世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
私の努めたこと
私は小学校の通常学級を25年近く担任した。失敗はいっぱいあったし威張れるようなものではないが、いじめと関わって自分が学級経営で努力したことを思い出してみた。何年生を担任して最も気をつけたことは、子ども一人ひとりと気持ちを繋げることだった。これが無くては、授業も学級の生活もまとまりもうまくいかないからだ。特に目印にしたのは子どもが自分に寄ってきて子どもから話しかけて来るかどうかだった。大体は半年ぐらいでどの子とも気持ちを繋げることができたが、中には1年近くかかった子もいる。(これは私の勝手な見方だから子どもはこれを読んで納得しない人も結構いるだろうとは思う。ごめん)とにかく1年ぐらいたつと子どもの一つ一つの動きや言ってる意味が(私なり)に捉えられた。子どもと繋がるため、ありのままの子どもの言動を素直にに出すように働きかけた。前提として私自身が自分をさらけ出すよう気をつけた。どの学年を担任した時も、いわゆる宿題はださかったが、日記を課した。赤ペンで評価も含め感想を書くが、全員に求めたのは「ありのまま くわしく」だった。誤字・脱字はどうでも良いから書きたいことを(へそと言っていた)周りを(教師や親、友達)気にせず書くよう促した。勿論私の赤ペンもそれを心して入れた。 そうするとその子の背景の中で
その子の言葉や動きの意味を捉えることができた。勘違いかもしれないが、報道にあるようないじめや自殺は考えられない。不登校も心配したことはあったが、何とかなった。今は、学校でこのような学級経営はできないかもしれない。それは上司や保護者の求めも、教育の前提を抜いた見かけの課題ばかりを強引に求めてくる。それはますますエスカレートしてきたし、今準備されてる国の方針はそれをさらにエスカレートさせるもの。カウンセラーの最低条件は来談者との間にラポート【信頼関係】だ。その方法は唯一【 ありの ままの受容】である。これはカウンセリングだけでなくそれは教育の前提条件だし、全ての人間関係の大原則なのに、学校はそれをないがしろにせざるをえなくなっている。その結果、予期された問題が日本中に出て深刻さを深めている。
ちょっとしたら?
今朝朝刊に目を通したら、東京都町田市の教育委員会が【いじめ発見のチェックリスト】を各学校の先生方に配ったそうだ。(またもや偉そうに行って申し訳ないが)「こりゃだめだ」と思った。チェックが悪いとは言わないが、そんなことでいじめを把握できるのはごく稀だろう。いじめだけでなく全ての指導は子どもと教師の信頼関係が前提だが、信頼関係はチェックできるようなものではないし、全体的な感覚。いじめに気が付くのは、説明しにくいが教師や親の人間的な【感】だ。
自転車の乗り方や泳ぎ方を写真入の説明を読んだ人がどれだけわかっても実際に自転車に乗ったり泳ぐことはできない。
いじめの発見や対処もこれと同じだろう。その感覚を体で覚えていなければその場に出くわしても何の役にも立たない。教師をやっているとそんな場面はいやというほど経験する。
しかし、いじめのチェックリストを配って指導とするような発想の指導は教育では普通で、文科省の役人から政府・指導要領を作る中央教育審議会・教育再生会議などの機関も発想的には同じようだ。大事なものが抜けているのだがちょっとしたら、それは世代の問題なのかと、今朝ふと考えた。
社会の一線で指導的な役割を果たしている人は、安倍首相ではないが50歳代になっている。過去の子どもの暮らしを振り返ってみると、戦後20年代後半は既に暮らしはそれまでの普通が普通でなくなり始めている。北海道の田舎で育った私も、兄弟の末っ子〈今57歳)の小学校時代は上5人とは学校も家庭も地域でのすごし方は違っていた。共同体的・伝統的な暮らしがテレビと共に変わっていった。昔の子どもの暮らしの中には「教育」のジャンルには入らないが子どもの成長発達に無くてはならないものがあった。例えば(大人に干渉されない子どもの遊び・子どもの時間・子どもが関われる自然・遊び仲間)これらは子どもの実態そのもので大人は「よく学びよく遊べ」と子どもの暮らしとして大切にしていただけだったから、ことさら教育の対象にはせず大学でも教育学や心理学の研究対象にしていなかったのだと思う。