図書館で借りた本の返却日が過ぎ、連絡があったので、太陽の日がさんさんと照る中、本の返却に行き、新しい本をリクエストすると、市内の他の図書館から、取り寄せるために予約が必要で、図書館のパソコンから手続きをするとパスワードエラーとなり、家で確認のために、そのまま帰宅しました。この日は、何か不思議なことがいくつか起こりました。何度もチェックしたのに、返却すべき本が不足、パスワード入力は間違いではなかった、予約は、返却遅延のため不可になったのでは?。
京都新聞の連載小説「家康」(飛躍篇)が突然『完』。本日から別の連載が始まった。毎日楽しみにしていた読者は、特に家康ブームのなか、怒りプンプンだろうなと思う。2016年もそうだったように、またしても、新聞社の身勝手で続編を掲載せずに、6年後にいきなり中途半端な場面から飛躍篇を再開したが、今回の対応もしかるべきコメントをいただきたいものだ。今一度、文庫本と単行本でカバーするがごとく、読みだした。それにしても、安部龍太郎氏の歴史分析考察には、圧倒されている。

ここ半年程、安部龍太郎「家康」の新聞連載切り抜きを探していたが、保管されている場所にないものだから、捨ててしまったと思っていて、あきらめていた。ところが、異なる他のものを探していた時に突然、家康様が堂々と登場したのだ。来年のNHK大河ドラマ『どうする家康』に関して周辺が騒がしくなり、今一度読みたいものの一つである。
最近、おかしなことが起こっている。その一つ。新聞連載「家康」を毎日切り抜いているが、2か月間ため込んだ新聞に目を通すと、家康の8/3分が切り抜かれてなかった。しかも、目を通した最初の新聞で大発見。安部龍太郎の家康の飛躍編、公家・秀吉・家康とその家来・北条・などなどが実に詳しく述べられている。本能寺の変なども面白い。家定日記をよく読み、記述しているところが好感を持つ。
またまた、断捨離やっています。1昨日から、本棚の整理をしだしました。案の定、出版物の中身を見ると、もうほとんど進みません。それでも、コンピュータ関係の出版物は、30年前は、LAN・マルチメディア関連、20年前は、インターネット関連が多いのがすぐにわかります。40年前の、汎用コンピュータ時代のオペレーティングシステムについては、コンピュータの基本ソフトウェアの仕組みですから、これは、まだまだ、保管ということになりました。ビジネス書も随分、ありますが、ほとんど「つんどく」だったかな。そして、やはり、捨てられないのが、「松下幸之助」の人生学・経営学です。これは、よく読み鍛えられました。



小さい時から読書は苦手である。というか、時間を要することに関しては、苦手であることの1例である。だから、小説は読めない。その結果、現代国語という学科は、まるっきし出来が悪かった。日本語を喋るのも下手で、これの影響が英語にまで達しようとは、一生の不覚である。それでも、企業で少し鍛えられたのか、ビジネス書は否応なく読み漁った。昨日は、通院している耳鼻咽喉科の診察待ち時間に、久しぶりに手持ちの本を広げた。『坂の上の雲』である。定年後、初めてといってよい小説を読み、司馬遼太郎の世界に魅了されていった本である。闘病生活をおくる正岡子規や律や虚子、そして、真之が登場する。病に侵されながらも毎日世の拷問以上の痛みを言葉で表現するその場面が切々と浮かぶ。そして、いよいよ亡くなる時を表現する司馬の絶妙なる言葉の展開、何回呼んでも心が震え、感動を覚える。今まさに、自分がやりたいことは、これだ!っと。そんな時に、看護婦さんから、名前を呼ばれた。

10月2日(日)AM、中央図書館にて
1.10/28ウォークのポスター掲示を依頼。12月までのTHK会場予約の確認。
2.館長と雑談。文化講座には、今まで伝わる話のほかに新しい情報も取り入れて、面白くしてほしい。
