沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

日本へ

2024-02-18 | 欧州

英仏旅行記の最終話です。

シャルル・ド・ゴール空港のラウンジ。
ハムとチーズとワインで名残惜しむ。

牛肉のブルゴーニュ風煮込み、

18:30 搭乗時刻です。
JAL機が待っています。


【日本への空路】
モニターに表示されています。
地球は丸いので、上に向かって弧を描くようにモスクワ上空を通過するコースが、日本へは最短距離です、
しかし、戦時国のウクライナやロシアを避けて、南側を飛ぶようです。
予定ルートから外れた車のナビのように、破線で最短距離を表示しつづけます
しかし、ウクライナのキエフ上空を飛ぶことは、あり得ないです。

エーゲ海やトルコを目指しています。

世界地図で影の部分は、太陽が出ていない地域です。
 
地球が回転する方向に向かって東回りに飛ぶので、実際の飛行速度は、地球の回転速度分遅くなります。
行きも東回りで、アラスカ上空を通過しました。西回りの方が、地球の回転速度分早くなります。
ロシア上空を通過していた頃は、飛行距離も短く、登場時間も短くてすみます。
 
ロシアのウクライナ侵略のせいです。
世界中でどれだけの燃料資源をムダに、どれだけのCO2を余計に排出しているんだろうと思います。

トルコ、トルクメニスタン、タジキスタン、中国と、シルクロード上空を飛んでます。

軽食です。うどんですかい。 UDON de Sky .  ダジャレですかい。

まもなく羽田です。楽しい旅でした。
 
【半年経過した今】
シャルル・ド・ゴール空港から羽田空港へ、同様のルートを飛んでます。
欧州と日本の間を飛んでいる飛行機の全体配置図です。
ロシア上空を飛行する飛行機は、数少ないです。

ヴェルサイユ宮殿

2024-01-31 | 欧州
パリから南西へ、ブローニュの森を過ぎ、バスで約40分、ヴェルサイユ宮殿に到着。
レストランで食事し、入り口前で、入場予約時刻を待つ。
 
黄金色のフェンスには、絵本に出てくるお日様のマークが。
ギリシャ神話に出てくるゼウスの息子、太陽神アポロンかな。
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世がルーヴル宮殿の代替として、パリ郊外の狩場に1661年から49年間を費やし1711年に完成。
 
ルイ14世は、4歳で即位し72年間も国王に君臨し(今ではギネス世界記録に認定)中央集権の絶対王政、重商主義政策国富を高め、領土を拡大した。
その権力と栄華の象徴が、巨額の富を投じたヴェルサイユ宮殿
 
ルイ14世は太陽王と呼ばれた。バレエが好きで自ら太陽神アポロンに扮したそうだ。
コペルニクス、ガリレイ、ケプラーにより、宇宙の中心は地球ではなく太陽(地動説)明らかになった当時
自分こそ宇宙の中心で世界が動く、太陽神に例えるという意味なのか。
 
ルーヴル美術館にアポロンのギャラリーという豪華絢爛な回廊があるが、ヴェルサイユ宮殿は全てが豪華絢爛
ヴェルサイユ宮殿の7つの部屋は、ギリシャ神話の神々の名前がついている。

王室礼拝堂(La Chapelle royale)
王家の祖先で守護聖人でもある聖ルイに捧げられた礼拝堂。
毎朝、ミサが行われ、ルイ16世とマリーアントワネットの婚礼が行われた。
三位一体を表した天井画とパイプオルガンが見える。
王族たちは現在いる2階で礼拝し、吹き抜け下の広間で信者たちが礼拝した。
 
ヘラクレス(ギリシャ神話の英雄)の間(Le Salon d’Hercule)

ヘラクレスは、ゼウスと人間の間に生まれた、半神半人
浮気に怒ったゼウスの妻が、ヘラクレスに子殺しをさせてしまう。
後悔したヘラクレスが神の意を伺い、課せられた12の難行を達成すると、死後にオリュンポスの神となることができた。
 
この巨大な天井画は、死後にヘラクレスが神になる様子が描かれている。
フリーズ
天井と壁面の境に、水平に延びる連続した帯状の飾りが、部屋ごとに違う。
各部屋のテーマに合わせて装飾している。
 

豊穣(女神アブンダンティア)の(Le Salon de l’Abondance)
王侯貴族をもてなした部屋。
ヴェルサイユ宮殿の周辺に王侯貴族を住まわせ、連日連夜、派手な祝宴が開催された。

 
ウェヌス(ヴィーナス:金星♀)の間(Le Salon de Vénus)
天井には、神々と強大国を帝国に従わせるヴィーナスが描かれている。
ローマ皇帝姿のルイ14世像
 
ディアーヌの間(ダイアナ:月の女神)(Le Salon de Diane)
月と狩猟の女神ディアーヌが描かれている。
胸像は、ルイ14世。
 
マルス(マーズ:火星♂)の間(Le Salon de Mars)
軍神マルスがモチーフで、衛兵の控えの間として使われていた。
フリーズは、甲冑の兜とライオンである。
 
 
メリクリウス(マーキュリー:水星)の間(Le Salon de Mercure)
ルイ14世の寝室だった部屋。1715年に遺体が安置され、1週間ミサが行われた。
ルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿の建設中の1682年から公式住居にし、工事の采配を細かく指示した。
ヴェルサイユ宮殿完成が1711年なので、完成後わずか4年で亡くなった。
アポロン(太陽神)の間(Le Salon d’Apollon)
太陽王ルイ14世の肖像画。
反対側には、ルイ16世(フランス革命で処刑された)の肖像画。
玉座。
天井には戦車に乗ったアポロンが描かれている。
 
戦争の間(Le Salon de la Guerre)
ルイ14世が、フランス領土拡大のため、戦場で戦う姿がレリーフに。
 
鏡の回廊(La Galerie des Glaces)
全長73m、357枚の鏡で装飾されている。当時、非常に高価な鏡を使うことで、国王の力を誇示。



ヴェルサイユ庭園
造園家アンドレ・ル・ノートルの大作。宮殿よりも多数の労働力を費やした。
水のない土地に、遠くセーヌ川から導水して巨大な運河を作った。
残念ながら、窓から一部を見ただけである。

王妃の寝室(La Chambre de la Reine)
歴代の王妃3人が、王の子19人を出産。世継ぎの様子は公開されたという。
ルイ16世の王妃となったマリー・アントワネットは、オーストリアから14歳で嫁ぎ、1789年フランス革命まで19年間、ここで暮らした。

大膳式の間(L’antichambre du Grand Couvert)
王と王妃が食事を取る儀式の場所。マリー・アントワネットと王女の絵が描かれている。
派手な服で市民から悪評な王妃だが、肖像画には質素な様子が描かれている。


戴冠の間(La Salle du Sacre)
フランス革命後、ジャック・ルイ・ダヴィッド作の「ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」を展示するため、改装された。ルーヴル美術館にあるのが1作目で、こちらは2作目。
ジャック・ルイ・ダヴィッド 鷲の軍旗の授与(シャン・ド・マルスにおける軍旗授与)1810年
左側のナポレオン皇帝が、フランス軍兵士を指差し、鷲の軍旗を授与。右側は熱狂したフランス軍兵士たち。三色旗と黄金の鷲がついた槍を皇帝に掲げ、愛国心と忠誠心を示している。
豪華絢爛とはこのことを言うのか。ヴェルサイユ宮殿の豪華絢爛さと見学客の多さに驚く。
いつか、庭園をじっくり見たい。