〈今考えると人間形成の中では教育以前の土台になる重要なところだったのだが)だから、ちょっとしたら今活躍している教育関係の優秀な学歴を持つ役人も、教育学者も世代的に人間形成の土台になるところの経験も、学問としての知識も持っていないかもしれない。だから、次から次へと出る対策がどこか大切なものが抜けていると感じるのは仕方ないことなのかもしれない。しかし時代が変わっても、成長発達の土台や知識があっても感覚を身に着けていなければ無ければできないという人間の存在は変わらないだろう。ちょっとしたら、権威や専門的な職業や年齢に関係なく智恵や経験を出し合い発達の全体像を探らなければならない時代になっているのではないか。教師の研修も上司が部分的に知識を注入するのではなく、人としての感覚を磨き育てるよう働きかけることではないか。ちょっとしたら全ての親や大人や専門家といわれる指導者もも全く同じで、自らの感覚そのものが問われている。
だから、上記の姿勢なく人をリードしようとするのはお互いやめた方がいい。
朝日!それはないでしょ
11月7日の朝刊の社説「学力テスト 下位校の予算を削るな」のタイトルを見た時「それはそうだろう」と少し期待して読んだ。読み終わってバカらしくなった。朝日の論説委員の見識の無さに呆れてしまった。例の東京足立区教育委員会の学力テストの結果で予算に差をつける方針に対する社説のこと。足立区が今までやってきた学校選択性や2期制の施策を評価した上、「子どもや学校が互いに競争することは必要だ。これまで多くの学校が横並びを続けれてきたことが、学校から活力を奪ってきたことは間違いない」と前置きしてから社説の主張に入っている。前置きの部分は今までもあちこちで聞いてきたフレーズ。ただ事実に基づき、指導法として適切かどうか具体的に説明しているのをただの一度も聞いたことがない。
上記の出所はどこであってもいいが、指導は一般論であっても具体的な状況によっては正反対の結果になる。因果関係を伴った科学的なものであることを知ってほしい。今の子ども達をさらに競争させることが指導法として適切か?学力テスト自身が横並びを求めている画一的な評価指導法ではないか?今子ども達が抱えている問題はどうなるか。学校が活力を失っている認識は私も同じだが、横並びが原因と本当に考えているのでしょうか?原因を探る取材をしているとは考えられない。テスト以外どんな授業でも1時間見れば分るはず。一斉授業でも横並びに授業をすることは不可能です。横並びしているのは教師のことか子供のことか?
率直に論説を書く前段の準備すらできていない感じがする。いじめで自殺したり、義務教育で多数登校できない子ども達のいることを考え、事実を探り誠実に書いてほしかった。
必修漏れの責任はあいまいになるだろう
昨夜,NHKの(持論)で必修漏れを(多分教育関係の専門家だと思うが)解説していた。やっぱり原因は学校(長)の裁量のやり過ぎとして殆どは指導要領の問題,しいては大学入試の大学の問題としていた。大体の話の流れは文科省や政府の談話と同じようだった。法律違反があっても、その責任を追及せず、法律(指導要領)のせいにしたり、現実社会のせいにする。普通国民はそんなことが許されるだろうか。交通違反一つとってもそんなことはありえない。仮にそういうことを論ずるにしても、先の話で今大事なことは、高校生への緊急措置と、責任問題ではないだろうか。責任問題はそこそこにして追求しないだろう。何故なら、追求する矢はブーメランのように己に戻ってくるはずだから。それにしても、当局・メディア・専門家が揃って問題をそらす。いじめや自殺が問題になってる折、こと、教育や子どものことでこんな処理の仕方は子どもにどんな意味になるだろう?こういう姿勢が間接的ではあるが子ども達の問題の背景になってはいないだろうか?にここではこの違法行為(文科省や教育委員会・管理職は指導要領は法的拘束力を持つと説明してきた)の責任が曖昧にされ誰も責任をとらず、「指導要領見直し」を声高かに叫ぶ教員組合や野党の主張をそのまま戴き利用する(従来その手法を良く使ってきた)ことになるだろうという予測にとどめる。
必修漏れの責任
今日テレビで、政府や文科省が必修漏れが学校長が虚偽の教育課程を都道府県の教育委員会に届けていたことにある旨の談話を報道していた。『やっぱり』下への責任のなすりつけだと思った。
