昨年、国会図書館の利用登録を行ったのであるが、この1年間全く利用しなかった。本日は、国会図書館で市民公開講座が午後あったので、午前中初めて利用した。時間が2時間しかなかったので、最も知りたい三重県史の分厚い本を調べた。来週現地調査に行く桑名と長島のことである。ある人物のこと、その先祖のことである。2時間半熱中したので頭と首が痛くなった。それにしても、凄く広いスペース施設と環境、照明は太陽の光、整然とされた書庫、セキュリティ、カフェテリア、すべてが初めての経験。本当に近くならば毎日訪れたいスポットである。ただ、容易に、望む書物・資料を得る事は難しいものである。でも、久しぶりに沢山の知り合いに出会ったので気持ちが軽やかになった。
雨がやむと、35℃という、暑い日がやってきた。急激な気温の変化に体がついていけない。少し動くと、体じゅうに汗がにじむ。こういうときは、何かに熱中して、暑さを忘れてしまう事をここ数年見つけ本日もそれに挑戦。久しぶりに、竹取物語の現代版に目をとおして、翻訳に隠された事をあれこれ考えてみた。それにしても、日本最古の物語、子供のお伽話どころではなく、読めば読むほど、奥深さと神秘を感じる。本日新たに感じたことを兎に角、書き出し、つじつま合わせや明らかに合わないところを、なぜ作者は、そう書いたのかと考えてみると、益々眠れなくなってきた。その間の暑さはすっかりどこかへ吹き飛んでいった。まだまだ、主題を追求するどころではない。逆に軽く、流せば、何ということはない、単純なお話でもあるが、そうではない・・・。
先日訪れた同志社大学ラーネッド記念図書館に行き、蔵書およびその場所の確認をしてきました。
家康や信長関連、古事記についても書棚の場所を確認、信長公記を2冊ほど、読みたいところだけ読みました。
もちろん、周りは、若さあふれる、1/3の年齢層の学生さんばかりです。
3大新聞紙の縮小版が8年ぐらいある。また、大辞典・辞書、雑誌類、ザーと。見て回るだけで、2時間。
目が疲れました。
平日は、9〜21時、土・日曜日は、9,10〜17時まで開館。
これだけ整えられているのだから、学生はしっかり勉強してほしいなあ。
もちろん、入館許可された市民も。
家康や信長関連、古事記についても書棚の場所を確認、信長公記を2冊ほど、読みたいところだけ読みました。
もちろん、周りは、若さあふれる、1/3の年齢層の学生さんばかりです。
3大新聞紙の縮小版が8年ぐらいある。また、大辞典・辞書、雑誌類、ザーと。見て回るだけで、2時間。
目が疲れました。
平日は、9〜21時、土・日曜日は、9,10〜17時まで開館。
これだけ整えられているのだから、学生はしっかり勉強してほしいなあ。
もちろん、入館許可された市民も。
今年は、古事記編纂1300年。
非現実的な幻想の世界はあまり好まず、古事記の資料をさらっと目を通しても、今ひとつ感動を覚えない。
しかし、うまくまとめてある雑誌風の本を読みだすと興味がわいてきている。
いにしえのお話しは、そのまとめ方、整理の仕方、プレゼンテーション力で随分と理解度や興味が深まるというのが、自論ではあるが、今、目を通している本は、中々のものである。
ことやものの繋がり、人間の考え、まんがの挿絵、現地写真、等がふんだんに盛り込んである。
いきなり、難しそうな資料というよりも、私にとっては、これぐらいから入門すると都合が良いのである。
もう1点、最初から読むのではなくて、興味を抱くところから、また、さかのぼり的に、いにしえに戻っていくのも中々のものである。
何でも、興味に繋がるようなものを見つけると、感動をいただき、良い時を過ごしていると感じるのである。
非現実的な幻想の世界はあまり好まず、古事記の資料をさらっと目を通しても、今ひとつ感動を覚えない。
しかし、うまくまとめてある雑誌風の本を読みだすと興味がわいてきている。
いにしえのお話しは、そのまとめ方、整理の仕方、プレゼンテーション力で随分と理解度や興味が深まるというのが、自論ではあるが、今、目を通している本は、中々のものである。
ことやものの繋がり、人間の考え、まんがの挿絵、現地写真、等がふんだんに盛り込んである。
いきなり、難しそうな資料というよりも、私にとっては、これぐらいから入門すると都合が良いのである。
もう1点、最初から読むのではなくて、興味を抱くところから、また、さかのぼり的に、いにしえに戻っていくのも中々のものである。
