沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

欧米の列強と日本地図

2012-03-05 | 戦跡・沖縄戦・米軍

●1747年 英国のJohn Green ジョン・グリーンによる「新編航海旅行記全集」(表紙の地図)

英国など欧米の列強にとっては、当時は中国に関心が高く、北海道までは描かれていない。

沖縄は、Great Liquers =グレイト 琉球、と表記されている。

日本や朝鮮半島も、ずいぶんアバウトな形だ。

対中国貿易で輸入超過に悩む英国が、植民地インドで栽培したアヘンを中国に売りつけて、貿易均衡を図り、アヘン輸出を禁じられると、アヘン戦争を起こしたのが1840年。

この戦争は、東アジアにおける中国と琉球など属国を結ぶ朝貢貿易体制を崩そうとする意図もあったといわれる。

 

●下図は、1813年、ロシアのAdam John Krusenstern クルーゼン・シュテルンによる「世界周航記」。

ロシアらしく、北から日本に向けて南下し、千島列島、樺太、カムチャッカなどが、初めて詳細に描かれたらしい。

日本の形は、航海測量の限界なのか、スリムな形になっている。

この地図は、「シーボルト事件」と関わりがあるらしい。

●1821年 伊能忠敬、高橋景保らによる「大日本沿海輿地全図」。

伊能忠敬は、56歳にして日本地図を作成しようと自ら行動を起こし16年かけて全国を測量して回った。幕府も地図の正確さを認めて支援を行った。当然、この地図は国家機密となった。

ドイツの医者、植物・博物学者シーボルトは、長崎の出島でオランダ商館の医者として滞在していた。樺太の資料を求めていた高橋景保に「世界周航記」を贈り、その代わりに国家機密である「大日本沿海輿地全図」の縮図をシーボルトに贈った。学者の情報交換が命取りになった。

1828年、シーボルトが出国しようとする際にこの地図が見つかり、高橋が処分を受けたのが「シーボルト事件」。

1853年、黒船で来日したペリー提督は、「大日本沿海輿地全図」の縮図を持っていたといわれる。結果的に敵国に渡ってしまった国家機密の地図だが、ペリーはこれだけの測量技術を持っていた日本の能力に驚いたという。

日本開国の交渉に、この地図はどのように働いたのか、興味深い。


復帰38周年と米軍基地

2010-05-15 | 戦跡・沖縄戦・米軍

今日は、沖縄の本土復帰記念日です。
1972年5月15日の沖縄返還から、38年。
1945年3月26日の慶良間諸島(4月1日の沖縄本島)への米軍上陸から、65年。

沖縄に存在し続ける米軍基地。
その面積は23,681ヘクタールで、沖縄県の県土面積の約11%を占めています。
全国にある米軍専用施設面積の75%が沖縄に集中し、4万5千人の軍関係者が居住しています(沖縄県HP)。

沖縄県の面積は227,432ヘクタール。東京都210,239ヘクタール、大阪府189,376ヘクタールと同じくらいの大きさです。地図を並べて比較してみます。

もし、沖縄と同じように、東京都の面積の1割が米軍基地だったら…。
鉄道・道路などの交通網、住宅地・商業地など土地利用や都市活動が制約され、今の姿はなかったでしょう。墜落や騒音問題だけでない大きな問題です。(沖縄には鉄道がありません。)

東京には今でも横田飛行場(713ヘクタール)など米軍基地が8か所ありますが、戦後13か所が返還されました。
最も大きいものは立川飛行場(572ヘクタールで)、返還後は跡地利用計画が策定され、国の施設、病院、道路、モノレール、年間300万人が利用する国営昭和記念公園などが整備されて街が発展し、立川駅の乗車人数は1日平均16万人と23区以外では最多となっています。
人口140万人(観光客は570万人)の沖縄でも、那覇市天久の米軍基地192ヘクタールが1987年に返還され、跡地に道路、超高層ビル、県立博物館・美術館、合同庁舎、大型商業施設、大規模公園などが立地する那覇新都心に生まれ変わったのは記憶に新しい。
沖縄の基地が返還されれば、美しくて、しかも台風などの高波から海岸を守ってくれるサンゴ礁の海を埋め立てるような都市開発は不要になるでしょう。