数日前このブログで(必修漏れの責任)書いたが、補足したい。もし一方的な虚偽の届出だったら、公印を押した学校長は公文書偽造で犯罪になる。現場感覚ではまずそうい事はありえない。
①もし一方的な偽造なら、学校予算関係の報告・決済偽造せざるをえない。 それは教育委員会内部の見落としは済まされない。
②高校は教科選科制だからの必修科目は専門教師を配置しているはず。 報道によると必修科目の教師のいない学校があったようだ。それを教育委員会が 把握し ていないはずはありえない。
③教育委員会は毎年、各学校を管理訪問と指導訪問をしているはず。カリキュラムの実施は当然管理上も指導上もチェックの対象になっているはず。訪問時は指導計画の提出を求められている。また教育委員会には教科担当の指導主事がいて、その指導主事は各学校の教育課程の把握はもちろん指導のあり方を指導することになっている。
④公的ではないが都道府県の教育委員会には数百人の職員がいて自分の子どもを通して履修の実態を知っている職員も少なからずいるはず。 何年も前から多くの学校でやられていたことで、「知らなかった」というのは教育現場の常識ではまずありえない。
指導要領は法的拘束力を持つと違反者を処分して来た文科省から教育委員会。 文科省は式での国旗・国家の実施状況は制度的に国が決めた指導要領【教育課程】の全国の実施状況は1ヶ月もかからず把握している。届出が虚偽だとすればそれを受理した方にも管理責任があるはずではないか。
ところが西日本鉄道の電車事故、耐震偽装建築、ライブドアもそうだったが当局 や行政の管理監督するところが責任を明らかにせず責任を取らなかった。【侘びの言葉すらない】履修問題は今までの問題以上に責任の所在をあいまいにしているようだ。
部下や現場に責任を負わせて(昔から言うトカゲの尻尾切り)始末をつけ責任体制の強化という名目でさらに上部の権限をさらに強めるのに使うだろう。裏返せば、上部に責任のあるのをよく知っているからだろう。
社会的には命令や指示した所が責任を負うのが常識で、今やってるのは日本古来の武士道にも反するし、潔くない。こんなことをしてるから醜悪な事件が次々と後を絶たない。
右でも左でも良いから、少しは筋を通して、「美しい日本」にしてほしいと願っている。
「空気」 と 「のり」
子ども達の話では、場の空気を読めずのりが悪いといじめの対象になるそうだ。「のり」や「空気を読む」とは言い方は少し違うが、同じような言い方は昔からあった。
「空気を読んで のる」のは年齢や性別に関係なくどこへ行っても見られる。むしろ(私も同じだが)年配者のほうが駄洒落など言って、場を白けさせることがよくある。気を使う私達にとっても、時代に遅れてはならないという健気な努力なのである。
世間の空気がよければそれで良いが、今のように過度に競争を強いられ、周りより自分自身と、目先の利益を求めざるをえない中で空気がおかしくなり、奇行・非行がことさら珍しくなっている大人社会の中で子どもが大人を見て「空気とのり」過剰適応的な(いじめ)の行動が出てくるのは当たり前で、原因の一つに違いない。連日報道される事件は社会病理的でもあり、常態化している。個人の病気であれば病院で治療するが、社会的な病気にはお医者さんがいない。本来は治療に当たるべき政治家は最も競争を煽られ、自分のことと目先の利益に執着し治療どころではないのだろう。結局国民全体が加熱され、のぼせているような現在、空気を読まずのりが悪いといわれても(カエルではないが)、なべから飛び出し、冷たい水に飛び込まない(自然に戻らない)限り、ひっくり返って浮き上がる。子どもから私のような老人まで状況は同じ。その場から浮き上がらないよう、いじめに回るか、(ひっくりカエルのように)浮き上がらないよう自然に戻るかの選択あるのみ。(やっぱ、老人は気を使う。)
自然と人為
国際化・国際社会・グローバリゼーションなど地球全体を視野に入れた言葉を目にすることが増えた。世界全体の諸関係が密接になってきて、それを意識せざるを得ないというう事だろう。
その国際経済や国際政治は超大国アメリカを中心に展開しているようだが、故湯川秀樹さんの世界連邦の構想とは程遠く、争いは絶えず、国際・国内・個人の意識とも混乱しているように見える。その混乱は国家×国家 企業×企業 集団×集団 人×人 など人為と人為の限られた範囲での対峙から生まれているように見えるが、実際はどうだろう?
