いつかはやろうと思っていたネガフィルムのデジタルデュープを続けている。目下モノクロフィルムにとりかかっている。外は寒く家に閉じ込められているときでないと絶対にできない仕事だ。春が来るまでには終わらせたい。
もう50年前のネガなどがあり私が中学生の時だ。そんなネガはすててもよいのだが、やはり写真屋の息子だったDNAがあり、デュープをつくるまでは捨てられないという根性が邪魔をしている。結局1964年から1968年頃のネガがかたまってでてきた。これから取りかかるか。
おかげて、中学1年生の時に画像と向き合う事になった。親父のお下がりのオリンパスペンEESだ。ハーフサイズでプログラムオートであり、はじめて写真の面白さに乱写といってよいだろう。傾いたりピントが合っていなかったと実にへたくそな画像であり、こんな画像が価値があるとはとても思えないがじっと耐えてデュープしている。
そんな写真が人並みに撮れるようになったは、中学3年の頃Canon6Lを親父から頂戴してからだ。なにしろ機材が買えるような家庭ではなかったのでいつもお下がりばっかりであった。一番安い露出計だけ購入し、写真の原理も勉強して人並みに撮れるようになった頃である。
暮れも押し迫ってたころ、友達の鉄ちゃんに誘われて銀座の都電(路面電車)がなくなるというので、その最後の日の夕方撮影に出かけた。地下鉄室町の駅を上がって日も暮れた霧が霞む曇天の街並のなかに、そこだけとても大きな黒い空気の塊のようなものがのしかかってくる異様な気配を感じた。いまは取り壊されてしまった辰野金吾設計の第一生命館が都電の背後にそびえていたからである。なくなる都電を撮りに来たのだけど、初めての建築体験だった。
デュープをつくるという作業は、自分の過去と向き合わざるをえない。高校1年時の自分の顔写真をみると、もう頭8:2分け眼が細く指名手配の犯人みたいな顔だ。そりゃ根暗そのもので、女の子からも疎まれ堅く心を閉ざしていたし、それに豊かな家庭環境でもなかった。逃げるように写真に逃避し、といって写真部に在籍するわけでもなく自分勝手に撮影していたのだから旨くなるはずもない。当時の画像のデュープをしていても絶望の時代の空気が漂っている。こんなの保存する価値があるのか・・・。
あるとき、そんな根暗な世界と決別する時がくる。多分高校2年生のときにワンダーフォーゲル同好会で山を歩き始めたあたりからだろう。その頃から写真と根暗な世界から遠ざかり、そして人間性も変わっていったのである。デュープしながらそんなことを思い出していた。
画像は、2008年7月30日ブログの再掲載である。
東京都中央区室町銀座通
Canon6L,Canon lense50mm/F1.4,NeopanSSS