フランスの地下鉄と食事

2024-01-28 | 欧州
凱旋門から地下鉄でホテルに戻る。
 
列車が駅に到着しても、ドアは自動的に開閉しない。
最初の人が、手動でレバーをガチャッと下げると、ドアが開く。
なんでだろー。
 
日本でも寒冷地のローカル線では、車内が冷えないよう乗降客がボタンを押してドアを開ける仕組みがある。
9月のパリも、寒いのだろーか。
 
セーヌ川を渡って直ぐの駅。ビラケム。地下鉄だけど道路の上に駅舎がある。
 
今日は、一体どれくらい歩いたのか。スマホを見ると2万2千歩。
ルーヴル美術館がとにかく疲れた。人を避けながら歩くと、疲れ倍増。
 
この後、スーパーのモノプリに行って(既報)、お土産と夕食の調達。
 
翌日
英仏8日間の旅の最終日。
荷造りとモノプリで買い足してバスに乗り、ヴェルサイユへ向かう。

ヴェルサイユ宮殿の正面近くのレストラン Salon De Bresserie で昼食。
 
キッシュ、サラダ、トマト


パスタと牛肉のブルゴーニュ風煮込み


デザートは、エクレアと蜂蜜(表紙の写真)。
 

窓辺の席だった。
昨日の自由行動の話に、会話が弾む。
オペラ座に出かけたご夫婦。ムーラン・ルージュで観劇したご夫婦も。
時間と体力があれば、モネが晩年に残した「睡蓮の間」があるオランジュリー美術館やシャンゼリゼ大通りを歩きたかった。

エクレアと蜂蜜と赤ワイン。

次回は、ヴェルサイユ宮殿。

パリのスーパー(モノプリMONOPRIX)

2023-12-20 | 欧州
ホテルから歩いて直ぐのところに大手スーパーがある。
昨夜に続き、9時開店のモノプリMONOPRIX(大手スーパー)へ。
お土産は、ここが良いとHISのベテラン添乗員さんのお勧め。
 
【生鮮食品売り場】
カラフルで見た目がきれい。  値段はそれぞれ左から。フランス産だが、外国産も。
上段:赤ピーマン(ベルギー産)4.99ユーロ、ピーマン4.99ユーロ。黄ピーマン(ベルギー産)4.99ユーロ。
中段:ズッキーニ3.99ユーロ、緑のズッキーニは2.49ユーロ。
三段:シシトウ(スペイン産)4.99ユーロ。太めのシシトウ3.49ユーロ、トウガラシ(スペイン産)4.99ユーロ。
下段:ピーマン3.99ユーロ、丸いズッキーニ3.99ユーロ、ニンジン2.3ユーロ。
 
1ユーロ160円として、5ユーロは800円。4ユーロは640円。価格は5.5%の税込。
量り売りで、1キロ当たりの料金。野菜毎に、備え付けの紙袋に入れ、計量して支払う仕組み。
売り場に計量器が置いてあった。
調べると、計量器に置き、品目を選択すると自動的に値段がラベル表示され、それを袋に添付する。
必要個数を購入できるので、合理的だ。
シシトウやピーマンは重量が軽いので、安いような気もする。
野菜の重さを測ったこともなく、日本の袋売りに慣れているので、高いのか、安いのかが釈然としない。
 
こちらの商品は、名前と料金表が読み取れなかった。概ね3ユーロ前後。

パイナップル(モーリシャス産)4.5ユーロ。1ピースとあるので1個720円。オーガニック・バナナ(エクアドル産)一房1.99ユーロ360円。

見るだけでも楽しい。
  • フランスは1968年に世界に先駆けて付加価値税(消費税)を導入
  • 標準課税は20%で、レストランや調理済み食品は10%食品や水は5.5%コンサートチケットや新聞雑誌は2.1%医療や教育、切手等は非課税と軽減されている。
  • 表示は内税方式だが、レシートを見ると税別に合計が書いてある。
 
消費税の母国フランスは標準税率20%と高いが、生活文化、医療教育に不可欠な税率は内容に応じてそれぞれ軽減している。
  • 日本は標準税率が10%で、飲料・食品、定期購読新聞が8%土地や社会保険医療費が非課税である。
  • フランスに比較して、軽減される費目が少なすぎる
  • 日本国憲法第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
憲法に照らし、健康で文化的な最低限度の生活の維持に必要な費目を精査して、税率を引き下げる、引き上げ対象から外すべきだと思った。
 
【お土産】
添乗員さんのお勧めは、人気のモノプリのエコバッグが、20%税込で2ユーロ(日本だと1000円以上)。
レジのそばに、いろんなデザインが置いてある。エッフェル塔がお土産らしくていいね。
マドレーヌ3.89ユーロ、チョコは5.55ユーロ。5.5%税込
ハイビスカス茶などが、美味しいし、軽くて良いね。
【スーパーのレジ】
3タイプあった。
1)セルフレジ・支払はカードのみ。小型で10台くらいあで最も多く動線上にある。係1人
2)セルフレジ・支払はカードと現金大型機械のため5台くらいだった。係1人
3)有人レジ支払はカードと現金免税手続、商品タグ外しなど。係3人
 
地元の人は、1)でさっさと清算していた。タッチビザなどコンタクトレスが多いと思う。
昨夜は、ユーロを使い切りたかったので、3)に並び、残金をカードで支払った。
今朝は、2)に挑戦したが、フランス語の操作が複雑で中断した。操作の継続とエコバッグのタグを外すために係の人の手を借りた。言葉のわからない外国人の無謀な挑戦だったと素直に認めよう。こういうのが楽しいんだけどね。カード払いだけで商品タグ外しもなければ、1)が良いね。

凱旋門

2023-12-17 | 欧州

ルーヴル美術館を出た頃には、すっかり足が棒のようになっていた。

美術品を見ただけなのに2万歩。人の多さで疲労倍増。外国人観光客は約1億人と世界一。ルーヴル美術館、エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿は三大観光地。

 

そんなこともあって、自由行動の次の行き先は数多くの候補の中から、高い場所からパリの町並みを見渡したい。

パリミュージアムパスが使えるし、ひょっとしたらエレベータに乗れるかもと凱旋門に向かったが、考えが甘かった。

並ぶことは無かったが、50メートル上まで、ひたすら、らせん階段を登ることになった。

  • 高さ50メートル、幅45メートルの巨大な門である。
  • フランス革命後、ナポレオンが周辺国との戦争での勝利(特に1805年アウステルリッツで、ロシア皇帝と神聖ローマ皇帝の連合軍に勝利)を称え、30年かけて建設された。
  • ナポレオンの名声を、不滅のものとする目的もあった。
  • しかし、30年の間に、いくつかの勝利はあったものの、1805年対英国軍とのトラファルガーの戦いでの敗北、1807年対ロシア軍との戦いであるレフナの戦いで敗北、1813年対連合軍(オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンなど)とのライプツィヒの戦いで大敗。1815年のワーテルローの戦いで敗北し、ナポレオンはセントヘレナ島に送られ、1821年に死去した。
  • 敗北と死去にもかかわらず、凱旋門の建設は続けられ、ナポレオン死去15年後の1836年に完成した。

凱旋門から放射状に12本の緑豊かな大通りが延びており、パリの景色は圧巻だ。

左から右回りに、12本の緑豊かな通りを撮影。

オッシュ通りAvenue Hocheフリドラン通りAvenue de Friedland

正面遠方を拡大すると、モンマルトルの丘サクレ・クール寺院

シャンゼリゼ大通り Avenue des Champs-Élysées

拡大すると、正面にはコンコルド広場ルーヴル美術館

マルソー通りAvenue Marceau、イエナ通りAvenue d’Iéna そしてエッフェル塔

クレベール通りAvenue Kléber

ヴィクトル・ユゴー通りAvenue Victor Hugo、フォッシュ通りAvenue Foch


グランダルメ大通りAvenue de la Grande Armée

通りの地下を走るA14号線やPERA線の先に見える高層ビル群は、パリのビジネス地区であるラ・デファンス。多くの国際的な企業やビジネス関連の施設が集まるエリア。


カルノ通りAvenue Carnot、マクマオン通りAvenue Mac-Mahon

マクマオン通り、ワグラム通りAvenue de Wagram、オッシュ通り

ナポレオンは凱旋門を観ることが出来なかったけれど、この景色を見たら感無量だろうね。
 
余の真の栄誉は40回の戦いの勝利ではなく、永久に生きる余の民法典である。」とナポレオンはセントヘレナ島での回想録に記した。
ナポレオン法典はフランス民法典として、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ルーマニア、エジプト、アメリカ、日本など各国に影響を与えた。そのことを知ったら、更に、感無量だろうね。
 