何でも、興味に繋がるようなものを見つけると、感動をいただき、良い時を過ごしていると感じるのである。
相変わらず、司馬遼太郎を読むことで、なんとなく、この世に生かしていただいている。
先週、『世に棲む日々』を読了した。
この本に、司馬ファンが評価するほどの興奮は、覚えなかった。
今でも、日本最高の歴史小説家であり、尊敬の念は、強いが、まだまだ十分読み切れていない、
凡人ファンということになろう。
小説を書きながら、第3者的な表現や少し、通り道をしながらのストーリーつくりは、
読者に誤解や難解なものにしてしまうのではないかと、ド素人ながらの論評である。
こういう時こそ、司馬遼太郎館に行って、ボランティアで活動する諸先輩の顔を見て
おしゃべりして教えていただくのが一番と思っている。
先週、『世に棲む日々』を読了した。
この本に、司馬ファンが評価するほどの興奮は、覚えなかった。
今でも、日本最高の歴史小説家であり、尊敬の念は、強いが、まだまだ十分読み切れていない、
凡人ファンということになろう。
小説を書きながら、第3者的な表現や少し、通り道をしながらのストーリーつくりは、
読者に誤解や難解なものにしてしまうのではないかと、ド素人ながらの論評である。
こういう時こそ、司馬遼太郎館に行って、ボランティアで活動する諸先輩の顔を見て
おしゃべりして教えていただくのが一番と思っている。
司馬遼太郎の小説、「世に棲む日日」の読む速度が極めて遅い。
本日で、最後の第四巻の176ページ。
なぜって言えば、他に、やるべき関心ことがあるからだ。
「竹取翁物語」 「多々羅」の調査であり、少し、雑誌やTVで興味あることがあれば、すぐ、
その関心事に惹きつけられて色々調べて時間が経っている。
特に、渡来人のことについて、知らないことがわかって来ると非常に興味が出てくる。
日本は、渡来人のおかげで、今日が築かれたと言ってもよいようだ。
本日で、最後の第四巻の176ページ。
なぜって言えば、他に、やるべき関心ことがあるからだ。
「竹取翁物語」 「多々羅」の調査であり、少し、雑誌やTVで興味あることがあれば、すぐ、
その関心事に惹きつけられて色々調べて時間が経っている。
特に、渡来人のことについて、知らないことがわかって来ると非常に興味が出てくる。
日本は、渡来人のおかげで、今日が築かれたと言ってもよいようだ。
小学生の同級生が、1992年に第38回の江戸川乱歩賞を受賞していたと知った。
恥ずかしいながら、20年前のことである。
小学生6年の後半と高校時代が同じ学校であったようである。
小学校時代は、みんなとあまり交わらずに、よく本を読んでいたので、漢字をよく知り、高校時代の現代国語の学力テストの成績が抜群であったことをよく覚えている。
本日、その本を入手したので、じっくりと読んでみたい。
恥ずかしいながら、20年前のことである。
小学生6年の後半と高校時代が同じ学校であったようである。
小学校時代は、みんなとあまり交わらずに、よく本を読んでいたので、漢字をよく知り、高校時代の現代国語の学力テストの成績が抜群であったことをよく覚えている。
本日、その本を入手したので、じっくりと読んでみたい。
「功名が辻」を読んでから、少し司馬遼太郎から離れているが、読書というものはいろんな主観的な影響があり不思議なもので、次から次へと益々離れてしまっている。
しかし、また「坂の上の雲」のTV放映が始まるから、また戻ってこようと思っていた矢先、まとまった司馬観を論じている記事に接し、感じるところがあった。
司馬は、はやり、合理的で冷静なリアリストなんだと言うこと。
「まっすぐ過ぎるほど生き、利を考えない」武市半平太、土方歳三、石田三成、それらを「幼い」と思う家康、「議論で勝っても相手は動かない」と悟る龍馬 人間の多種多様な所を描きだし、読者に迫った、司馬遼太郎、あらためて凄い作家であったことに感銘するのである。
この3つのタイプの生き方について、今一度、考えて見ようと思っている。
「高いビルから下をみると人間が小さく見えて興味深い」とのとらえ方も、自分に迫って来るものがある。
しかし、また「坂の上の雲」のTV放映が始まるから、また戻ってこようと思っていた矢先、まとまった司馬観を論じている記事に接し、感じるところがあった。
司馬は、はやり、合理的で冷静なリアリストなんだと言うこと。
