世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
偽装社会
厚化粧で大口開けたお喋りなおばさんも、赤いネクタイで鼻声(美声)で、もじょもじょ喋る大臣もどこか似ていて、(○○もどき )に見えてくる。
そんな感じで見ていると、政治もどき・経済もどき・教育もどきが次から次へと出てくる。
今朝の朝刊で報道されていた、教育再生会議の基本方針のトップに「教育のガバナンスの見直しの大改革」とうたっている。見ると①教員免許の見直し②学校長の責任の見直し③教育委員会の見直し④家庭の子育て責任の見直し を内容にしているようだ。ここではなぜか教育行政のトップの国(文科省)見直しが出てこない。
国が集めたメンバーが自ら《国》の問題を見出し反省するのは所詮無理という簡単な道理かもしれない。(普通考えると、英和辞典にまず出くるガバナンス=統治の主体である政府や文科省は第一番目の見直しの対象になるのではないだろうか。)
詳しく読み進めると「文部科学省のあり方も議題となる可能性がある」との記述もあるにはあった。責任体制を問うならまず入り口になるはず。(可能性がある)とは、どこを見てものを言っているのか?(よそ見して勉強している子どもみたい。教育最低会議と揶揄したくなる)偽装建築から偽装教育そしてその教育を立て直すべき会議がこれまた偽装。
偽装社会(もどき社会)なんだとつくずく思う。考えてみればパーソナリティも仮面を意味するし小説も虚実の間に味があるというから、そういうものかもしれない。
だとしても、(やらせ)じゃないけど見え見えが多すぎる。
ちっとも美しくも美味しくもない。最低の努力はしてほしい。
私が校長先生だったら
『私は皆さんの学校生活に責任を持つ立場です。私は校長として責任を果たしているとは思えません。資格がないから校長を辞めようかと悩みました。 もし皆さんが私が辞めることを望むならそうします。 もし皆さんが、これからこの学校でこんな悲しいことが起きないよう努力することを私に求めるなら、それなりの覚悟で努力したいと考えています。皆さんは先生方とよく話し合って結論を出して下さい。
本当は 、結論を出してから話すべきかも知れませんが、今私が抱いてる覚悟の一端を話してもよろしいでしょうか《子どもたちの多くは黙ってうなずいたとしたら、話す、拒否されたら降壇し、辞表を書き本当に辞める。)
私の覚悟したことは、私の正直な気持ちを皆さんに話し、建前でなく私自身が自分に正直に仕事をすることです。
皆さんは学校へ来るのが楽しいですか?勉強は楽しいですか?私は小学校の1年生から、学校が楽しかったり、勉強が楽しいと思ったことは殆どありませんでした。教師になってからも同じです。
子供のころからずーと行かなければならないと思って学校に通っています。毎日、仕事を終え家へ帰るのが一番の楽しみです。土曜日や日曜日が来るのを月曜日から楽しみにしています。
私は心の奥で学校が楽しいという人の気持ちが分りません。今でも、そんなはずはないと思っています 。
今までみなさんに、お勉強や人に迷惑を掛けないようないい子になってほしいと再三言ってきましたが、言ってる私はそんなことを言ってる学校が大嫌いだったのです。中でもテストはいやでした。今でもテストで悩む夢を時々見ます。
私はほとんど学校の勉強は嫌いと話しましたが、好きなことも全くないわけではありません。大学でじぶんの研究テーマを調べ研究するのは遊びより楽しかったかような気がします。
小中学校でも体育や休み時間は楽しかった。中学時代の日本史や、高校の化学も好きでした。これは学校はそうでもなかったけど、家で勉強するのは楽しかったし、倍以上はかどった気がします。
私はいま一番勉強したいのは人の心です。唯、自分の心は自分だけでは分らないのではないかと思います。自分が周りのものや人とかかわり知って、始めて自分の心が分るのではないかと思っいます。私の周りにはあなた達や先生方他に沢山の人たちがいますが、まず自分の近くの人の気持ちを知ろうと思います。それから、遠くの偉い人の話はその後聞きます。近くのことが分らないで遠くのことは分るはずがないからです。そしてその偉い人の前でも私は皆さんに正直でありたいように、自分に正直にものを言いたいと思います。そのように覚悟したのです』お話を終わります。
教育基本法の改正
法律は人為の最たるものだがそれ以前に誰をも縛る?法がある。それは自然法。