実際は地球的な自然×人為の構図になっているのではないかと私は考えている。世界の経済も個人の幸福も人為として意識されるが実際はその人為をも含んだ厳然たる自然(自然の法則以上の自然)が支配しているのではないか。
古来どの民族も自然崇拝だった。勿論今は中身的には異なってはいるが、状況が人為に優先した自然尊重を具体的に求めているように思う。
それは経済や政治の世界的な行動から、個人の一つ一つの行動まで全ての人為が自然を手鏡にし閉塞疎外された意識を自然に開放することを【厳然たる自然】が求めているように思う。
世界の政治・経済から子どものいじめまでそれが求められていると思う。
教育における責任
今朝、NHKの政治討論会で教育基本法のことを取り上げていた。その中でいじめや履修問題など教育の責任の所在の曖昧さが指摘され、責任体制をはっきりさせようとの与野党が主張していた。
公教育で責任の所在をはっきりさせることは、、当然のこと。今の時流では「国の責任」をはっきりさせ、その責任を取れるような体制作りを図るだろう。 教育基本法の改正もその辺に目的がありそうだ。〈これはあくまで私見で断定しないが)
それはともかく教育上の責任を誰が取ろうと(教師であろうと学校であろうと教育委員会であろうと国であろうと)本当に責任を取れるだろうか?勿論、社会的な責任はどこかで取らなければならないが、実質的な責任はどこに帰すかを忘れてはならない。
いじめによって子どもが自殺した時、その責任を誰が取ろうとも親の責め苦は、どんな責任にも比べられない。さらに自殺した本人が自ら死を選ばざるをえなっかた苦しみは責任とか権利という社会的な概念で表すことすらできない。
だから、責任は子供に対し負うものでなくてはならない。普段の教育が子どもにしっかり目を向け子どもを守り育てるような体制を作ることが責任の中身でなくてはならない。
実際はその逆で、事あるごとに現場の教師は上を見ざるをえなくなるよう求められてきた。今回のいじめや履修問題の対策もそこに帰すだろう。
これは今始まったことではなく、私が教師になった40数年前から私の知っている限りどこの地域もどこの学校も上を向くような仕組みだった。現場ではひら目先生(目が子どもから離れ、管理職や教育委員会など上司に目を向ける教師)と揶揄されながらもその人たちが次々と管理職になり教育委員会などの行政指導を担当するようになった。
私のこの表現はともかく、伝統的なものだったから立場を超え、誰でも知っている殆ど国民の常識だろう。勿論その大元が文部省(今は文科省)であったことは、中間機関であるどの教育委員会もその現実は肯定するだろう。(法律はそうなっていないから公的には否定せざるをえない。)
今朝の討論会を見ていて、どの政党も観念的な言葉のやり取りで、現場、まして子どもの現状をまったくといって良いほ把握しておらず具体的に話せないでいた。
先日のいじめで自殺した学校の校長先生の謝罪が形式的であることはテレビ映像でも見て取れた。子どもは大人の本音を素早く見抜く。謝罪した学校でいじめが事件後も続いていると報道されていた。当たり前といえば当たり前で、形式的な謝罪や責任の限界を誰もが知らねばならない。
今日の風潮は戦争で亡くなった人たちや、いじめで自ら命を絶った子どもの無念さを今の我々大人が口先では分ったように言って誤魔化しても、本当にはほとんど受け止めていないようだ。いろいろな分野で形式的な責任を求め実質的には無責任体制が広がっている。
今は自らも振り返り、見直し論じることが誰にも求められている時代ではないだろうか。子どもへの責任を誰もが問われている。
科学としての教育
昨日(11月3日)は文化の日。文化の中で教育は主要な役割を担っているが、教育の特に教育哲学に該当する基本的な考えは進歩どころか、後退して来たしこれからも方向が変わる兆しすら期待できないような感じだ。日本の文化は発展していると言えるだろうか?