3.館長と雑談していたら、その前を可愛い女の子が泣きながら歩いていく。女性の職員さんがどうしたのと聞くと「おじいちゃんが・・・」と言っている。もしかしたら、近くにいた知り合いのあの人かもしれない。そうだ今日は、孫が来るって言っていたなと思いだし、女の子に、「Mさん」と呼びかけると、うなずく。それで安心したのか手をつなぎ待っていると、Mさんが戻ってきた。良かったよかった。
4.29日のウォークに参加された方が会釈をされたので、館長との会話終了後、「Hさんですね」と近づき、お礼と感想を聞く。「良かった、面白かった」と。また、気楽に話せる市民が増えた。
5.みずえの会 水彩画展を鑑賞
市民の憩いのサロンにもなる、「中央図書館」をさらに利活用のスペースとして、知的情報の集約・文化教育の発信拠点として、考えたくなるような、環境に仕立てていきたい。
1.10/28ウォークのポスター掲示を依頼。12月までのTHK会場予約の確認。
2.館長と雑談。文化講座には、今まで伝わる話のほかに新しい情報も取り入れて、面白くしてほしい。
3.館長と雑談していたら、その前を可愛い女の子が泣きながら歩いていく。女性の職員さんがどうしたのと聞くと「おじいちゃんが・・・」と言っている。もしかしたら、近くにいた知り合いのあの人かもしれない。そうだ今日は、孫が来るって言っていたなと思いだし、女の子に、「Mさん」と呼びかけると、うなずく。それで安心したのか手をつなぎ待っていると、Mさんが戻ってきた。良かったよかった。
4.29日のウォークに参加された方が会釈をされたので、館長との会話終了後、「Hさんですね」と近づき、お礼と感想を聞く。「良かった、面白かった」と。また、気楽に話せる市民が増えた。
5.みずえの会 水彩画展を鑑賞
市民の憩いのサロンにもなる、「中央図書館」をさらに利活用のスペースとして、知的情報の集約・文化教育の発信拠点として、考えたくなるような、環境に仕立てていきたい。
『火花』を読んだ。148ページ、2時間半。
・理屈っぽい長文章もあり(短文の連続もあり)、理解できない言葉使いや会話、お笑い芸人だから許されるかもしれない言葉のキャッチボール、目次のないだらだら文章、漫才ネタの披露などなど、小説として、一貫していないところに、面白みと特徴がある。
・現代は何でもアリの時代、まさに、高度成長期を経験してきた世代から窺うと、少数であるとは思うが、この年代の若者の生き方・考え方にノーと言ってしまうだろう自分の姿を思い浮かべている。一方、栄えた社会環境が自分たちを強力に後押しし支えてくれたからこそ我々の今日があるのもうなずける。
・一つ屋根の下で、3世代がそれぞれの役割を果たしてきた昭和の時代から核家族で個を重要視する時代となり、日ごろ話し合うことを避け、助け合うこともままならぬことになった今、人間の本質的で、最重要なことは、人と人との日ごろの会話・対話であることをあらためて感じた。
・主人公徳永は、相方よりも師匠の役割を果たした神谷と常に対話をしながら、漫才の技・話術、そして、日常を暮らしていく。その頻度が異常に高いからこそ、お互いに理解し引き合い、またお互いを支えたのである。最後の場面で初めて徳永は神谷を支えることになる。
※小説嫌いな凡人にとっては、芥川賞の評価は、全く縁遠いものであるが、本を出版する能力とエネルギーに改めて、又吉直樹氏を讃えたい。
・理屈っぽい長文章もあり(短文の連続もあり)、理解できない言葉使いや会話、お笑い芸人だから許されるかもしれない言葉のキャッチボール、目次のないだらだら文章、漫才ネタの披露などなど、小説として、一貫していないところに、面白みと特徴がある。
・現代は何でもアリの時代、まさに、高度成長期を経験してきた世代から窺うと、少数であるとは思うが、この年代の若者の生き方・考え方にノーと言ってしまうだろう自分の姿を思い浮かべている。一方、栄えた社会環境が自分たちを強力に後押しし支えてくれたからこそ我々の今日があるのもうなずける。