登ったと言うことは、同じ数だけ降りなくちゃならない。
らせん階段を覗いてみると、何人かの手だけが、不気味に映っていた。目が回るね。
 
無名戦士の墓
凱旋門の下には、フランスが関わってきた戦争の終結を記念するプレート。

壁面には、ナポレオンの功績を称えるレリーフが多数あった。(表紙の写真)

凱旋門の地下では、4本の鉄道が交差しており、交通が便利だ。
地下鉄に乗ってホテルに戻ることに。

ルーヴル美術館

2023-11-14 | 欧州

ルーヴル美術館は予約しないと行列になるので、出発前にHPで入館日時を予約。パリミュージアム・パスと予約時刻入りの入館証を印刷。

手前の列は、入館時刻を予約した人達の荷物チェックで、ドンドン進む。

奥の長蛇の列は、当日券。大変だ。

奥の建物はドゥノン翼で、モナ・リザなどフランスの絵画がある。

年間800万人以上が訪れる美術館で、毎日の入館者は2万人以上。

建物は、中央のピラミッドからみて、北側がリシュリュー翼東側がシュリー翼南側がドゥノン翼

正面のシュリー翼から中に入る。内部は、とてつもなく広い。

メソポタミア文明

ハンムラビ法典 Code de Hammurabi 紀元前1792年 - 紀元前1750年

バビロニア(現在のイラク南部)を統治したハンムラビ王が建てた玄武岩の石碑

表面に何千もの文字が刻まれ、家族や奴隷、農業、商業、行政、婚姻・相続など判決のリストで、聖書の律法よりも古い法律文書

「男が...自由人の目をえぐり出すと、その目はえぐり出される。もし誰かが自由人の歯を折れば、その人の歯の一本が折れるであろう。これは、聖書の後半に出てくる「目には目を、歯には歯を」と同じで、過度な報復を防ぐ意味もあるとのこと。

1901年から1902年、フランスの考古学者が、イランの南西部にあるエラムの古都スーサで発見。

 

ラマッス(雄牛:両頭症、翼、ペンダントイヤリング) Lamassu (taureau : androcéphale, aile, boucle d'oreille à pendant) 紀元前721~紀元前705年 (右側)

  • 人間の頭を持つ翼のある雄牛は、サルゴン8世の宮殿の入り口を守る守護霊
    アッシリア帝国のサルゴン2世は、首都をドゥル・シャルキン(現在のイラク北部)に移し、巨大な宮殿を建てた。
  • フランスの考古学者ポール・エミール・ボッタが、1844年に王宮を発掘調査で発見。

大英博物館にもアッシリアの壁面レリーフがあったが、発見はフランスが6年早く、展示物は英国が160年古い

巻き毛のヒーロー(あごひげ、チュニック:ショート、スパイラルブレスレット:2、ロゼットブレスレット:2、テナント、ハープ、ライオン) 紀元前721年~紀元前705年 (左側)


一つずつ観ていくと、時間が足りなくなるので、ドゥノン翼のモナ・リザを観に行くことに。
 

アポロンのギャラリー

  • ルイ14世が改装し、シャルル・ルブランが装飾。
  • 太陽神アポロンを主題にした豪華絢爛な装飾を構想したが、宮廷がヴェルサイユ宮殿に移ると、未完のままとなった。
  • 19世紀後半の大々的な改修、ドラクロワたちによって仕上げられた。

ルーヴル宮殿だったこともあり、天窓で光を取り入れ、天井まで装飾してある。

人の流れが、モナ・リザに向かってる気がする。

グランド・ギャラリー

1610年に造られた全長460mの大回廊

両側に立派なイタリア絵画(1250年~1800年)があるけど、立ち止まる人もほとんどなく、人々は前に動く。

見えてきた。ここから行列になり、少しずつ、前に進む。

モナリザとして知られるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リサ・ゲラルディーニの肖像

Portrait of Lisa Gherardini, known as the Mona Lisa in the Salle des États 1503ー1519 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)

  • 縦77cm 横53cm で小さいが、1500年頃の肖像画としては大きいそうだ。
  • モナ・リザと呼ばれているが、名称は「リザ・ゲラルディーニの肖像」である。モナはマドンナ(私の貴婦人)の意味。
  • フランチェスコ・デル・ジョコンドが、レオナルド・ダ・ヴィンチに、妻のリザを画かせた肖像画(1503年次男の出産祝い)。
  • レオナルドは、制作代金を受け取っておらず、フランス王のフランソワ1世が4,000エキュで購入し、宮殿に飾った。
  • ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移し、1789年のフランス革命で国民の財産となりルーヴル美術館へ移された。
  • 2005年、ドイツのハイデルベルク大学図書館の専門家が、大学蔵書の余白部分に、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作中」と、フィレンツェの役人アゴスティーノ・ヴェスプッチが1503年に記したラテン語の書き込みを発見。

モナ・リザのモデルは誰なのかが、2005年の発見で明確になり、絵の名称も変更された。

リザは1479年生まれなので、肖像画は24歳の時5人の子に恵まれ、平穏で普通の中流階級の暮しを送った旧フィレンツェ家の女性だった。初めて知った。

1503年の書き込み。レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作していると書かれている

フランス絵画(1780年~1850年)

部屋の中央の左右に、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)の大作がある。

大きすぎて、写真に収まらない。

左側は、1789年のフランス革命の年に画かれたもの。

ブルトゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たちLes licteurs rapportent à Brutus les corps de ses fils.1789

  • 高さ3.23メートル、幅4.22メートルの大きな絵画。サロン・ド・パリに出展され、ルイ16世のコレクションに。
  • 紀元前509年、ローマ帝国のルキウス・ユニウス・ブルトゥス(左下の男)は、ローマ王を追放し、共和制を樹立した。
  • しかし、息子達が王政復古を目指し反乱したため処刑し、遺体が自宅に戻る場面(泣き叫ぶ妻)が画かれている。

フランス革命は封建的な身分制や領主制を排除し法の下の平等、経済的自由、人民主権、権力分立など資本主義社会を獲得した。

激動の年に、政治活動もしていたジャック=ルイ・ダヴィッドは、共和制を守るため非情な決断をしたブルトゥスを描かずにはいられなかったのだろう。

「個人的感情や家族愛を超えて、国家や公共の利益を優先するというフランス革命の理念」を伝え、「個人が社会や国家のために果たすべき役割と犠牲とは何か」を投げかけている。

なお、シェークスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の主人公ブルータスは、ブルトゥスの末裔。

 
 
右側は、ナポレオンの首席画家に任命され、1807年に画いた有名な絵画
 
  • 高さ6.21メートル。幅9.79 mの巨大な絵画。
  • ナポレオンは、1804年、国会の議決国民投票(民主主義)を経て、皇帝の地位についた。
  • 「人民の皇帝」として戴冠式は、教皇から王冠を戴く従来方式ではなく、ナポレオンが自ら王冠をかぶった
  • 政治にあたって、閣僚や大臣には政治家、官僚、学者を登用し、軍人は国防大臣だけとした。
  • 民法、商法、民事訴訟法、刑法、犯罪法など近代的法典の基礎を定め、各国(日本も)に影響を与えた。
  • フランスでは、改正されつつ現在に至るまで、「ナポレオン法典」が現行法である。

