喫茶 輪

コーヒーカップの耳

「滉よ」

2016-01-25 16:15:21 | 
前の記事で「火曜日」92号のことを書いた。
ついでに、それに載っている「滉よ」を。
2007年11月発行だから、8年前です。

    「滉よ」より

  実験

くるくると回っている
同じ場所で
くるくると回っている
初めての体験
目が回るのを確認している
これはなんだろう と思っている
体がふわふわして
どこかに吸い寄せられるような
わけのわからない感覚。
それを確認して
一旦止まり
やがてまた回り始める
次は逆回転だ
ふらふらしてきたら
また止まって しばらく考え込んでいる。
これは何だ
この正体は何なのだと
何度も何度も
右回転左回転を繰り返して
自分の体に起こる
この不思議な出来事を
試している。
             (二歳)

  いたずら

爺の靴を持ち去って隠している
ダメ!と言うとよけいにやる
ダメと言えば言うほど
喜んでやる
トマトみたいな顔で笑っている
こんなにおもしろいことがあろうかと
爺の反応を楽しみながらやる
叱れば叱るほど楽しそうだ。
             (二歳二カ月)

  プライド

素直な子だったのに
「ごめんなさい」を言わなくなった
「ごめんなさいは?」と言っても
無視する
ほかの言葉は何でも言うのに
「ありがとう」や「おかえりなさい」は
素直に言えるのに
「ごめんなさい」だけは言わない
何度も強いると
素知らぬ顔で絵本を開いて指さし
「ワンワン」とか言って話をそらす
「ごめんなさい」という言葉には
へりくだる姿勢があると気づいたのだ
へりくだる理由が納得できないのだ
「ごめんなさい」と許しを乞う理由が
滉には解らないのだ。
             (二歳二カ月)

  意地悪

仏壇の前で爺がお経を始めると
滉は爺の横に座り
合掌し木魚をたたく
爺は鐘をたたく
すると滉は
撞木を爺から取り上げ
今度は鐘をたたく
爺が木魚をたたく
滉はあわてて木魚をたたく
爺が鐘をたたく
滉はどちらも自分がやりたくて
木魚の撞木を遠くに
爺に取られないように
ずーっと前の方に置いてから
鐘の撞木を取った。
             (二歳三カ月)

この時の滉が、今の文実と同い年だ。
文実は今、これほどしゃべれない。
言葉の習得は滉の方が大分早い。
しかし咲友はもっと早かった。
個人差が大きい。

因みにこの号の「すくらんぶる」(あとがきのようなもの)にわたしは次のように書いている。
≪孫を見ていて、その成長ぶりに感心する。次々と訪れる成長の節目がおもしろくて仕方がない。自分の子どもの時には気づかなかった節目が無数にある。その感動を書き残しているのだが、私家版の詩集がもう七冊にもなった。その中から選んでこの「火曜日」に発表しているのだが、取捨に迷う。≫

この時はまだ孫は一人だった。今五人。
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北野和博君の詩

2016-01-25 15:34:03 | 
【阪神パークの動物像、その後】

一昨日のブログに阪神パークの動物像のことを書いた。
そして、以前、「火曜日」同人だった北野和博さんがこの像のことを詩にしていたと思うと書いた。調べてみようと。
今日、バックナンバーを調べてみました。
やはりありました。

「廃園」です。
2007年11月発行の「火曜日」92号。
もう8年も前だ。
彼、北野君(敢えて北野君と呼ばせてもらう。いつもそのように呼んでいたので)は「火曜日」の中でもっとも詩人らしい詩人だったと思う。
というのも、想像力を駆使し、言葉をとことん選んで自分の世界を築き上げるような詩をいつも作っていた。見たもの、聞いたものをそのまま詩にするのではなく、普通の組み立てによる言葉では表現出来ないところのものを、彼自身の心象風景を、独特の言葉の組み立てによって作りあげていた気がする。
一読、易しい気がするが、もう一度読むと、「え?なに?」といった感じ。そして読み直して、彼の心の中にどれだけ入って行けるか?という感じ。
これはわたしの勝手な思い込みで、本人は「そんなことないですよ」というかも知れないが。
関連して、彼の作品が載っている本を紹介します。彼の詩集もあるのですが、それとは別に。
 宗左近さん編集の『あなたにあいたくて生れてきた詩』です。
これはわたしの古くからの愛読本なのです。
けど、彼の詩が載っているから買ったというわけではありません。
読んでいたら偶然彼の作品が載っていたのでした。
「家庭」です。

左近さんの解説が独特です。

この本をわたしが買った理由は、次の詩です。

こんなのが載っているのです。口頭詩です。どんな宝石よりも素晴らしい、言葉の宝石です。
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「生きているうちは、ひとは世のなかの役にたってしまう」

2016-01-25 09:59:49 | 宮崎修二朗翁
【昨日書いた宮崎翁の切り抜きの件に関連して】

一枚一枚、性根を据えて読ませて頂いていました。
朝日新聞の「折々のことば」というコラム。
うちは朝日新聞をとっていないので、宮崎翁がわたしのために切り抜いて下さっている。
それは昨年春、このコラムが始まって以来ずっと。
なんとありがたいことでしょうか。
そして昨年末からの入院、入所以後も続けて下さっているのだ。
しかし昨日も書いたように施設では鋏を身辺に置かせてはもらえないのだろう。
手でちぎって下さっている。
これ、やってみるとなかなか難しいこと。
この写真の一枚も千切りあとが痛々しい。
先生のその時の姿を思うと、胸が痛い。



さて、この石田千という人の言葉、
「生きているうちは、ひとは世のなかの役にたってしまう。」に息が止まってしまう。
ドリアン助川さんの小説・映画「あん」に底流するテーマではないか。
このコラム、続けて、鷲田清一さんがこう書いておられる。

≪例が面白い。犯罪者だって、警察が動けばガソリン補給や張り込み中のパンが必要となるし、尋問中は出前のカツ丼を食べ、収監されると職業訓練で人々に貢献する。つまりは「金銭物資の流通」が起こる。どんな人も役に立つから存在に意味があるのではなく、ただいるだけで意味がある。が、そもそも役に立たないでいることが難しいと小説家は言う。「役立たず、」から。≫
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「ブーケの里」続き

2016-01-25 08:36:47 | 宮崎修二朗翁
昨日の「ブーケの里」の続きです。

わたしのためにしてくださっていた新聞の切り抜きを持たせて下さいました。
帰ってきてから封筒を開けたら、こんなメッセージが。
「今村さん 貴兄の血になってくれる―そう思って毎日この小欄を切りぬきました。鋏のありがたさ、すべてのありがたさ」とあります。

わたし迂闊にも、初め「鋏のありがたさ」が何のことか分かりませんでした。
ところが、切り抜きを見て、一気に涙がこみ上げてきました。
よく「涙が出る思い」と書いたりしますが、本当に涙が出ることはあまりありません。
でも今回は…。
翁の身の回りに鋏がないのだ。多分、施設では鋏を持たせてもらえないのだ。
だから、切り抜きは手でちぎっておられるのだ。なるべく傷まぬように。
コメント (2)
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