・一つ屋根の下で、3世代がそれぞれの役割を果たしてきた昭和の時代から核家族で個を重要視する時代となり、日ごろ話し合うことを避け、助け合うこともままならぬことになった今、人間の本質的で、最重要なことは、人と人との日ごろの会話・対話であることをあらためて感じた。
・主人公徳永は、相方よりも師匠の役割を果たした神谷と常に対話をしながら、漫才の技・話術、そして、日常を暮らしていく。その頻度が異常に高いからこそ、お互いに理解し引き合い、またお互いを支えたのである。最後の場面で初めて徳永は神谷を支えることになる。
※小説嫌いな凡人にとっては、芥川賞の評価は、全く縁遠いものであるが、本を出版する能力とエネルギーに改めて、又吉直樹氏を讃えたい。
五木寛之の『親鸞』激動編(上・下)に続いて、完結編を新聞連載で読んでいる。なかなか進展のない中、やっと核心に触れると思われることに差し掛かってきているように思う。
『歎異抄』に出てくる有名な「善人は悟りをひらくことができるから、悪人ができないわけはない。」一見矛盾を感じるが、ここでいう悪人は、自力では成仏できないので、仏にすがろうとするもの。逆に善人は必ず成仏できると信じこんでいる人。人は、願いや思い通りにならない業を背負って生きている。図らずして、善人でも殺人を犯すこともある。だから人を善人、悪人と簡単に区分けはできない。そういう恐れと不安の中に差してくる光が他力であり、救われるということであるとのこと。
だから、翌日の掲載分で、もう少しわかるかなと思ったが、場面が変わってしまった。残念ながら、もう少し突っ込んだ内容には、まだまだ時間が必要なのと、読者によく考えなさいと言っているようである。これが新聞連載の面白味のあるところである。
『歎異抄』に出てくる有名な「善人は悟りをひらくことができるから、悪人ができないわけはない。」一見矛盾を感じるが、ここでいう悪人は、自力では成仏できないので、仏にすがろうとするもの。逆に善人は必ず成仏できると信じこんでいる人。人は、願いや思い通りにならない業を背負って生きている。図らずして、善人でも殺人を犯すこともある。だから人を善人、悪人と簡単に区分けはできない。そういう恐れと不安の中に差してくる光が他力であり、救われるということであるとのこと。
だから、翌日の掲載分で、もう少しわかるかなと思ったが、場面が変わってしまった。残念ながら、もう少し突っ込んだ内容には、まだまだ時間が必要なのと、読者によく考えなさいと言っているようである。これが新聞連載の面白味のあるところである。
情報交流させていただいている、明智憲三郎さんの『本能寺の変 431年目の真実』を読んだ。4年前の『本能寺の変 427年目の真実』を思い浮かべて考えてみると、裏付け捜査が深まりかなり突っ込んだ話題性高い内容になっている。多くの関係する古文書・資料をもとに、従来からの定説に対して自らの考えを捜査分析で展開されているのは、期待していた以上の痛快さを感じる。自己の『家康の伊賀越え』講演内容における疑問点が一つ解決(確認)出来た。家康が岡崎に帰還後の行動である。やはり、甲斐の武田旧領の対応に時間をとっていたのである。ただし、穴山梅雪が大浜に帰還後自害した論については、地元京田辺では、木津川の畔で家臣11人と自害した梅雪の墓があり、それを言い伝えた古文書があり、正室の見性院が墓の建設に数回京田辺を訪れている、等など。こう考えていると物的証拠、古文書や関係書類などの信憑性が最も問われ真実を追及する解析の在り方こそがあらためて重要ということがわかる。まあ、これらの事実を推理し楽しむのであればそれはそれでよいが、小説から得た情報やヒーロー、勝ち組、地元有利情報等が頭に刻み込まれる危険性は多分にあるので、真の実を理解したい人々は、やはり自ら、古文書や資料を読み分析しなければならない。このような行動は、よほどエネルギーがないと出来るものではなく、この本の出版に対して、あらためて拍手を送りたく思っている。