我々は立場の違いはあっても自然の摂理や自然の因果から逃れられない。
その観点からすると、今度の基本法はより自然法から遠くなる。今の基本法は子どもの人格そのものに教育の中心を求めている《実際は国家権力を中心にしてきた》のにたいし、今度は基本法そのものが国家権力中心になる。当然今までの流れに拍車がかかることになる。
この法改正で利益を受ける人たちは誰かと考えると、思いつかない。たとえ政府や与党・それらを応援し、放置している人たちも結局天に唾し自らに降りかかる漫画チックな風景にしかならない。よそ見運転は、気楽で良いけど、結局自分も事故に合う。(巻き込まれる人は気の毒だが。)人間っててこんなに浅ましかったのか。
教育関係の諸統計を追ってみる誰でもわかる。
斉藤 環 さんへ
朝日の一面トップで、「いじめている君へ その安心感は自由を奪う」を読みました。子どもの立場に立った珍しい精神科のお医者さんというイメージを持っていました。この一文も適切な助言だと思いました。あれはあれでいいのですが、別の機会で良いですから、もう一歩突っ込んで発言していただければと思います。言葉のメッセージが通じる人にはあれでもいいですが、その域を越えた通じない子どもも結構います。いじめの根っこは深く、生態的・医学的な理解も必要でないかと思います。環境がその生命や存在の存否を脅かす時、どんな生物も、異常と思えるような行動や現象を呈するものです。(いじめ)という行動を見る時はその視点も必要でないかと思います。結局その環境を作っている大人へのメッセージです。メディアにはそういう根源を問う視点がないようですが。
教育委員会の指導力?
昼のニュース(11月14日)で(国会で)文科省大臣が教育の問題を教育委員会の指導力不足にあると答弁している映像が流されていた。公聴会への文科省の不正な指示→都道府県の教育委員会→市町村の教育委員会→学校長→PTA役員までまっすぐ伝わり半分以上の公聴会で(やらせ)が実行されていたこと一つとっても、実際上文科省の力がどれだけ強いかが分る。これは君が代日の丸は勿論、学校の自由選択、ゆとりや学力の問題、学校間競争、能力別指導など、現場から見ると、指導体制の一つ一つに至るまで文科省の方針のもと、教育委員会の中間指導機関によって指導されされている。その結果各学校はテスト至上主義といって良いほどの状況になっている。こういう現実を前にして「よく言えたものだ」と思う。私は単に文科省を批判する気はない。以前にも書いたが文科省は大臣も含め皆さん一生懸命なんだろうとは思う。しかしここは経過や事実をもとにものを言ってほしい。私の見方が偏見だと思うなら、日本中に沢山いらっしゃる、学校長や教育委員会の人たちに尋ねてみるがいい。例外はあるかも知れないが、おそらく90パーセント以上の人が上意下達の強さをを認めると思う。これは日本の伝統的といって良いほどのもので、年々それが強まっていることは教育関係者なら知らない人はいないだろう。教育関係者でなくても多くの人はそれを感じているのではないだろうか。教育基本法やいじめ→自殺が問題になっているさなか、国会の場で教育の最高責任者が白昼堂々と述べそれが許される。ちょっと飛躍するが、言語道断な弱いものいじめを許す学級と同じ様なもの。文科省大臣のこのせりふは政府がかねがね考えてきたシナリオ(今までの経過を見ると中央の本音は中間機関をなくし中央が直接命令・指示・指導する)から飛び出したのではないかと思う。
いじめ対策
ここまで来ると即効薬はないが、最も効果的だと思うのは、文科省が下部《教委や学校》に「テストの点数より子どもの心を大事にしなさい」と指示すればいい。それだけでいい。今各教室は、児童生徒の気持ちよりテストの点数を優先されている。言葉にすると簡単だがこれは中間指導機関の教育委員会にとっても、各学校や先生達にとっても教育的には革命的とも言える意味を持っている。
各先生方は授業の狙いが今までと違ってくるはず。学級担任の役割が変わってくるはず。子どもの心を大事にするのは当然のことだが、今はそれが殆どできない状態にある。今まで、子ども達の気持ちを無視した学力《テスト》優先の指導を徹底的に求められてきた。それに沿わないと教師を続けられなく、家庭が干上がってしまうようなところまで求められてきた。殆どの教師はそれに従わざるをえない。
古くから担任はまず勉強以前の「学級経営」が求められた。この学級経営の中身は