  • ナポレオンは、フランス革命に干渉してくる諸国戦争で勝利を収め、支配下に置いた(英国、ロシア、オスマン帝国以外)
  • 1805年、ネルソン提督率いるイギリス海軍に対し、トラファルガーの海戦で敗北。イギリス上陸作戦は失敗。
  • 1812年のロシア遠征失敗後、周辺国軍に包囲され失脚。しかし国王の政治が民衆の不満を買い、1815年ナポレオンは復位する。
  • しかし、イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗。幽閉されたセントヘレナ島で1821年死去。
 
横たわるオダリスク "La Grande Odalisque" 1814 ドミニク・アングル
  • イタリアのナポリ王妃から発注されたが渡らず、1819年のサロン・ド・パリに出展。
  • 全裸の美女が背中越しに振り返る古典的な構図だが、背中と腕が伸びすぎと批判された。
  • カメラ登場の時代に、絵画しか出来ない理想を求め、デフォルメを試みたという。
  • ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子。
 
ランス大聖堂でのシャルル7世の戴冠式のジャンヌ・ダルク "Jeanne d’Arc au sacre du roi Charles VII, dans la cathédrale de Reims" 1854年 ドミニク・アングル
  • フランス王の戴冠は、フランク王国の初代国王クローヴィスが洗礼を受けた、ランス大聖堂で行われた。
  • 王権の根拠を、ランスの聖油で聖別されることで、クローヴィスの後継者となった。
  • トロワ条約で、シャルル6世の死後は、英国のヘンリー5世が王位継承となっていたが、ジャンヌ・ダルクの活躍で、イングランド軍をランスから撤退させ、シャルル7世をランス大聖堂で戴冠させることが出来た。


1830年7月28日民衆を導く自由の女神 Le 28 juillet 1830. La Liberté guidant le peuple 1830年ウジェーヌ・ドラクロワ

  • 1815年の王政復古で、ルイ18世はフランス革命の成果を無視革命以前の状態にし、弟シャルル10世も言論を弾圧した。
  • 1830年7月、学生、労働者など市民が三色旗を掲げ、ルーヴル宮殿を占領、シャルル10世は国外逃亡した(フランス7月革命)。
  • 復古王政は崩壊。栄光の3日間とよばれる市民革命は、ベルギー、ポーランド、イタリアの独立・革命運動に影響を与えた。
  • 民衆を導く女性はマリアンヌ(フランスのシンボル。自由の女神)。シルクハット帽と銃を手にしているのはドラクロワ本人。
 
ジャンヌ・ダルクとマリアンヌ(自由の女神)は、フランスの歴史・文化を象徴する女性だね。
 
ギリシャ文明

サモトラケのニケ(勝利の女神) Victoire de Samothrace 紀元前200年~紀元前175年

  • 1863年、フランスの外交官がエーゲ海東北のサモトラケ島で大理石の彫像と118点の破片を見つけた。
  • これらの破片が、船首に立つ勝利の女神ニケ(ギリシャ神話)で、海戦の勝利を記念して制作された彫刻と言われている。

ここで、窓から外を見やる。ずいぶん館内を歩いたはずだ。入口のピラミッドが遠くに見える。
ルーヴル美術館は、途方もなく長く、広い。
向こう側に見えるリシュリュー翼の建物には、行けそうもない



あと観ていないのは、ミロのヴィーナスと…。再びシュリー翼に戻る。

ミロのヴィーナス Vénus de Milo 紀元前150年~紀元前125年

  • ギリシャのメロス島で1820年に発見され、フランスがトルコ政府から買い上げて国王ルイ18世に献上後、美術館に寄贈された。
  • ギリシャ神話の女神アフロディーテの大理石像と考えられている。
  • 1964年に日本の国立西洋美術館、京都市美術館で特別展示された。
エジプト文明

タニスの大スフィンクス 発見場所:タニス=サン・エル・ハガル(下エジプト東デルタ)

  • スフィンクスは、ホルス神を表すライオンの体と、王の頭である人間の頭を持っている。
  • 悪霊が神々に害を及ぼすのを防ぐために、神聖な場所の入り口に置かれた。
  • アメンエムハト2世(第12王朝、紀元前1898-1866)、メルネプタ王(第19王朝、紀元前1213-1203)、ショシェンク1世(第22王朝、紀元前945-924)の名前が刻まれていた。
  • ナポレオンのエジプト遠征に同行した調査団が発見。
 
ルーヴル美術館のHPの検索
38万点(展示はその1割)もの膨大な収集品の中から、調べたい作品を探す場合、「名前で探す」方法と、「展示場所で探す」方法と大きく分かれる。名前で探す方法は、少し使いにくいと感じた。
美術館訪問後に、作品を調べるには、展示場所で探す方法が見つけやすいかも知れない。
 
具体的には、地図から部屋番号をクリックすると、右側に展示品の画像が出てくるので、それをクリックすると詳細情報が得られる。

美術館を2箇所回ったが、足が棒のようになった。
時刻は15時。
オランジュリー美術館のモネの睡蓮やサント・シャペルのステンドグラスも行きたいところであったが、パリ市街を上空から展望していなかった。
この噴水の先に、遠くに見える建物が、次の目的地になった。

クロード・モネ(上野の森美術館)

2023-11-10 | 欧州
上野の森美術館(東京上野公園)で開催されている(2023年10月20日(金)~2024年1月28日(日))
モネ 連作の情景」に行ってきました。
 
時代をおって、印象派以前、印象派、テーマへの集中、連作の画家モネ、「睡蓮」とジヴェルニーの庭の順に、国内外から作品をお借りして展示されています。
展示作品は、主催者のサイトにありますが、来年の大阪会場が終了すると消えてしまうので、いくつか紹介します。
なお、撮影禁止が多かったので、絵はがきをアップしています。
 
【印象派以前のモネ】

ルーヴル河岸 Quai du Louvre 1867年頃

ルーブル宮殿(現在のルーブル美術館)の東側から描いた作品。セーヌ川の河畔を往来する馬車や人、正面はパンテオン(神殿)のドーム。伝統的様式で描かれた、モネには珍しい都会の風景。

(オランダ デン・ハーグ美術館 初来日)

 
昼食 The Luncheon 1868–69年
食卓には、後に結婚するカミーユと息子のジャン。ジャンの食事終了を待つ来客の女性とモネの席が手前にある。後方は使用人。
伝統的手法で、表情もしっかり画いているが、題材が日常的風景なのが評価されなかったのか。
審査員ミレーが支持したが1870年のサロン・ド・パリに落選。1874年に第1回印象派展に出品した。
(ドイツ シュテーデル美術館、初来日)
 
ザーン川の岸辺の家々 Houses by the Bank of the River Zaan 1871年
普仏戦争を避け、滞在していたオランダのザーンダムで画かれた。
水面に映る影のタッチはモネらしいが、空や建物の色使いが特徴的に思える。
(ドイツ シュテーデル美術館、初来日)
 
【印象派の画家、モネ】

モネのアトリエ舟 Monet’s Studio Boat 1874年 

  • アトリエから外に出て,戸外制作を始めたのは、自分が最初だとモネは自負していた。
  • 戸外制作での悪条件を克服するため、庭に溝を掘ってキャンバスを溝に入れ、絵の上部を描いた。
  • 川面や水辺の光景を描くため、ボートの上にアトリエ小屋を設営した。これなら日差しを避けて、長時間水面上に滞在でき、風で材料が飛ばされることを防げる。
(オランダ クレラー・ミュラー美術館)
 
