このブログで官能小説を書いている、といってえばれる程のものではないが、面白いのは小説の舞台が実際にあるので、なるほど物書きの感性はこんな感じかなと少し作家の頭の中をのぞくようで面白い。
小説も最初の頃は、小樽を見ずに、こんな景色ならありそうだとするイメージだけで書いていた。そうしたイメージが現実と一致するかどうかは、さして重要な事ではない。小樽の空気を表現できればよいのだろう。
古来小説には、様々な舞台が登場する。だからといってそうした舞台を訪れても、それは文学的充足感であって、書いている立場からすれば、どうでもよい事なのだろう。
舞台は小説の中で作家の感性で仕立てられている。だから小説という虚構の世界の舞台は、芝居のセットに近い。それは作家の感性によってクリエイションされた京都であり、鎌倉であり、小樽だ。執筆するときの作家が参照した情報といってよく、それは作家の頭の中の話だろう。
だから名作の跡を訪ねるというのは、作家のクリエイションと関係性は薄く、むしろ文学的趣味といえそうだ。
そういってしまうと、文学紀行番組が成立しなくなりそうだけど、芸術の世界において、創作すること、作品を享受することの間は大きな落差がある。その落差が芸術を成立させているという見方もできそうだ。
難しい話になった。
イメージとしての小樽と、実際の小樽とは、違うのだという事であろうか。
NIKON F3+MD4,Carlzeiss Dostagon25mm/F2.8,Tri-X400
Tri-X400+2増感処理、現像所:写真弘社