一言で言うと子ども達の気持ちをバラバラなものから秩序のあるまとまったものにすることだった。教師はそこで子どもに信頼されなければいけない。これは当然のこととして受け継がれ上からも求められた。「学級経営」は「学級作り」や「学級集団作り」などと実践的に研究されていた。例えば教科学習する場合はその前提に「学習集団作り」がある。我々は端的に「学習体制」を作ると言ってきたがそれは常識だった。今学校現場では、これらの学習以前の指導を表す言葉すら殆どなくなっている。内容的には深いものがあるから指示してすぐやれるものではないが、
方向付けだけはできる。これはちょっと変だけど、日本の中央集権的な教育行政の体質を今は利用して、出口の方向を指し示したらいい。それは中央が本気で上記のことを指示すればいい。
いじめ→自殺の意味
いじめ→自殺が今日も報道されていた。該当の学校長が謝罪する映像を見て「分っているのかなー」といつも思う。
いじめの問題で登場する大人や専門家の多くの認識が「からかいやいじめは昔からあった」その認識が基本にあるようだ。しかし今のいじめは全く意味が違う。昔はいじめは広い意味で遊びの範囲だったが今はその範囲を超えるだけでなく質的な違いがある。(語弊はあるが)生物的には飢えた状態での異常な行動に通じるものがあるだろうし社会的には自壊作用の意味があると私は深刻な問題だと考えている。
子どもが命をかけて信号を出しても大人は子どもの方に顔を向けない。偉い人ほど子どもに顔を向けない。我々は「子どもに顔を向ける」とはどういうことかは子どもから学ぶ他ない。
他に責任を押し付けたり偉い人や専門家に答えを求めようとすることがなくならない限り、問題はより深刻化するだろう。事件も悔しいが、その後の大人の言動がより浅ましく情けない。
《夜のニュースを見て補足)文科省大臣が、「死ぬことは解決に繋がらない。」埼玉県の教委は「いじめがあったことを前提に原因調査・校長の責任云々」とあったが大臣も教委も事の重大性が分っておらず単なる事故扱いで、安易過ぎると思う。中央集権の強い文部行政にあって、最高の司令塔や指導機関がこれだから解決するはずがない。
(一連の問題で、担任が出てこないのにはいろいろな意味でひっかかるものがある。)
政治討論会
混乱
世の中突拍子もないことが次々起きる。殺人・自殺・不登校・いじめ等々、社会は病理的な様相で、ニュースなど見をていると、上から下まで社会は混乱しているようだ。 犯罪者を捕まえる仕事の警察が盗みや女性を犯し、いじめを止める先生がいじめをし、偽装建築や履修届けの公文書の偽造の届出・受理も曖昧され、教育指導の最高機関は役所の意向を通すために「やらせ」までして、責任は下部組織や部下に取らせる。 考えてみると、首相が、靖国や核問題で公人と私人を使い分けしているが、これも世間では通らない話。「教師としては~だが、個人としては別の~」等の言い方を、お医者さんであれ、お坊さんであれ、株屋さんであれ、言ったとしたら、誰がその話を信用するだろう。?誰でも立場や建前を超えてその人の本当に思っている信念を誠実に語ってくれる事を願って言葉のやり取りをしている。 公の人が公の場で白昼堂々と自らも使い分けし、部下の使い分けを容認していて、どうして社会の秩序が保たれるだろう? 私はこの社会の病気・混乱はかなり進行しているとかなり以前から考えている。個人的な病気でも軽いうちは、自然の治癒力や自浄作用で治る。社会的には教育だけでなく多く分野がその段階を超えているようだ。 心の病では悪化すると「病識」が無くなる段階がある。病識がないから病人は自ら病院にも行かない。それでも個人の場合は、周囲が気が付き、お医者さんに診てもらうことができる。国の場合は気が付いて言って行く人もいないしお医者さんに当たる政治(家)も病んでいるからわけが違う。 (こういう中で私も生きているのだから私も間違いなく感染している一人。だから同病愛哀れむということになる)
唯、絶望することはない。それは人間は自然の一環だから、人間がいくら人為的間違いをしても最終的には「自然の法則」により、蘇生したちかえるだろう。
最近特に、「自然が最大の味方」だと思い願うようになった。また、メディアのバタバタと混乱が病みの結果かと考えると少し気が楽になる事も分ってきた。
責任回避以前の問題
今朝、ニュースで文科省大臣が、履修漏れの責任を学校長や都道府県教委にあるとして責任を明らかにし対処するとの談話を報道していた。10時ごろ同じくテレビニュースで、不履修は4年前、大学が文科省に報告していたが報告を受けた担当の課が、上部に上げなかったと、報道していた。今回も大学からの内部告発で分かったという。今日は教育基本法公聴会の(やらせ)まで明るみになった。