最近、ある知事が、沖縄の負担を緩和するために、米軍訓練の一部を関西国際空港で受け入れることを検討すると発言しました。
素晴らしい発言ですが、大阪周辺の高密度な土地利用、加えて、訓練は空や海域で行うことから、大阪湾や瀬戸内海を頻繁に行き来する飛行機や船の存在を思うと、どんな米軍活動が展開可能と判断したのでしょうか。

沖縄に近づく旅客機は、米軍機の運用に支障を来さないよう、海面スレスレを飛んでいます。
那覇空港は自衛隊等も使用しているため、夕方は混雑し、旅客機の18時台の発着回数は17時台の半分になり、19時台よりも減ってしまっています。沖縄の航空機のダイヤに影響を与えており、空港の共用ひとつとってもいろんな問題が出てきます。

全国知事会で沖縄の負担軽減問題が取り上げられ、受け入れる地元も米軍も納得できるような沖縄基地機能の分散が実現するよう希望します。


知られていない沖縄のダムの工夫

2010-04-11 | 戦跡・沖縄戦・米軍
沖縄北部の太平洋側にある5つのダムは、地下トンネルで結ばれて、名護市の久志浄水場に送られ沖縄南部にも配水されています。
雨が降っても局所的なかたぶい(片降り)の多い沖縄で、洪水被害を防ぐとともに、降雨を有効に利用し、本島全体に配水する仕組みです。
東村と国頭村の境にある新川ダムに案内板がありました。

沖縄の山は、内地と違って広大な流域を持たないため、個々のダム湖は小さいですが、5つ連結することで有効に使えると考えられました。
返還前から計画され、昭和49年に福地ダム、52年に新川ダム、58年に安波ダム、普久川ダム、61年に辺野喜ダムと、5つのダムが完成しました。
伊江島にも、海底トンネルで送水されています。

新川ダムの風景です。流域面積が少ないので総貯水容量は165万トンと最小です。

こちらは、東村にある福地ダム。総貯水容量は5,500万トンと最大です。
ダムは満水に近い状態にしたいのですが、台風などの集中豪雨の際は下流に洪水を起こさないように、貯水に余裕を持たせる必要があり、バランスが難しいです。

貯水量を最大限発揮できるように考えられたのが、ダム湖から下流の河川への洪水吐けだけでなく、上流部への洪水吐けです。
上流に吐きだすとは不思議な感じがしますが、ここは地形的に海に隣接しており、海へ直接放流することで、下流の河川や集落への洪水被害を防ぐ工夫がされています。
上流部洪水吐けとして、全国でも最大規模のものだそうです。

海軍壕

2008-06-08 | 戦跡・沖縄戦・米軍
那覇空港の近くの高台に、旧海軍司令部壕があります。

米軍が沖縄本島に上陸したのが1945年4月1日。
本土決戦のための時間稼ぎを、沖縄で行なうため、徹底抗戦して玉砕せよという本土の指令。
陸軍の32軍は、首里城地下の司令部を捨てて魔文仁の丘へ南下したが、海軍はこの高台に築いた地下壕にとどまった。

