧宿場の雰囲気を醸し出していますが、宿場は京側の木戸口の役目も果たしていた古宮橋を渡った先からで、左カーブの上り坂の途中には、江戸時代の旅籠のつくりをほぼそのまま遺す「川坂屋」、
その筋向こうには身分の高い人向けだった川坂屋に対して一般人向けだった「萬屋」、
その並びには江戸時代終焉までの六年間、問屋をつとめて明治時代には郵便局となった「藤文」、
そのすぐ右隣は旅籠とおぼしき「かえでや」と、当時の宿場の雰囲気が、よくぞ遺ったと感心するほどのたたずまいを見せています。
ただし、この宿場にいた飯盛女については、記事の筆者はよほどイヤな思いでもさせられたのか、「花に例えれば鬼百合……」云々と、散々にこき下ろしています。
道が大きく右に曲がる左側にあった本陣跡は、かつては小学校があったそうですが、
現在は門が復元された芝生広場となっています。
やがて道は上り坂となって宿場をあとにし、
難所である小夜の中山峠へと分け入ります。
掛川城の東側約400mほどの場所にある天然寺には、↑写真のやうな、蒲鉾型の珍しいお墓を、道沿いから見ることが出来ます。
これは江戸時代、ゲイスベルト•ヘンミィという、オランダ商館使節団の一員だった人物のお墓。
寛政十年(1798年)、江戸城で十一代将軍徳川家斉に謁見して長崎へ帰る途中の六月五日、投宿した掛川宿本陣で発病して倒れ三日後に死去、この寺に葬られたもの。
墓石の表面にはオランダ語で謂われが彫られていますが、長い年月で風化して判読できなくなったため、傍らの墓碑に移刻されましたが、
それとても私のような門外漢には……。
再び東海道に戻ると、仁藤町交差点を過ぎて病院の先で右折、今は住宅密集地となっている喜町地区に残る七つの曲り角──「七曲がり」を通り、
掛川宿をあとにします。
かつて葛布が名産であったことに因んだものでしょうか、葛川(くずかわ)という地区をまっすぐ通るとやがて「葛川一里塚」跡の先で逆川を渡って交差点を直進、さらに成滝地区を抜けたところで、国道1号線に合流します。
さらに二十分ほど行った伊達方地区には二ヶ所、緩いカーブを描いて旧道が残っています。
二ヶ所目の旧道は東名高速道路への入口に通じてゐるため、
道幅のわりに交通量が多めです。
↑写真左の東名高速入口の標識の向こうには「伊達方一里塚」跡の碑があり、明治三十三年頃まで里程標のあった場所に道路案内があるのも、なにかの因縁でしょうか?
伊達方地区の先で再び国道1号線に合流すると掛川バイパスをくぐり抜けてしばらく直進、坂上田村麻呂ゆかりの「事任(ことのまま)八幡宮」を右手に見て過ぎると、旧道はすぐ左手へと分かれ、
掛川宿から一里二十九町(7,1km)の、日坂(にっさか)宿へと入って行きます。
道の両側に並ぶ家屋がすでに旧宿場の雰囲気を醸し出していますが、宿場は京側の木戸口の役目も果たしていた古宮橋を渡った先からで、左カーブの上り坂の途中には、江戸時代の旅籠のつくりをほぼそのまま遺す「川坂屋」、
その筋向こうには身分の高い人向けだった川坂屋に対して一般人向けだった「萬屋」、
その並びには江戸時代終焉までの六年間、問屋をつとめて明治時代には郵便局となった「藤文」、
そのすぐ右隣は旅籠とおぼしき「かえでや」と、当時の宿場の雰囲気が、よくぞ遺ったと感心するほどのたたずまいを見せています。
ただし、この宿場にいた飯盛女については、記事の筆者はよほどイヤな思いでもさせられたのか、「花に例えれば鬼百合……」云々と、散々にこき下ろしています。
道が大きく右に曲がる左側にあった本陣跡は、かつては小学校があったそうですが、
現在は門が復元された芝生広場となっています。
やがて道は上り坂となって宿場をあとにし、
難所である小夜の中山峠へと分け入ります。