そのクルマの塗装に目を惹かれ、足をとめる。
なぜ目を惹かれたか。
それは、今はまう無ゐ「玉電」の塗装に、そっくりだからだ。
昭和44年まで二子玉川園~渋谷を結んでゐた東急の“玉電”こと玉川線は、現在の田園都市線の地下区間の前身であり、それゆゑに昭和52年に開通した当時は、「新玉川線」といふ名称だった。
時代の流れで現在では田園都市線の名称で一本化されてゐるが、私のなかでは . . . 本文を読む
台風といふ超大型悪天候に振り回される季節の初日が、つひに来た──
と身構へてゐたが、朝から雨風ともにさほどでもなく、まずは一安心。
じゃによって、交通機関の乱れもあるまゐ……、と思ふは早計なり。
首都圏の交通機関は天候に左右されることなく、あちこちで安定してドジを踏みまくるのである。
特に今日は、各路線そろひ踏みだったやうじゃの。
ドジを踏むのは、そこにドジが現れるからである。
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ふと部屋の天井を見たら、いつの間にやら侵入した虫を、蜘蛛が狙ってゐた。
逃げる虫を、蜘蛛が執拗に追ひかける。
羽の生えてゐるその虫は、一度は飛んで難を逃れたが、再び追ひ詰められて、万事休す。
蜘蛛はじりじりと接近し、つひに飛びかかって取り押さへた!
蜘蛛は家の中の害虫を食べてくれる、人間にとっては有難ひ『神の使ひ』であることは聞ひてゐたが、その瞬間を見たのは今回が初めて。 . . . 本文を読む
横須賀美術館の「集え! 英雄豪傑たち」展を観る。
江戸時代から現代の美術作品に登場する英雄豪傑たちを一堂に会した企画展で、神話の時代、源平合戦の時代、そして戦国時代の勇者たちが、その時代(とき)を彩った藝術家の手によって、個性豊かに奮戦する。
なかでも気に入ったのが、川辺御楯(かわべ みたて)が明治半ば頃に発表した、「衣笠合戦金子兄弟奮戦之図」。
岩絵具のみごとな色彩美は、 . . . 本文を読む
今は昔、古民家に一人暮らすことを、人から求められたことがあった。
それは、旧街道から数㎞山中に入った、芝居小屋に隣接してゐた。
その芝居小屋を、稀に訪れる見物客のために案内して回るのが、シゴトだと云ふことだった。
私は知らん顔をした。
過去の朽ちた娯楽など、関心はなかった。
また、その人が引き起こした内輪揉めに、加担するつもりもなかった。
そして何よりも、
少しばかり口をきい . . . 本文を読む
梅雨入りの翌日は、
梅雨明けを先取りしたやうな、暑い晴天。
白く光る街では、
當世流に白く塗った女性たちの顔は白く照り返され、
明太子のやうに真っ赤な口紅は、
一際あざとく冴えわたる。
二階の窓から眺むれば、
空は西へ傾く太陽に、
旅情色へと染まりはじめる。
“思へば限りなく 遠くも来ぬるものかな”
私は居ながらにして、
かなたへの旅人となる。
陽の当たら . . . 本文を読む
東京も今日、平年より二日はやく梅雨入り。
雨は私の活動をことごとく遅滞させるので、とにかく大嫌ひだ。
学生時代に初めて観るはずだった薪能が雨で中止となり、
山形県へ初めて黒川能の薪能を観に行った時もゲリラ豪雨に悩まされ、
同じく新潟県村上市へ大須戸能の薪能を観に行った日も日中が雨となり、
四月の大須戸能の定期能を観に再び村上市へ出掛けた時は、帰りの列車に乗るまで本降り、
佐渡島へ佐 . . . 本文を読む
携へた夏扇も、この緑地帯では涼を取るより、虫を払ふのに役立つくらゐだ。
どこかの大學で『山岳部員募集』と、いかにも太平楽どもらしい立看板を見かけたが、これから社会へ出ればいくらでも、人生の谷やら崖やらを、滑り落ちることが出来るわえ──
などと憎まれ口をきひてゐるうち、彩重(いろへ)なる梢の間から、藁葺きの大屋根の覗くのが見えた。
この先に里があるらしい──
私は心が躍った。
……だが . . . 本文を読む
太陽の照り返しがしばらく続ひた坂道から、ようやく木陰に入ると、そこの道端には紫陽花が咲ひてゐた。
その涼しげな色は、
今日の暑さで煮立ったやうになった私の心に、
一服の清涼をもたらした。
目的地へは遠回りになるが、この坂道を選んだことは誤りではなかったと、私は自身をもった。
さうだ、この坂道の頂きには水飲み場があった。
涼しく休めるベンチもあった。
陽は長い。
目的地には、日 . . . 本文を読む
好きだった寝台急行の名称を題名に冠した“トラベルミステリー”が、いかにも量産型作家の手らしく陳腐なご都合主義に富んで期待はずれだったので、正午からは昨日も出かけた横浜の海を、再び見に行く。
大桟橋から山下公園方向を望むと、地先ではドラゴンボートとやらのレースが開催されてゐた。
舳先に背中を向けて座った音頭取りの打つ太鼓に合わせて、二列に並んだ漕ぎ手が呼吸(いき)を揃へて櫂を漕ぐ。
み . . . 本文を読む
横浜の日本新聞博物館ニュースパークの企画写真展、「よみがえる沖縄 1935」を見る。
1935年(昭和10年)に朝日新聞社の記者によって撮影された沖縄のフィルムが、約80年の時空(とき)を経て、大阪本社で発見された。
そこには、1945年(昭和20年)の惨禍に見舞われる前の、平和で、のどかで、独自の文化をもって日常生活を送る沖縄の人々の姿が、ありのまま記録されてゐた──
カメラに笑顔を . . . 本文を読む
平成23年3月11日、宮城県東松島市野蒜の女子児童が、避難先の小学校から両親以外の保護者に付き添われて自宅に帰ったところ、津波に巻き込まれて亡くなった件につひて、最高裁判所は原告の遺族の訴えを認め、被告の東松島市に賠償金を支払ふやう命じた──
と、ニュースが伝へてゐた。
「野蒜(のびる)」といふ地名に、私は思ひ入れがある。
それは震災から四年後の平成27年夏、あの日自分も都内で激しい揺れに . . . 本文を読む