喫茶 輪

コーヒーカップの耳

50年前の写真、そのⅡ

2016-02-06 16:30:26 | 懐かしい話
50年前の写真の二枚目。

これは涙が出るほど懐かしい。
こんな写真があったなんて本当に驚き。
これも、前の店先の写真と同じ時に撮られている。
店の前のスバルサンバーが同じ位置に同じ方(西)を向いて止まっている。
その向こうの黒い板塀は「日本盛」の酒蔵だ。
二階建だが大きな建物で、普通の三階建ぐらいの高さがあった。
今はコンクリートの瓶詰め工場になっていて、しかし酒も不況で、しかも瓶は特に売れないからほとんど稼働していない。

真ん中にハカリ(計量機)があります。
これは100キロまで計れました。ボクサーが試合前に乗る台計りと同じ。
が、米は30㎏まででした。
というのも、お米は容器に入れなくてはならないので。
写っている真鍮の容器が30㎏しか入らないのです。


横に竹製の籠があります。なんとなく覚えている程度。

その下の紙袋は30㎏入った米の袋です。
車のない頃はこの30キロ紙袋を運搬自転車に3袋、多い時は4袋積んで走ったこともありました。染殿町にあった西宮中央病院に納入してましたので、一度に300㎏の注文がありました。
自転車が転倒して、紙袋がバッサリと破れて情けない思いをしたことも。

左端にある機械は精選機です。
俗に「石選り機」と呼んでました。
お米の中に混じっている小石を選り出すのです。
この機械が発明されるまでは、手と目で選っていたのです。
だから白い石は見逃し勝ちでした。
通し網の上で、手でシャラシャラと。
大変手間のかかる仕事でした。
あるいは斜面にガラスがあって、そのガラスの上を、お米を少しずつ滑らせながら選り出す、そんな道具もありました。
この精選機は石と米の比重差を利用して遠心力で選りわけるものでした。
これを導入して大変楽になったのでした。

その手前、カーブを描いているものがあります。
これは樽です。大きな樽の一部が写ってます。
高さ50センチばかり。直径は150センチ以上あったと思います。
米が入っているのです。
写真にもかすかに写ってます。
一番よく売れるコメがここに入っていて、すぐにハカリで計れるようになってます。
計りの上に「スクイ」が突き刺さってます。
あれで樽のお米をすくって計るのです。
ああ、こんなこと書いてたら懐かしさがこみ上げてきます。

写真の後ろの方に棚があります。
キッコーマンの醤油の瓶があります。
そう、醤油やソース、酢などの調味料も売ってました。
本日休業の札の左にある段ボール箱は小麦粉が入っている箱ですね。
日本製粉のハート印の小麦粉を売ってました。
そしてその横。レターケースがあります。
鎧戸を下ろしたような。これ、今も使ってます。
その上の棚、左端は「ポリライス」の箱です。
ビタミン強化米です。
その箱の上にあるのは多分タオル。うちの店の名前の入った、お客さんへのサービス品です。
その右にあるのが、「いの一番」の入ったプラスチックのケース。
「いの一番」が入ってます。
「いの一番」とは、タケダが出していた総合調味料。
これ、よく売りました。
「5’(ゴ、ダッシュ、リボヌクレオタイドナトリウム」なんて早口言葉のような言葉も覚えて販売促進しました。
これを売るコンクールを「タケダ食販」(親会社は武田薬品)がやって、温泉旅行に行ったりもしました。
古き良き時代でした。