【連作の作家、モネ
1880年代終わりから、モネはひとつのテーマを、天候、季節で変化する光のもとで描く「連作」が中心になる。
  • 1890年後半から、自宅の周りに「積みわら」を置き、天候や光で変化する連作25点を制作した。
  • 1892年、ルーアン大聖堂の西側正面の建物の中にイーゼルを複数置き、時刻で変化する「ルーアン大聖堂」の連作30点を制作した。
  • 1900年前後、ロンドン名物のテムズ川の霧、光で変化する「ウォータールー橋」など100点を制作、アトリエで仕上げた
  • 晩年は、自宅の庭に睡蓮の咲く池を造り、「睡蓮」の連作48点以上を制作した。

ウォータールー橋、曇り Waterloo Bridge, Overcast Weather 1900年

( アイルランド ヒュー・レイン・ギャラリー)



 ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ Waterloo Bridge, London, at Dusk 1904年
(米国 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
 ウォータールー橋、ロンドン、日没 Waterloo Bridge, London, at Sunset 1904年
(米国 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

 
睡蓮の池 The Water-Lily Pond 1918年頃
睡蓮の花や葉に加え、水面に映る空や木々の影が、光とともに画面一杯に描かれていく。
(ドイツ ハッソ・プラットナー・コレクション)

2024年は、1874年の第1回印象派作品展開催から150年。
来年は、印象派のイベントに期待ですね。

クロード・モネ(オルセー美術館)

2023-11-05 | 欧州
オルセー美術館のクロード・モネです。
 
クロード・モネ Claude Monet (1840 - 1926)
  • チューブ入りの絵の具を手にしたモネら印象派の画家は、屋外に出て、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」を表現することを追求した。
  • 1865年のサロン・ド・パリ(展覧会)に2作品が初入選した際、名前が似ているマネが憤慨したため、クロード・モネで署名するようになった。
  • 1866年のサロンにも2作品が入選したが、1867年の「庭の女性たち」(表紙)は時間を費やした大作ながら落選し落胆する。息子ジャンも生まれたが、絵が売れず経済的に困窮していた。
  • サロンに落選したモネ、ドガ、ルノワールなど印象派グループは1874年に独立した展覧会(第1回印象派展)を開催。モネが出品した「印象・日の出」が、印象派の名前の由来となった。
  • 同じ構図で光の変化を変える、積みわらなどの「連作」が米国を含め人気となり、経済的に安定
  • 1890年にジヴェルニーの家に作った「花の庭」に加え、1893年に隣の敷地を購入し川の水を引き睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作った。睡蓮の連作を数多く描いた。
 
庭の女性たち Femmes au jardin 1867年
4人の女性は、後に、妻となるカミーユがモデル。縦255cm×横205cmとかなり大きい。(表紙の写真)
  • モネは、庭にキャンバスを立て、光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に制作を始め、太陽が雲で隠れると筆を止めた
  • 絵筆を持ったまま動かないモネの姿に「なぜ描かないのか」と聞かれ、モネは「あのせいだ」と言って雲を指したというエピソードがある。
  • 大きな絵なので、庭に溝を掘り、滑車でキャンバスを溝に降ろし、視点を変えることなく、絵の上部を描き上げた。
降り注いだ太陽光で眩く白いドレスや小道と、それらが木の影によって色を失う様子が鮮明で印象的。しかし、肖像画のような写実性がない、筆跡が残り稚拙と評価され落選。
 
ロッシュ・ノワールのホテル.トルヴィル Hôtel des Roches Noires. Trouville 1870年 
結婚式後、若い妻カミーユとリゾート地トゥルーヴィルに滞在。赤と白の縞模様が自由な筆致で描かれた旗が、印象的。
ホテルから出てくる人影が、カミーユではないかと想像させる。
 
ザーンダム Zaandam 1871年
普仏戦争を避け、ロンドンやオランダのザーンダムに滞在し、絵を描いた。
雲や水面に映る色づいた木々がいいね。

モネは、1871年12月、パリ近郊のセーヌ川に面したアルジャントゥイユに、マネの世話でアトリエを構え、6年間でセーヌ河畔の風景や日常を数多く描いた。
 
ひなげし Coquelicots 1873年 
1874年に、第1回印象派展で一般公開した有名な作品。妻カミーユと長男のジャン

「昼食」1873年 
庭で昼食をとろうとする長男ジャンの姿が描かれている。第2回印象派展出品
白いテーブルクロスやジャンが、所々、木陰になる表現が巧み。
 
アルジャントゥイユ橋 Le Pont d'Argenteuil 1874年
第2回印象派展。マストや家に光が当たると、川面に反射する補色(オレンジとブルー)が、きらびやか。
 
アルジャントゥイユの鉄道橋 Le Pont du chemin de fer à Argenteuil 1874年
汽車の煙が、風と光を受け、たなびいて消えていく様子がいいね。
  
 
ボート,アルジャントゥイユのレガッタ Les Barques. Régates à Argenteuil 1874年頃
風と光を受ける帆を表現。川面に映る空が、風波で揺れている。
 
アルジャントゥイユでの生活に出費がかさみ、モネは借金に追われ、家具の競売を求められたうえ、妻カミーユが病気に倒れた。
1878年にパリに戻り、次男ミシェルが生まれたが、経済的に苦しい中、カミーユは病気が悪化し、1879年32歳で死去した。
 
1883年、パリ郊外のジヴェルニーに移り、1926年に没するまで、この地で制作を続けた。
パトロンだった実業家エルネスト・オシュデが破産し、妻アリスと6人の子供達と、モネは同居することとなった。
 
戸外の人物習作:右向きの日傘をさす女 Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la droite 1886年
1875年に妻カミーユと長男を画いた「散歩、日傘をさす女」と同じ構図だが、顔はぼかしており、病死した妻カミーユを思い出しながら、後に2番目の妻となるアリスの娘シュザンヌ(18歳)をモデルに画いたとされている。
売ることはなく、死ぬまでモネが保持していた。切ないね
1927年、モネの死後に、次男ミシェル・モネが、ルーブル美術館に寄贈。
戸外の人物習作:左向きの日傘をさす女 Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la gauche 1886年
2枚の絵は、右から吹く風を、日傘で巧みに表現している。
風上に向けてしっかりと右腕で支え(上の絵)、風を背に背中と頭で日傘を支えている(下の絵)。
 
ノルウェー語で En norvégienne 1887年頃

モネが晩年になるにつれてほとんど描かなくなった戸外の人物像の、ほぼ最後の作品とされている。

3人はモネの後妻となるアリス・オシュデの娘たちで、左からジェルメーヌ(14歳)、シュザンヌ(19歳)、ブランシュ(22歳、10年後にジャンと結婚)の3人。


 
積みわら、夏の終わり Meules, fin de l'été 1891年
一つのテーマを同じ構図で、天候や時刻の違いなど光の効果だけを変える「連作」を始める。
「積みわらのさまざまな光の連作に夢中なのです。描き進めるに従って、私が求めているもの―「瞬間性」、とりわけ物を取り囲む大気と、至るところに輝く均一な光―を表現するためには、もっと努力しなければいけないことが分かるのです。」
積みわらの連作で、米国を含め、一気に人気画家になった。
1892年、エルネスト・オシュデの死の翌年、モネはアリスと結婚した。

ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流 Bras de Seine près de Giverny 1897
 
睡蓮の池、緑のハーモニー Le Bassin aux nymphéas, harmonie verte 1899年
浮世絵の影響を受けたとされる。同じ構図で「日本の橋と睡蓮の池」という作品がある。
モネの連作には、積みわら、ルーアン大聖堂、睡蓮、ウオーター・ルー橋、国会議事堂など。
1914年、睡蓮の大画面作品を描くためアトリエを建て、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを4枚繋げて睡蓮大装飾画を制作し、1921年オランジュリー美術館の2つのホールに寄贈することとし、生涯をかけて制作に取組んだ。
1926年永眠。1927年オランジュリー美術館の睡蓮の除幕式。