「まっすぐ過ぎるほど生き、利を考えない」武市半平太、土方歳三、石田三成、それらを「幼い」と思う家康、「議論で勝っても相手は動かない」と悟る龍馬 人間の多種多様な所を描きだし、読者に迫った、司馬遼太郎、あらためて凄い作家であったことに感銘するのである。
この3つのタイプの生き方について、今一度、考えて見ようと思っている。
「高いビルから下をみると人間が小さく見えて興味深い」とのとらえ方も、自分に迫って来るものがある。
新聞連載されている「親鸞」の激動編。
前編完了後、書かないと言っていた五木さんが読者の強い要望で、また書く元気と勇気を持ち、今、地方新聞に掲載されている。
これまでのストーリーは、期待はずれで、ほとんど進展のない盛り上がりのないものであったが、今週ぐらいから急にドキドキするような場面で、毎日の掲載分が待ち遠しい。
親鸞の法話の中で、民衆が念仏に効用を求めようとするが、「念仏すれど、痛い足は直らない、貧乏の苦しさは変わらない。」と明確に言う。
まだまだ、これから話が続くので不確かだが、これから先の記述分は、私の予想と見解です。
この世を生きていくには、心の持ち方が大切であるということを親鸞は、五木さんは言いたいのではないかと思う。
足が痛くても、痛みに耐えられる。
苦しくても、人によって、苦しみの差があり、いかほどの苦しさも辛抱できる人は沢山いる。また耐えかねて、自殺する人もいる。
要は、その違いを生み出す「人の心の持ち方」であり、正しく生きようとする姿勢考え方である。
闇の中でも一筋の光を見い出し、ドン底から這い上がる精神力の強さ、これこそ、人間が勝ち得なければならないものではないかと思う。
それが得られたら、次の新たなものをものにし、そこから少しづつ喜びや幸せにつながるものが得られるのではないか。
それにしても、現代は、あまりにも、衣食住をはじめとした生活が裕福となってしまい、そうでなければ、不満が先に立ち、努力することを忘れてしまっているケースが多い。すなわち、心がさみしくなってきている。
少し、足りないくらいの生活が人間を鍛え成長させるのである。特に、小さい時は、満ち足りてはいけないようである。
前編完了後、書かないと言っていた五木さんが読者の強い要望で、また書く元気と勇気を持ち、今、地方新聞に掲載されている。
これまでのストーリーは、期待はずれで、ほとんど進展のない盛り上がりのないものであったが、今週ぐらいから急にドキドキするような場面で、毎日の掲載分が待ち遠しい。
親鸞の法話の中で、民衆が念仏に効用を求めようとするが、「念仏すれど、痛い足は直らない、貧乏の苦しさは変わらない。」と明確に言う。
まだまだ、これから話が続くので不確かだが、これから先の記述分は、私の予想と見解です。
この世を生きていくには、心の持ち方が大切であるということを親鸞は、五木さんは言いたいのではないかと思う。
足が痛くても、痛みに耐えられる。
苦しくても、人によって、苦しみの差があり、いかほどの苦しさも辛抱できる人は沢山いる。また耐えかねて、自殺する人もいる。
要は、その違いを生み出す「人の心の持ち方」であり、正しく生きようとする姿勢考え方である。
闇の中でも一筋の光を見い出し、ドン底から這い上がる精神力の強さ、これこそ、人間が勝ち得なければならないものではないかと思う。
それが得られたら、次の新たなものをものにし、そこから少しづつ喜びや幸せにつながるものが得られるのではないか。
それにしても、現代は、あまりにも、衣食住をはじめとした生活が裕福となってしまい、そうでなければ、不満が先に立ち、努力することを忘れてしまっているケースが多い。すなわち、心がさみしくなってきている。
少し、足りないくらいの生活が人間を鍛え成長させるのである。特に、小さい時は、満ち足りてはいけないようである。
司馬遼太郎作品で、最も長編といわれる「翔ぶが如く」(全十巻)を先程、読み終えました。小説なんて、人生の大半が過ぎても殆ど読んだことがなかったのに、「坂の上の雲」を読みだしてから、司馬作品ばかり読むようになって、本当に生きる勇気をいただいている。今回も西郷隆盛というまれにみる大物、愛嬌、長者の寛容、透明度の感情が魅了されました。その本質的なものはやはり人間離れをした無私を貫く人物がいたということですかね。歴史小説というより歴史そのものでした。本当に詳しく調査をし、人物の生きざまを教えていただきました。