科学は事実と論理によって因果関係を求める。今日の教育上の問題は原因・結果の関係から生まれた。言い換えれば必然的な結果と言える。
教育が基本的に逆行しているから現場での矛盾は数限りないがいくつかを取り上げててみたい。
①まず教育は個々の成長・発達を土台に、その法則を前提にして成り立つものだが 子どもの環境や生活や教育そのものがこの原則を軽視している。子どもは生物・個体として生活・他者とのかかわり・意思決定・適期等の必要条件は他を優先するため実際には保障されにくくなっている。
②教育は心の通じ合いが決め手になるのだが、行政指導やそれにもとずく学校運営 もあって、教師は官僚的な職務を求められ、心の通じ合いそのものが難しくなっている。本来の教育関係は相互関係だがⅠ方向関係が求められ教育関係が成り立ちにくく、場合によっては壊されさえしている。
③テスト優先のため,教科として指導内容や組み立てが合理性を失ってきている。 例えば小学校では漢字・計算練習に大半の時間を使っているが国語教育や算数教育から見ると著しく合理性を欠き、子どもが学習意欲を失い学力低下するのはは当然のこと。この傾向は年々ひどくなっている。何事も基礎基本を軽視して力がつくはずが無い。勿論これも、世論と?行政指導の結果。【勿論個々の教師にも責任はある)学校訪問して読解の授業の無さは一昔前とは大違い。教室前の廊下を歩いただけで違いが分るほど。
③家庭の役割は生物としても育つ基盤なのだが、家族がそろったり、会話も物理的にすら難しくなってきている。経済社会を優先する大人の仕事や生活スタイルの変化により、家庭教育の質的な変化を余儀なくされている。
具体的にあげれば数限りなく、解決の見通しも遠いが、教育を科学として見直そうとする芽がでてくれば時間はかかっても必ずいいほうに向かうと思う。
それにしても多くの学者や科学者は今、 何故黙っているのか?その道を選んだのは、お金や権威より(科学)に価値を見出したからではないのか?テレビに出てくる専門家や大学の先生の多くが因果関係を大事にする科学者には見えないことが多い。殆どが事実や論理より結論を正当化する弁舌士のようだ。口は早くて滑らかで相手を圧倒する。しかしあの姿勢は学問や科学する姿勢とは全く違う。哲学しない哲学者、科学しない科学者が多すぎる。これでは大事な今は、何の役にも立たない。
「学力テストで予算に差」東京足立区教委の方針だという。これを科学で見たらどうなるか。科学等と大げさに言わなくとも因果を考えたら、結果の予想は難しくはない。教育はは未熟な子どもを育てる営みでそのためにお金もかける。学力の低いところにお金を掛けるのが常識だろう
変な教育ママでもあるまいし、「テストの結果がよったらお金をあげる。」現役時代、保護者会などで「それだけはやめてほしい。子どもの目が勉強から離れ子どもがおかしくなる。」とお願いしてきた。それで失敗した子どもや親はいっぱい見てきたし、成功した例は一件も見たことが無い。成功した例があるなら今でも飛んで見に行きたい。酸素と水素で食塩ができると言うのと同じではないか。
仮にそれによって平均点が上がったとしても、子どもはそこで何を学びどんな人間になるか。社会に役立つ人間に育つだろうか?こんなことでは教育委員会そのものが 問題になっているいじめもなにもっわっていないどころではなく、それを煽り立てることにはならないか?何故なら現在の問題は子どもの本質から目をそらし過度な比較競争が原因しているとは考えている人もいるはずだから。
