先月26日(火)に「さくらFM」で杉山平一先生の詩集『希望』を紹介した。
その時あるリスナーさんからメッセージが入っていたのを後で知らされた。
「杉山平一さんの「生」という詩をお寺の法話で聞いたことがある」というもの。
わたしは多分この詩だと思うと答えたのが、次の詩。
「生」
ものをとりに部屋へ入って
何をとりにきたか忘れて
もどることがある
もどる途中でハタと
思い出すことがあるが
そのときはすばらしい
身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか
いつの日か思い当るときのある人は
幸福である
思い出せぬまゝ
僕はすごすごあの世へもどる
(詩集『ぜぴゅろす』1977年より)
この詩をパーソナリティーの久保さんは、その顛末と共に先日12月10日の放送で紹介された。
法話で使われたというそのお寺さんが、わたしは気になります。どんなお坊さんなのでしょうね。
たしかに法話に使える詩です。
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