この写真見ていると、忘れていたこといっぱい思い出します。

しかし米袋の上に無造作に集金カバンが置いてある。
なんかのんびりした感じが時代を表しているようで。
でも忙しかった。

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50年前の写真

2016-02-06 15:45:03 | 懐かしい話
古いものを探していたら、驚く写真が見つかった。
丁度50年前の写真だ。

写っている人は、お米を仕入れていた卸会社「阪神米穀㈱」の山田さんだったと思う。
前に止まっている車は「スバルサンバー」。軽自動車で、わたしが買った初めての新車。
それまでは中古車を二台乗った。
最初は昭和36年に「マツダK360」という軽三輪。これは死ぬ直前の父が今津の自動車屋さん(今もある)に「いい中古が出たら」と注文していたのだった。
11万円で買って、毎月1万円ずつの支払いだった。
それは2年ほど乗って、次に「マツダB360」という軽四輪だった。
これは同業者の前浜米穀店さんのお下がりを、阪神米穀の営業をしておられた内海さんという人が仲介して下さって購入したもの。
いわば素人さんから買った。
この車はダメだった。よく故障した。一年ほど乗って廃車にしたような気がする。
そして買ったのが写真の「スバルサンバー」。
これは鞍掛町の43号線沿いにあった自動車屋(松野といったと思う)から買った。
車高が低くて、重い大きな物を積み下ろしするのに便利だった。
混合燃料だったので、青い排気ガスを吐きながら走った。

自転車が写っている。
もしかして運搬車?と思ったがよく見ると違う。
車の時代になっているので運搬車は処分したのかもしれない。
今「神戸新聞」の朝の連載小説「むーさんの背中」に出てくるような運搬車が懐かしいのだが、残念。
その横に薪が積まれている。
道路に平気に積んであります。
そんな時代だったのですね。
これはご飯を炊いたり風呂に焚いたりする燃料です。
「クヌギの尺六」とか「尺二」とか言ってました。
長さ、一尺六寸とか一尺二寸の意味です。
あるいは、焚きつけに使う細い薪を「スギボソ」と呼んだり。
「スギボソ」とは杉の細いのという意味です。
他に「スギマル」というのもありました。この写真の薪の左端、自転車の横に写っているのが「スギマル」ですね。
軒に「いの一番」の看板があります。
しかし他にややこしいものが写っていません。
ということはこの写真、多分「阪神米穀」さんが写したもの?
というのも、これ、店先を改修したとこみたいです。
パナペットに「今村米穀店」と書かれた文字も新しい。
そして、阪神米穀の社員の山田さん(事務方だったと思う)が写っている。
今、このブログを書きながら思いついたのだが、多分、この改修の費用の一部を「阪神米穀」さんが負担してくれたのでは?と思う。
だから写真が必要だったのだ。
あ、しかし違うなあ。阪神米穀の「ハ」の字もない。
そうだった、阪神米穀に一部負担してもらったのは、もっと後の看板テントに阪神米穀が扱うお米「水晶米」のロゴを入れた時だった。

車の向こうに板塀の倉庫が写ってます。
わたしが子どものころに、父親になにかで叱られて閉じ込められた倉庫です。
その時、すぐには許してもらえそうになかったので、積まれた炭俵の上で寝ころんでいたことを思い出しました。
この倉庫の場所に、後年、先ず小さな喫茶店を開いたのでした。
この昭和41年はまだまだ倉庫が必要な時代。
燃料がいっぱい入っていました。
夏の季節に、冬に売る木炭や煉炭をぎっしりと詰めてました。
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公民館のステンドグラス

2016-02-06 12:10:05 | 将棋
「宮水ジュニア・将棋教室」でした。


講座の前にちょっとお話しをしました。
三階講堂の天井近くの明かり取り窓のステンドグラスについて。


いつもはカーテンが引かれていて気づきにくいのですが、今日、開けてみました。
きれいなものです。
そこで子どもたちに「これはなあ…」と話したのでした。
昔、市役所の南に図書館がありました。
わたしが子どものころに通った図書館です。
重厚な感じの建物でした。
そこで江戸川乱歩の本など借りたのでした。
そして、ノーベル賞、今か今かと言われている村上春樹さんが子ども時代に通った図書館でもあります。
もしかしたらわたしも出会っていたかも…。
昭和3年に酒造家辰馬吉左衞門の寄贈により建てられたということです。
そこには素晴らしいステンドグラスがはめられていました。
昭和60年に解体された時に、市内各所の図書館や公民館に分けられて再利用したのでした。西宮市もなかなかシャレたことをしたのです。
そんな話を子どもたちにしてから、将棋の授業に入って行きました。
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