それを今は学校や教師を指導する立場の教育委員会が税金を使い堂々とやる。今後の顛末は分らないが、科学どころの話ではない。教育バウチャーの同類の先取りだから「バカな」とかいって笑ってばかりもいられない。
《どうかしているよ!?》
【教育原理】と実際
このブログで教育原理の言葉を時々使ってきた。教育原理で言いたいこは、子どもを教育する情報は専門家や行政の権力者が持っているのではなく、個々の子どもが持っているのであって、その情報なしに適切な教育はありえないと言うこと。
医師は検査や診断なしに治療したり処方箋を出したりはしない。医療と教育を合わせたような療育(治療教育)と言う分野がある。児童精神科では医師の診断と指示に基づきカウンセラーによって保護者への助言と同時に子どもへ行動療法や心理療法を行う。養護学校や障害児学級でも内容的には同じようなことを行うし、療法などの言葉は使わないが通常学級でもその手法は用いられる。医療も教育も子どもの状態を把握し分析してから治療や指導をするところは共通した原理だろう。
ところが医療の分野ではありえないことが教育の分野では、指導方針(医療の治療方針や処方箋に当たる)が子どもから最も遠いところから権力と知名度の権威によって出され、強制される。教育再生会議では学力テストや教育バウチャー・教師の免許の更新制などで、学校間の競争を強め国の方針の徹底よって学力をつけたり規範意識を高めようと論議している。これを医療に置き換えると、病院の事務員や収支を預かる理事者が診断なしに処方箋を出すようなもの。医療ではありえないこと。
ところが教育の世界では実際にに行われて来たし、その傾向はさらに強まっている。教育は文化や科学の発展と相俟って教師(大人)中心から児童中心に発展してきた。日本は現在も法律的にはその方向になっているが実際は戦後の10年間ぐらい配慮された程度で、昭和28年の教育委員の公選制の廃止以来、中央集権的な教育行政の方針が次々出され、その結果、問題が発生するとさらに上意下達の方針が強められてきた。これは殆ど伝統的とも言え、教育史をさかのぼっている感じだ。
今日も同様で、不登児や発達障害児の増加、いじめ、基礎学力や体力の低下、健康疎外などの現象が社会問題になると、実態把握や原因の分析をすることなく、従来と同様、子どもから離れた上意の権力を強め方針を強化する事により乗り切ろうとしている。結果は今まで同様、教育原理の基本を無視した暴走に拍車がかかるだけだろう。
お百姓さんは、稲の育ちを見て手入れの仕方を考える。大工さんは目の前の木を見て作業を考える。稲や木が解決の情報を発し教えてくれる。稲が枯れそうだったら、その原因によって手入れは異なる。
学力テストで競争させ学力は高まるだろうか。不登校児や発達障害児への影響はどうか?もしテスト自身が受けられない子どもは増えた時、全体的な学力は上がったといえるのだろうか?(履修問題と同じ因果関係にならないか?)
子どものいじめや親の虐待や育児放棄と同様、国の教育のネグレクトが堂々とエスカレートし保護者もメディアも学校長始め学校現場や地方の教育行政も対応できないでいる。
教育の情報源が子どもであると言う【教育原理】を履き違え、間違っても、(権力や名声を持っていても)医師の資格や経験の無い人によって診断なしの治療や処方箋がまかり通るのと同じようなことを、子ども達に教育と言う名で実際にするのは、いいかげんにしてほしいものだ。
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