◇ブリキの太鼓(1979年 西ドイツ、ポーランド、フランス、ユーゴスラビア
劇場公開版142分 ディレクターズカット版162分)
原題 Die Blechtrommel
英題 The Tin Drum
staff 原作 ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』
監督 フォルカー・シュレンドルフ
脚色/ジャン=クロード・カリエール フォルカー・シュレンドルフ フランツ・ザイツ
追加台詞/ギュンター・グラス
撮影/イゴール・ルター 美術/ニコス・ペラキス ベルント・レペル
衣裳デザイン/ダグマー・ニーフィント 音楽/モーリス・ジャール
cast ダービット・ベネント アンゲラ・ヴィンクラー シャルル・アズナブール
◇自由都市ダンツィヒ
いまでは、グダニスクっていうんだけど、
ナチスドイツがポーランドへ侵攻した時代は、
ドイツ語読みでダンツィヒっていった。
ぼくの学生時代はどうだったんだろうっとふとおもったが、忘れた。
でも、どちらの名前もすんなり頭に入ってくるから、
もしかしたら、並列の形で授業では聞いていたのかもしれない。
そのダンツィヒが舞台だ。
原作は読んだことがないからなんともいえないんだけど、
どうやら、3歳で成長を止めてしまった太鼓叩き似非少年は、
戦後になって成長することにした後、精神病院に収容されるらしい。
一連の物語はその病院内での回想だそうだから、
この映画は回想の一部分、つまり3歳でいた時代だけを映像化したことになる。
それにしても、物語はどこをどう切り取っても、エログロの趣味の悪さに満ちている。
醜悪な映画といってもいい。
だいたい、母親が淫乱で、
ポーランド人の夫がありながらドイツ人の従妹と不倫し、その関係はずっと続いてる。
それは別に大したことではないし、かまわないんだけど、
問題は、オスカル(ダービット・ベネント)はいったいどちらの息子なのかってことだ。
本人にもわからないんだから、観客にわかるはずもない。
さらに母親が狂死してしまった後、後添いにもらった娘に、
小人オスカルもまた恋をし、3歳でありながらセックスにいたり、
彼女が生んだ子供もまた、父親の子なのか自分の子なのかわからないっていう、
なんとも生理的な気持ち悪さがついて回る。
ただ、なんでこんなにこの映画が気持ち悪いのかってことを考えないといけない。
成長を止める特殊能力、超音波、不倫、暴力、戦争、セックス、死体、破壊と、
なにもかもが生理的な嫌悪をもよおすようにわざと描かれているのは、
いうまでもなく、自由都市ダンツィヒを蹂躙したナチスにあて擦られてる。
ふたりの父親はダンツィヒの象徴である自分を支配したふたつの勢力、
すなわち、ポーランドとドイツであり、翻弄される人々はダンツィヒの市民だ。
小人たちはサーカスの巡業をしながら、ナチスの支配と戦争をまのあたりにする。
それは、成長を止めてしまったのではなく、
この時代を彩っている戦争に加担せず、
あくまでも客観的であろうとする強烈な意志の象徴だってことは徐々にわかる。
けど、
小人であるがために、大人たちの醜い世界を知らずに済んでいるかといえば、
実はそうじゃない。
小人であっても精神的には大人になっているわけで、もちろん、セックスもできる。
結局、自分たちは責任逃れをしている大人にすぎなかったという衝撃と理解は、
オスカルをふたたび成長させるきっかけのひとつになったのかもしれないけど、
それにしても、別な観点から余談をすれば、
オスカルを演じたダービット・ベネントのおとなびた眼差しはどうしたことだろう。
映画に出演したときは若干10歳だったっていうんだから、驚きだ。
ほんとうに成長が止まってしまった小人が演じてるのかとも一瞬おもったけど、
それにしては肌も若いし、実は均整のとれた姿をしている。
他の小人と違うのは明らかだから、少年がそのまま演じているのは納得できる。
でも、途中で錯覚してしまうほど、眼差しはいかがわしい。
成長が始まるとともに超音波でガラスを木っ端微塵にする超能力も失われ、
同時にブリキの太鼓へのこだわりもなくなっていくんだろうけど、
それは、
少年の時代というある種の特別な時代に別れを告げることを意味しているわけで、
これについてはありきたりといえるのかもしれない。
でも、
人間も世の中も精神もすべてが醜悪に作られている映画ってのは、めずらしい。
それだけに、印象は強烈だよね。