オルセー美術館

2023-11-04 | 欧州

パリで自由行動なら、美術館巡りだね。

ネットでは入場予約が取れなかったオルセー美術館に、朝一番で行くことにした。

google mapsで、乗車駅、行き先、降車駅などを調べて、初めて乗る地下鉄に挑戦。

地下通路が凄い。
白いレンガ調タイル、緑のストライプ、壁に埋込照明、床も塗装されて、おしゃれで工事単価が高いな。

地上に出ると、建物の高さ、色調、デザインが統一された街並みおしゃれやん
縦型の信号機に標識もスマートでいいね。日本と違うな。
道路は一方通行にして、両サイドに駐車帯。自転車置場もある。
よく見ると、横断歩道の白線が、歩道側にはみ出てるやん
美術館は9:30開館だが、9:00に到着。
オルセー美術館のチケットは、時間指定で購入可能だが、数週間前から満杯で予約できなかった。
当日券は混雑するので、「パリ・ミュージアムパス」をインターネットで購入した。
  • パリ・ミュージアムパスは57.48ユーロ(9,390円)。2日間(最初の入場から48時間以内)で、30以上の美術館などがフリーパス
  • さらに、団体用のC1ゲートから優先入場できる。先頭に並んで開場を待つ。
美術館前の広場は、ムダな告知板や案内がなく、美しい。
赤いジグザグ順路は、当日券を購入するC2ゲート用。

9:30に開館。入場券を持たないC2より先に、C1ゲートが開く。
保安検査・手荷物検査を受け、入場。日本語のパンフレットをゲット。

オルセー美術館
  • 1900年の万博で建てられたオルレアン鉄道の駅舎を改築し、1986年に完成。
  • 1848年から1914年にかけて作品、特に、ルノワール、モネ、ドガなど人気の高い「印象派の作品」を展示。
  • 写真撮影は自由。嬉しいね。たくさん、写真を撮りました。
印象派とは
  • 絵具がチューブ式になり、アトリエから外へ出て屋外で絵を描くことが可能となった。風景を直接観察し、天候で変化する光や色彩を表現することが新たな芸術運動となった。
  • しかし、フランス芸術アカデミーは、歴史的題材、肖像画、宗教画が主流であり、印象派の描く風景画や静物画は軽んじられた
  • サロン・ド・パリ(展覧会)の審査会では、印象派は全く評価されず、絵が売れない画家達は経済的に困窮した。
  • 2024年には、印象派誕生150年を記念しフランス国内での巡回展が予定されている。
 
エドワール・マネ  Édouard Manet(1832 - 1883)
  • 印象派の画家に影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられている。
笛を吹く少年 Le Fifre 1866年
ヨーロッパで主流だった立体感のある遠近法に対し、浮世絵の平面的な表現を使用した。
 
ジャン・フランソワ・ミレー Jean-François Millet (1814-1875)
  • 写実主義。農民画。農民生活や窮状を描いた。印象派に影響を与えた。
  • 「結局、農民画が私の気質に合っている。社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても、芸術で、最も私の心を動かすのは、何よりも人間的な側面なのだ。(1851年知人への手紙)」
  • サロン・ド・パリ(展覧会)の審査員として、1870年にモネの作品を支持したが、モネは落選。
落穂拾い Des glaneuses 1857年 
旧約聖書には「収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者のために残しておかねばならない。」
収穫を手伝った農民が、残された落ち穂を拾う権利があったが、1854年、地主達はこれを廃止しようとした。

晩鐘 L'Angélus 1857-59年 
「かつて私の祖母が畑仕事をしている時、鐘の音を聞くと、いつもどのようにしていたか考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて、敬虔な仕草で、帽子を手に、「憐れむべき死者たちのために」と唱えさせました。(1865年ミレー談)」
糸紡ぎ女、オーヴェルニュのヤギ飼い La Fileuse, chevrière auvergnate 1868年から1869年の間
堤防に座り、ヤギの世話をしながら、紡錘で羊毛を紡ぐ若い農民の女性
牧羊場、月明かり Le Parc à moutons, clair de lune 1872年頃
太陽が沈み、水平線から上る月に照らされる、羊の群れが画かれています。
グレヴィル教会 L'église de Gréville 1871年から1874年の間
1870年から1871年、ミレーは生まれ故郷に戻り、普仏戦争から避難した。
幼少期、毎週日曜日に両親と通ったグレヴィルの小さな教会は、彼の過去を象徴する場所のひとつ。
 
グレヴィルのノーマン人の牛乳搾り女 Laitière normande à Gréville 1874年
ミレーが描いた最後の作品の一つ。幼少の記憶を、描いたのだろうか。
病気で健康が悪化し、1875年1月に死去
 
ピエール・オーギュスト・ルノワール Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)
  • クロード・モネ(1歳上)とともに、印象派を代表し発展させた
  • 経済的に困窮していたモネを助け、二人は新たな「筆触分割の手法」を生み出した。2つの絵の具を、パレット上で混ぜず、小さなタッチで並べ、錯覚で色を出す手法
  • ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いた。
 
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 Bal du moulin de la Galette 1876年
ルノワールの最も重要な作品で、1877年の第3回印象派グループ展に出品された。
モンマルトルの丘の舞踏場を、幅175㎝の大きなキャンパスに画いた。
ギュスターヴ・カイユボット・コレクションに所蔵後、国に遺贈。

アルフォンシーヌ・フルネーズ Alphonsine Fournaise 1879年 

レストランの主人の娘の名前。

「印象派はサロンに応募すべきでない。」とドガは主張したが、経済的に苦しいルノワールは、入選したら作品が売れるサロンへの応募が切実な問題だった。

太陽光があふれる川面で、光のとらえ方、表現が巧み。


 
静物画 Nature morte 1885年頃
 
コロンナ・ロマーノ Colonna Romano 1913年頃
リューマチで車椅子生活となり、動かない手に絵筆を縛り付けて画いていた。壮絶だ。

後ろ姿の横たわる裸婦、浴後の休息 Nu couché, vu de dos、 Le repos après le bain 1916-1917年頃

裸婦を数多く描いたルノワールの晩年の作品。


 
ジョルジュ・スーラ Georges Seurat(1859-1891) 
  • スーラは、印象派の画家たちが用いた「筆触分割」の手法をさらに進め、「点描技法」にたどりついた。

サーカス Le Cirque 1891年 

縦1.8m横1.5mの大作で使われている色も赤、黄色、青の3色。

スーラの最後の作品。この作品を完成させることなく、1891年のアンデパンダン展※の開幕から数日後に亡くなった。

※ サロンに対抗し、誰でも自由に審査無しに出品し、作品評価を来場者に直接問うことが出来る展覧会


ギュスターヴ・カイユボット Gustave Caillebotte(1848-1894)
  • 上流階級の家で生まれた。第3回印象派展を開催。
  • ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」など印象派の仲間の作品を購入して支えた。
  • 透視図法と写真のような緻密な仕上げを行い、印象派よりもサロンの価値感に近かった。
 
舟遊び Partie de bateau 1877-1878年頃
ギュスターヴ・カイユボットの傑作で、国宝指定後に、LVMH(モエ・ヘネシー、ルイ・ヴィトン)が2023年に43ミリオンユーロ(約60億円)で取得し、美術館に提供。
絵を見る人がボートに乗っているかのような、絵画の空間と鑑賞者の空間の距離をなくすことを目的とした独自の没入型フレーミング。
第4回印象派展に出品したが、当時は単純な「現実の写真」と言う人もあり、多くの批判を浴びた。
ひまわり、プティ・ジュヌヴィリエの庭 Les Soleils, jardin du Petit Gennevilliers 1885年頃
「モネのように画家兼庭師となり風景画に新しいスタイルを構築。縦長のキャンバスの選択や、近景と遠景が並列させた平らな空間の効果、作品の端をカットし見る人を絵の中に入り込ませる構図。日本の版画や写真の例に触発されたのかもしれません。(オルセー美術館の作品解説)」