このブログでも書いたように、現場感覚で言えばこんな馬鹿げた話も「やっぱり!」ぐらいで特別驚かない。隠していたのはどこか?バレて困るのは誰か?何故文科省はやらせまでやり、教育委員会はなぜ黙ってそれに従うか?を考えたら今までの経過や今後の運びはだいたい見当がつく。責任がどこにあり責任回避をしてるのがどこかは明らかだ。
一連のことで私は学校長や教育委員会が気の毒だと思っている。国や政府は児童生徒まで教育方針を徹底したいはずだから、命令系統上は、トップに見える文科省も教育委員会も学校長も単なる中間機関でしかない。子どもの実態や現場の状況を吸い上げ把握する機関ではない。ほとんど国は一方的で、中間機関がかなり無理してきたのを現場で見てきた。同じ論理で、今回の告発でも責任を担当の課に負わせようとしている。
このように書くと私が政府や文科省の偉い人たちをただ批判している野党か労働組合のように思うかもしれない。確かにこんな馬鹿げたことをしないでほしいとは思うが、思ってる根っこはもう少し違う。
政府や文科省も意図的だとは思わないし、それなりに一生懸命だろうと思う。政府の人たちは(殆どの人はわが子や孫ががいるだろうが)仕事上は形に縛られ、ただ財界からの質のいい労働力=学力という言葉を教育に翻訳しないで生の言葉を「教育」そのものとして方針化しているように見える。原因は簡単。教師も同じだが、結局、周囲や上部に合わせないと最後は自分の生活にふりかかってくる。
財界や安倍首相が言うように日本は人的資源が唯一とも言える国。良質(語弊はあるが)の人的資源なくして、日本の国際競争力も経済も立ち行かないことは誰の目にも明らかだし、その願いは親も子ども国民立場に関係なく誰も同じだろう。
仮に財界が求める人材だって今の政府や文科省のやり方で実際に役に立つ人間が育つだろうか?(教育の権威者や役人より企業の経営者の求める人間像の方が教育的ということが意外に多いのです。財界の求める人材育成にも答えていない。
その上、今日のように体力や学力の低下は言うに及ばず不登校だのニートだのは国家的な損失であり対策を考えるのは当たり前だが、その方法は要請されるままに経済や競争の原理を用いて成功するはずはない。((何故なら既に今の教育の諸問題の原因は直接的間接的に経済優先至上ともいえる社会作りであり、子どもからすると過度な比較競争による。教育の原理はどこかにふっとっとんでいる。
教育はある意味で具体的な因果関係をもった科学的なもの。文科省や中間機関、現場の先生も一生懸命だとは思うが、上部や周囲に合わせることを優先し子どもそのものから目をそらし教育原理を無視していいはずはない。
子どもに直接関われば、今の教育の問題がどうして出たか、どうすれば改善するか(ここまで来るとすぐ直すことはできないが)は分る。
日本には多くの教育学者や、権威を持った実践家がいるのだからこうして書いている爺さんを「偉そうに」と思われるかも知れないがやっぱり言いたい。
自分の子ども時代、や自分の子どものことを考えたらそう難しいことではない。子どもは教育学者や権力者が子どもを上手に育てられるかを考えたらいい。また今の日本を築いてる第一線の人たちを見たらいい。そんなに学校へ行き、勉強してきたか?社会に必要なマンパワーは、今皆が追い求めている学力なのか? 現実にマッチしないことばかりではないか。
この間違いを国を挙げてやっている。問題の根は、国や文科省の責任回避どころではない。深刻になるが本気なら出口を見つけるのは簡単でもある。
偉い人が格好つけないで自分自身や自分の子どもや孫のことを考えれば糸口は見つかるし、本当に責任をとるのは、その発想の転換しかないだろう。単に責任を学校長や教育委員会や文科省が取れば良いのではない。今までやってきたことの内容的な間違いを反省し改善するものでなければ単なるせきにんのたらい回しになる。しかしどうしてもそこには行き着かないようだ。
テレビの出てきて教育を話す人の顔を良く見るといい。
教育へ責任を感じ、子どもへの誠実さを持っているかどうか、は教師でも偉い人でも話す人の目の奥に子どもが映っているかどうかで分る。(これは隠せないけど、言葉だけでは見分けるのは難しい。)
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