長い階段を下りていくと、ひときわ涼しいです。
米軍の艦砲射撃に耐える構造で、4000人の兵士がいたそうです。
狭い壕の中、兵士は廊下で寝たそうです。

6月13日、自決する前に本土の海軍次官に打電した有名な大田実 少将の電文です。

「沖縄県民の実情に関しては県知事から報告すべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部も通信余力なしと認められ、現状を見過ごせないので、緊急に通知申し上げる。
沖縄島に敵攻略開始以来、陸海軍は防衛戦闘に専念し、県民を殆ど顧みることはなかった。
しかし県民は、青壮年は全員防衛召集に捧げ、残る老婦女子のみが相次ぐ砲撃・爆撃に全財産を焼かれ、身一つで軍作戦に支障ない小防空壕に避難し、乏しい生活に甘んじている。
しかも若き婦人は率先して看護婦、炊事婦、砲弾運び、捨て身の斬込み隊を申し出る者もいる。
敵が来れば老人子供は殺され、婦女子は後方に運ばれ毒牙に供されるとして、娘を軍に捨てる親もある。
看護婦は、軍に置き去りにされた重傷者を親身に助ける。
軍が作戦を大転換し、遥か遠隔地に住民地区を指定され、黙々と雨中を移動する。陸海軍が沖縄に進駐して以来、終始一貫、勤労奉仕や物資節約を強要されつつ、ひたすら日本人としてご奉公の護を胸に抱き…。
一本一草残らない焦土と化し、食糧は6月で尽きるという。
沖縄県民、かく戦えり。
県民に対し、後世に特別のご高配を賜らんことを。」

大田司令官の部屋です。
当時のままだそうです。

こちらは、自決した山田中佐が息子に宛てた遺書。
「雅弘よ 父は「バトン」をお前に渡したよ
父が望んで達することの出来なかった更に大なる飛躍こそは、お前以外に誰が襲いでくれるひとがあろうか…」

手榴弾で自決した幹部達。
壁に傷跡が残っています。

入り口の、階段の手前側に展示室があります。
ここは無料で入れます。
年配の方、若い人、外国人が無言で展示を見つめていました。
ここは、撮影してもよいとのことでした。

検定された教科書

2007-09-22 | 戦跡・沖縄戦・米軍
高校生が学ぶ日本史の教科書の沖縄戦に関する記述が、文部科学省の教科書検定制度により、来年度から変更される。
沖縄では検定撤回を求める意見書の採択が、全ての市町村議会と県議会で相次いで議決され、9月29日には大規模な県民集会が予定されるなど県土全体に動きが広がっている。

沖縄戦の最後の激戦地、糸満市摩文仁の丘にある平和祈念資料館に、実物の教科書が比較展示してあった。

+++++++++検定前(三省堂 日本史B)+++++++++


+++++++++検定後(三省堂 日本史B)+++++++++


高校教育でさえも沖縄戦の記述は5行と少ない。
検定前は、「日本軍に集団自決を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられ殺害された人も多く」とあり、悲惨な戦いになった理由に日本軍が関与したことが明記されていた。
しかし検定後では、「日本軍」が削除され、何に追い詰められて集団自決したのか、民間人が誰に殺されたのか、日本兵士が関与したのかどうか判らない記述になっている。

文部科学省が検定方針を変更したのは、住民の集団自決が「日本軍の命令だった」とする部分をめぐって裁判で係争中のことが大きな要因らしい。
大江健三郎の著書で自決を命令したと名指しされたと主張する元少佐が、2年前大江氏らを大阪地裁に提訴し、裁判は進行中である。
裁判の争点

沖縄では地元2大紙が一般的で産経新聞を見る人は少ないと思うが、本土では次のような報道もされている。
産経新聞2007/3/31

検定に対し、沖縄の学識者は「合理的根拠がなく、日本軍の加害責任を薄める政治的意図が見える。住民が『集団自決』に追い込まれた実態がぼやけてしまっている」と指摘。
沖縄タイムス2007/3/31

教科書の検定は十分な審議で事実を検証して行なうべきものだが、どのような議論がなされたのか。
感情的、政治的問題ではないはずだが、一つの進行中の民事裁判を理由とするのは、沖縄の歴史を消してしまう問題なのに慎重さを欠いていないか。
終戦後60余年経過し生存者が少なくなり事実確認が困難になってから、なぜこのような問題が生じてくるのか。

平和祈念資料館で、戦争に巻き込まれた住民の証言集を読んだ。
食事中に突然現れ、住民から食べ物を奪う日本兵…。
「アメリカ兵は住民を殺さないから米軍に投降しなさい」と勧め、自分は自決した日本兵…。
証言の中に、様々な日本兵が出てくる。
住民の身近に日本兵がいて、住民の行動に影響を与えたのは確かなことだろう。