 
アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー Henri Julien Félix Rousseau(1844-1910)
  • 素朴派。下手な画家と評される。パリ市の税関に22年に勤務。退職後に多くの絵を描いた。
  • 遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれている。
  • 一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品はパブロ・ピカソからも評価された。
 
蛇使い の女 La charmeuse de Serpents 1907
「主題は、不穏なエデンの園にいる黒いイブで、創世記の蛇が魅惑的だったのと同じくらい恐ろしいの魔術師。そして、率直で濃密な色彩、マグリットを彷彿とさせる逆光、素朴で正確なライン、革新的な左右非対称の垂直な構図など、スタイルがあります。
人物、動物、幻想的な植物の装飾は、均一で細心。奇妙な静寂の中で凍りつく。この絵の幻想的な世界は、シュルレアリスムの先駆け。(オルセー美術館の解説)」
 
モネの作品は、たくさんあるので、別の記事に。
 
地下1階のカフェ・ド・ラ・ガールで軽食。ドリンクを付けて一人分12.5ユーロ。2000円。
オルセー美術館は、お気に入りですね。

パリへ

2023-10-31 | 欧州

シャルトルから、高速道路A10、国道N118を通り、19:23にパリ市街に。

1時間サマータイムなので、時刻は日本だと20:23。外がまだ明るいのは、パリの緯度が高いせいだ。

交差する高速道路はA86。パリの南市街に向かう車で渋滞してる。

google mapsで見ると、ここ。

豪快なスケールの四つ葉のクローバー型だね。

日本は、場所を取らないトランペット型が多い。

ホテルは、ノボテル パリ サントゥール(旧ホテル日航パリ)

あと12分で20時には到着かな。


赤い建物が宿泊ホテル。わかりやすくて便利だけど、ちょっと恥ずかしいなあ。


チェックイン後、夕食は20:40から。

前菜のサラダとパン

今夜は旅行会社のHISが、ワインのボトルサービス


メインは、鮭のムニエル ライス
食器や飾り付けは、日本の方が繊細だね。
フランスは、量が多くて、ソースが美味しい。

デザートは,同じ大きさのお皿に、大きなアップルパイ
スプーンで食べるんかい、と思うが、美味しいから許す。

すっかり酔いが回ってしまったが、夕食後に地下鉄の切符を買いに行くことに。
明日は自由行動で地下鉄が不可欠。パリは、ロンドンとは異なり、改札をタッチビザで入れない。
 
添乗員さんが、地下鉄の切符の購入方法教えてくれた。勤務時間外なのに、ありがたい。
10枚セットの回数券(カルネ )14.9ユーロ(約3,100円)。

来年のパリ・オリンピックは、地下鉄利用の観客が多いけど、自販機で切符購入だと混乱するね。
ロンドンのような、タッチビザ導入を検討しているのかな。
 
ホテルの近くに戻ると、23時近くだった。
添乗員さんが、エッフェル塔のシャンパン・フラッシュが始まると教えてくれた。
ライトアップされたエッフェル塔が、23時から5分間だけ、更に光り輝くという。
13秒後に注目。

シャルトル大聖堂

2023-10-28 | 欧州

モン・サン・ミシェルを13:10に出発。専用バスは高速道路A11を走行。

田園風景ばかりだが、随所に風力発電所がある。

4時間後の17:10、ひときわ大きな教会の尖塔が二つ見えてきた。
シャルトルのノートルダム大聖堂。Cathédrale Notre-Dame de Chartres
 
ノートルダムは、私たちの貴婦人(聖母マリア)の意味。
パリのノートルダム大聖堂は、Cathédrale Notre-Dame de Paris
大聖堂(カテドラル)は、司教のいる大きな教会。普通の教会は司祭がいる。
 
修道院が神学、信仰を学び、労働し共同生活する場に対し、教会は出生や洗礼など、地域の人々の歴史を記録する。
手前の建物は、シャルトル市庁舎
#Chartres 「ここで写真撮ってね!」ということだね。

狭い道路だが、両側に歩道を、車道には自転車道を確保してる。

大聖堂は、1145年にロマネスク様式で建設されたが、1194年の大火事で西の塔以外は被災。
ゴシック様式で改築された姿は、フランスゴシック様式でもっと美しいとされている。

右側の尖塔(角錐)が、1140年から続くロマネスク調のもので、高さ105m。
左側の尖塔(火焔式)が、ゴシック調のもので、高さは113m。
火災後の復興に伴い、正面に二つの建築様式の塔がそびえる、珍しい大聖堂となった。
 
丸い窓は、薔薇窓

薔薇窓の上には彫刻が。中央最上部にキリスト像。ロマネスク様式の彫刻。
聖母子像の下に、16人の王が横一列に並び、王のギャラリーと呼ばれている。
南袖廊の扉口
上部はロマネスク調の尖塔が残るが、薔薇窓とステンドグラスはゴシック調。
外側から見ても、ステンドグラスが多い、ゴシック様式の特徴。
西側の正面入り口
彫刻が間近に見える。
内部の身廊。高さは37mもある。
商業ビルなら10階建て、マンションならそれ以上の高さだね。

南側の薔薇窓のステンドグラスが、青を基調に凄くきれい。
外見からは想像できないが、内部から見て圧倒される。
大聖堂内部には、173枚のステンドグラスがあるそうだ。


「美しき絵ガラスの聖母(Notre-Dame de la Belle-Verrièreノートルダム・ド・ラ・ベル・ヴェリエール)」は、1180年に作られたステンドグラス。
キリストを抱く聖母マリアの姿、天使ガブリエルの受胎告知や、聖母マリアの訪問を表現している。

左側は、12の月と12星座のステンドグラス
射手座や天秤座は、すぐにわかるが…。
青いステンドグラスは、シャルトル・ブルーと呼ばれている。
下から上にステンドグラスを見上げていくと、物語が理解できる。
アダムとイブやノアの箱舟の物語など、字が読めない人にも伝わる。

たくさんの彫刻。
聖母マリアとキリストの生涯が、41の場面で彫り込まれている。

聖ピアット礼拝堂
こちらは新しい。

聖母のヴェール「サンクタ・カミシア」が納められており、巡礼者が訪れる聖遺物となっている。
どこにあるのかな。
ここは、ベールを拡げた聖母を祈る場所になっている。

「聖母のヴェール」らしきもの。
ケースに入っており、厳重に管理されていた。

幸いなことに、フランス革命では略奪されず、戦争中にはステンドグラスを外して保管しており、中世が現存する点が凄い。
1979年に世界遺産に登録された。
入場無料で、セキュリティチェックもなかった。
18:05。大聖堂を中心とした街シャルトルに別れを告げ、バスはパリに向かうのであった。

プラール母さんのオムレツ

2023-10-23 | 欧州

ラ・メール・プラール(プラール母さん)が、モン・サン・ミシェルを訪れる巡礼者のために生み出したオムレツ。

潮の満ち引きが激しいため、お客さんの予測が難しく、食事ができるのを客が待っている間、素早く作れる「前菜」としてオムレツを考案したとのこと。

前菜のオムレツ
メレンゲで膨らんだ、ふわっふわっとしてる。前菜でこれを食べるとは…。
はやく食べないと、写真撮ってる間に、しぼんでる。

メイン
大きなベーコンとパスタ。
こういうのは、好きだな。赤ワインに合うね。

デザート
ケーキ、ブルーベリーとイチゴ。
お土産
ビスケット
島内のラ・メール・プラールのショップで購入。36個入り。

フランス語はさっぱりなので、Googleレンズがありがたい。



塩キャラメル
ゲランド塩とフレッシュバター。だいぶ食べてしまったけど。


成分表示の翻訳はありがたいね。

このほか、モンサンミシェルの日本語ガイドブックと、クッションがお土産。
 



ということで、次の目的地に向かって、バスに乗ったのでした。

モン・サン・ミシェル

2023-10-19 | 欧州
モン・サン・ミシェル(Mont Saint-Michel)
サン・ミシェルは、フランス語で「聖ミカエル」のこと。
ミッシェルとはねるのは、Michelの英語読みの発音なので、気をつけよう。
 
