Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

EOSな日144. 取捨選択の世界

2018年02月08日 | field work

 撮影機材のシャッターを押して、その音や感触に陶酔している人がいる。たしかにライツなどは心許なくボシュという感じだし、EOSは甲高い金属的な音や感触である。だがシャッターの感触云々というのは、あまり撮影しない人の話だ。

 フィールドに出向けば、大半は移動中、僅かの時間で数多くのシャッターを押していると、その音や感触に嫌気がさしてくるし、それ以前に撮影する意識的な行為そのものに飽きてくる。それでも撮影するというのは、まあ拷問かな。

 皮肉なことにそんな瞬間に魅力的な被写体が現れたりする。

 この日も大理周辺の集落を徘徊していた昼頃、突然正面の小学校から大量の小学生達の大きな歓声が聞こえ、走ってこちらに向かってくるではないか。そうお昼を食べに家へ帰るのである。そのとき私は気が抜けている状態だったので、その光景に見とれていた。当然撮影していれば、古民家の集落の道の正面に見える古い小学校から飛び出してくる、ものすごく元気な中国の小学生達のよいカットが撮れたのだが、こちらは建築と集落が主なのでという意識が撮ろうとする意欲を鈍らせた。

 そんな小学生達の姿には、もうタップリ勉強したという充実感と賢そうな顔をみて、この国はこの先もっと発展してゆくだろうという予感を感じたのである。他方で日本の小学生のモサッとした顔を思い出していた。やがて日本は中国に抜かされるんだろうなとそのときに感じたのである。そして現在は、GDPでみれば日本は中国に抜かされている。だからある国に投資しようとすれば、小学校へゆくとよいというのが、私の持論になった。

 ようやく我に返り、露天にたむろする小学生を捉えたわけだが、よいカットはのがしたな。

 撮影することが楽しいなんていうのは、撮影機会が少ないからいえる話である。

 次から次へと集落を回り、何を撮せばよいかと頭をフル回転させ、アングルを探し、などということを1日に何百回もして、それを10日間続けていると先ず頭が疲れてしまう。それにEOSのシャッター音は何百回も聞かされてくるとものすごく飽きる音質なんだよね。

 だから時折意識が抜けたように頭を休めているわけだし、そういうときに限って被写体は現れ、そして撮りそびれる。そんなときに、露出補正だのシャッター速度の選択だのは、いちいちやってられない。だからオート設定で機械的にシャッターを押すだけ。日本に帰ってphotoshopで補正すればいいじゃんというのがフィールドワークの撮影スタイルだ。画像は取捨選択の世界だと思っている。

 さて京都は朝晩零下の気温であり防火用のバケツの水も堅く凍っている。しかし青い空ばかりの景色だ。他方で北陸では豪雪で交通機関と物流が止まっていることが新聞で報じられていた。その雪を少しこちらにもにもわけて欲しいのだが、相変わらず山を越した乾燥した空気の晴天が続く。こうなるとインフルエンザの流行りそうな気候だ。やだなぁーと思いつつ、寒いだけの京都暮らしである。今日は久しぶりに早起きした。寝具でも取り替えて洗濯しようかと思わせるぐらいの晴天なのである。

 

中国雲南省大理・周城, 1999年8月

EOS3,EF28-135mm/F3.5-5.6,コダクロームⅡ

 

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