トップの画像は、東京都墨田区東向島。
永井荷風「墨東奇譚」の舞台。そして戦後の売春街であった。永井時代の民家は東京大空襲で焼かれてしまったとしても、戦後滝田ゆうのイラストで描かれていた玉ノ井の風景はあるのだろうか?。そんな目的で街を徘徊したが、その残渣も発見することができず、日常的な下町商店街だった。だから口直しに浅草を回り、アメヤ横町でフィールドワークは終わった。
当時コニカが製品開発(1999年)したヘキサーという、平成の時代にあっては珍しいレンジファインダーボディにズミクロンを抱えてのフィールドワークだった。コニカは熱いマニアの期待に応えたが、2005年にはブランドそのものが消えてしまった。マニアの期待に答えると売れない機種になるというジンクスは、ミノルタCLEに続く二番目の悲劇である。
しかもほどなくデジタルカメラが勃興し、私の手元でそれは活躍することなく、知人にわたってしまった。コニカも後のミノルタを吸収し、コニカミノルタとなるものの、その後カメラ事業部はSONYに売却される。
玉ノ井という当時の街が消え去り、撮影機材メーカーが消え去り、私の手元からズミクロンも消え去った。そのすべてが程なく消え消り、今では記憶のなかにしか存在しないフィールドワークだ。
東向島の裏通り。京都島原、東京吉原などの来歴をみれば明らかだが、遊郭の所在は時代によって移り変わる。時の権力者が邪魔だ!。あっちへゆけ!、といえばサッサと遊郭の街毎うつってしまう。玉ノ井も戦前と戦後では、少し場所が動いている。といって街にその痕跡があるわけではない。フィールドでは、古い民家をみて見当をつけたりするが、大体は外れている。現実がどうであったかという事よりも、往事のイメージを形成するオブジェクトが点在していればよしとしている。
東向島。民家は古いが遊郭ではない。下町によくある木造モルタル塗りのアパートだろう。共同の台所とトイレがあるというイメージは、外観からうかがい知れる。昭和の頃、こんなアパートで一家4人が暮らしていた。
東向島の路地。民家は古いが、遊郭の意匠が見られない。むしろ滝田ゆうが出てきそうな路地の奥である。こんな民家の物干し台からみた風景も情緒があったのだろうし、それはしばしば映画の舞台にもなっていた。
浅草仲見世通り。左側の老人は玉ノ井に遊郭があった頃に存在していた。周囲に威張りくさり不機嫌な空気を漂わせながら、遊郭にいれあげていたのが内実だったというのはよくある話だ。だから当時のシニア達の会話は、遊郭の経験談で盛り上がっていたはず。今は、精々孫の自慢か個人の趣味的話題ぐらいだから、他者は共感する余地もなく耳も貸さない。そんな共感がなくなって痴呆症が社会的に取り上げられるようになった。そう考えると往事の老人達の遊郭通いはボケ予防になっていたかもしれない。
浅草仲見世の裏通り。概して大通りの裏にゆけば何かある。それが街歩きの知恵だ。提灯がないと上海と思わせる空気が漂う。上海であれば、もっと面白かったが・・・。
フィールドワークに出かける時、街をイメージしてこんな写真が撮れるかなとスタディはする。実際はイメージから大きく外れている場合がほとんどだ。だから〆はよいカットがとれそうなところで口直しをする。
Konika Hexar RF、Summicron50mm/F1.4、Tri-X400