歴史は後から作るものではなく、事実を積み重ねるものだと思う。


日本が国家主権を回復した1952年のサンフランシスコ講和条約。
連合国との戦争状態が終結し、日本が国際社会に迎えられた喜ばしい日。
しかし、沖縄では抗議集会が行なわれていた事実が展示してあった。
日本唯一の地上戦で県民の4人に1人が犠牲になり、講和条約によりさらに20年間も”日本”から切り離された事実が、沖縄の人の心に刻まれている。

摩文仁の丘

2006-09-19 | 戦跡・沖縄戦・米軍

沖縄本島の最南端、糸満市の海岸に「摩文仁(まぶに)の丘」がある。
サンゴ礁が隆起し、自然洞窟がある断崖絶壁の海岸は、61年前の夏、住民を巻き込む悲惨な戦場と化した。

1945年3月、今ではダイビングで有名な慶良間(ケラマ)諸島を占拠した米軍は、ここを拠点として、本島の北谷(ちゃたん)に上陸。
その後勢力を広げ5月には、今の首里城の地下に設けられた日本軍司令部に到達。

首里城を捨てた日本軍は南下して南端のこの地に到達し、住民が避難していた自然洞窟に逃げ込んだ。
洞窟を拠点に攻撃を繰り返し、米軍との本土決戦に備えるための時間稼ぎを沖縄で行うための「持久作戦」を展開した。
このため、米軍は火炎放射器や手榴弾で洞窟を一つずつ破壊するなど、「馬乗り攻撃」と呼ばれる掃討作戦で応じた。
この結果、洞窟内にいた多数の住民と兵士が犠牲になった。

米軍兵士の中に、精神障害になった者が多かったという事実は、お年寄りや女子を巻き込んだ戦いの悲惨さの一面である。
沖縄県平和祈念資料館

日本唯一の地上戦で、沖縄県民の3人に一人が犠牲になったといわれている。
延べ20万人の犠牲者の名前が、住民、兵士、外国人を問わず、名前が掲げられている。ー平和の礎ー


米軍放送

2006-09-06 | 戦跡・沖縄戦・米軍
米軍基地に近い地域では、米軍放送が入ります。

東京では、横田基地からFEN(極東放送)というAMのラジオ放送が有名。
ウルフマン・ジャックの音楽番組が懐かしい。映画「アメリカン・グラフィティ」に本人がラジオ番組のDJで出ていて驚いた。
それに、時報のたびに「This is the Far East Network!」と叫ぶ。
今は、AFN(American Forces Network:米軍放送)と名称を変えたらしい。

基地の多い沖縄では、テレビをつけると米軍のテレビ放送が見れる。
新聞にもラジオ欄の横に小さく放送予定の番組表が掲載されている。
ちょっとご紹介。

・米軍の話題。
兵士が何か語っている。内容は不明(ーー;)。


・軍人・家族向けのお知らせ
スケボーやローラースケートはヘルメット着用。バスケの前にはストレッチ。
このほか水難防止など、CMのように注意事項が繰り返し挿入される。


バスタブの中に変なものが。これは一体、何?
不発弾を見つけたら、直ぐに連絡をということらしい。ちょっとコワイ。


・映画、ドラマ、アニメ、セサミストリート、スタートレック等。
これは投稿傑作ビデオを放送するもの。賞金がもらえる。
ホームビデオでのアクシデント。子供や動物ネタが多い。
上の写真は、蛇口から出てきたカエルが必死にしがみついている。

嘉手納基地

2006-08-02 | 戦跡・沖縄戦・米軍
日米安全保障条約により米国の陸軍、海軍、空軍、海兵隊の基地があります。
空軍は、横田、三沢、嘉手納(かでな)の三つの飛行場。在日米軍 - Wikipedia

嘉手納飛行場は4000m級の滑走路が2本あり、軍用機200機近くが常駐する極東最大の空軍基地です。

この基地のすぐそばに、地元の嘉手納町が4年前に作った道の駅かでなに行って見ました。
4階建てで、1階は特産品売り場、2階はレストラン、3階は学習展示室、4階は展望場。学習展示室は琉球王国の歴史や戦争時の状況が淡々と紹介されています。
展望場からは嘉手納基地がよく見えて、轟音とともに離着陸する空軍機を多く人が見に来ていました。