ミ・カ・エル」を直訳すれば「神に似たものは誰?」(mî疑問詞「誰」 + kə「~のような」 + hā ’ēl「神」)という意味になる。
カトリック教会では「大天使 聖ミカエル」と呼ばれる。
右手に剣を持ち、悪魔や邪悪な力と戦う守護者として、山頂や建物の頂上にミカエルの像が置かれた。
また、ジャンヌ・ダルクに神の啓示を与えたとされる。
708年オベール司教の夢の中に、聖ミカエルが現れ「私を祀る祭壇をつくれ」とのお告げが繰り返され、モン(岩の島)に祭壇の洞窟を造ったのが始まり。
その後、修道院が10世紀から16世紀にかけて造られた。
モン・サン・ミシェル
一方で、オベール司教の頭蓋骨(聖ミカエルが司教の額に手を当てた際にできた傷がある)が「聖遺物」とされ、頭痛を治すという信仰や、聖ミカエルが左手に持つ秤で、最後の審判の日に人々の魂の重さを測り天国に行くかを決めるという信仰(写真の左手に秤。トレーに魂を乗せて測る)、それに「聖遺物」を目指す多くの巡礼者達がこの地を訪れ、賑わい、寄付によって美しく飾られるようになった。
ノルマンディの領主達も、キリスト教社会の重要な位置を占めるものとして庇護した。
 
干潮の時は地続きで島に渡れるが、途中で潮が満ちるスピードが速く、命を落とす人が絶えなかった。

現地のフランス人ガイドを、添乗員が翻訳しつつ案内が始まった。

島を囲む通路から見たところ。満潮時刻。橋をわたった対岸にホテルなどがある。

ドーバー海峡の対岸は、英国になる。
英仏100年戦争の際には、イングランド軍が接近。ここは要塞となり、見張りの順路になった。

通路から見上げたところ。
1日に4回繰り返す急速な潮の干満は、敵の侵入も防いだ。

島内で最初に通るのが村。石畳の参道に店が建ち並ぶ。
これは、狭い通路。すれ違いも出来ず、閉所恐怖症の私は、絶対に通らない。

1888年創業のラ・メール・プラールのショップ。巡礼者のために栄養価の高いオムレツを考案。
いまは、サブレがモン・サン・ミシェル定番のお土産。
いよいよ修道院の入口。
自動小銃を持ったフランス軍兵士6人が我々を追い抜き、手荷物の保安検査のゲートに向かった。
間近に見る、銃に緊張する。怖いね。
ロマネスク建築様式の後に、ゴシック建築様式で改築されている。
多くの巡礼者達が上った階段。キツいね。

右側の建物で雨水を貯留。消防用の水栓。

大階段を上がると、西のテラスに出る。
ずいぶん上まで来た。潮が引きつつあるね。正面は河川で、海に合流する。

修道院の上は、教会になっている。

建設に関わった石工達が彫った識別用の印。日本のお城も同じだ。

模型が置いてあった。北側(イングランド側)から見たところ。攻め込むのは無理。
岩山の上に、高さ80メートルまで、よく築き上げたものだ。石材は舟で運んだとのこと。

修道院の教会
15~16世紀のゴシック建築様式で、窓が多く、明るい。
(11世紀の教会は何度か崩壊し、修復された)
この屋根の上に、最も高い尖塔があり、シンボルになっている。

この聖堂(祭壇)に、聖ミカエルがいる。15世紀に造られた。
モン・サン・ミシェル=聖ミカエルの山(岩の島)
聖ミカエルの命令を果たした。

聖ミカエルが右手を指し、「あの岩山に祭壇を造れ」とオベール司教に命じている様子。
聖ミカエルの左手が、司教の頭蓋骨に触れ、傷跡が「聖遺物」になって保存されているようだ。

修道院の回廊と中庭
修道僧達が、礼拝と瞑想した場。天と地をつなぐ空間。教会の北側にある。

柱を少しずらす技法。彫刻に聖書の場面が描かれ、美しい。

修道士達の食堂
会話は許されず、ジェスチャーで意思を伝えた。
アーチの天井は、重量を抑えるため木製。回廊の東側に位置する。

迎賓の間
多くのフランス国王や巡礼に訪れた貴賓を、修道院長がもてなした場所。
装飾品は略奪されたが、天井は優雅だ。食堂の真下に位置する。

地下礼拝堂
主祭壇の真下にある。修道院で裁きを受ける人の控えの間として使われた。
修道院の聖堂を支える太い柱
ロマネスク様式の建築の重さに耐えきれず1421年に崩壊したため、古い柱の回りを強化して太くした。

大車輪
中に数名が入り、車輪を回転させて、石材などの建築材料を、下から引き上げた。
平時には、食料などの物資を運ぶのに使ったこともあるそうだ。
大車輪から、見下ろしたところ。壁に沿ってレールが見える。
石材や物資を、ケーブルカーみたいに引き上げた。

11世紀に建てられた礼拝堂が残っている。

騎士の間
修道士達が写本や彩色した仕事部屋。騎士は、聖ミカエル騎士団に因んだ名前。
回廊の真下に位置する。
階下の貯蔵庫との連絡口
帰りは、城壁の上の通路を通る。
高さ20メートルの壁は砂の上に建てられた。砂上の楼閣だが、頑強だ。

入口の階段が見える。

すっかり引き潮になっていた。海水が引いたとこに人が立っている。
1064年、ノルマンディー公ギョーム二世(1066年12月ウイリアム征服王)とハロルド(1066年1月ハロルド二世)は、河川地帯を渡るために歩いていた。目的や内容は不明だ。
2年後に2人は戦いウイリアム征服王が、イングランド王国とノルマンディー公国を支配することになる。
潮の干満で現れる島に、千年かけて、信者達が作り上げた修道院と教会。
1979年、世界遺産に登録された。

エスカルゴです

2023-10-11 | 欧州

エスカルゴ

初めて食べたが、想像以上に美味しい。

エスカルゴは、ワインの産地ブルゴーニュ地方の郷土料理で、前菜

貝を乗せる部分がタコ焼き器のようにへこんだ専用皿。養殖されたきれいな食用カタツムリ。

でんでん虫のかたつむりの仲間とは、とても思えない。陸に上がった巻き貝で、貝と思うことに。

爪楊枝みたいなモノで、サザエの壺焼きみたいに回転させながら食べました。

ガーリックバター味でワインに合うね。残ったソースは、バゲットを浸して美味しい。

ノルマンディ地方特産の辛口シードル(リンゴ酒)で頂きました。7ユーロ

レストランの窓から目的地が見える。時刻は20時40分。そろそろライトアップされる時刻。


続いて、
ポテトとチキン

ポテトは柔らかくて美味しい。ルイ16世が広めたジャガイモ。ソースが良いよね。

チーズ三品

食後に、これが出てくるとは。またワインがほしくなる。

カマンベールチーズは、ノルマンディーで生まれた伝統的なチーズ。美味しい。


ル ルレ サン=ミシェル   

夕食後に外に出ると、レストランの窓はこんな感じ。

テラス付きのお部屋

なかなかおしゃれでした。

ホテルの正面側

 宿泊以外も、レストラン、バー、テラス利用が出来る。

朝食

ブッフェです。農業王国フランスは食事が豊か。


フランスの高速道路

2023-10-09 | 欧州

ルーアンから次の目的地まで、約260km、約3時間かかる。バスはMAN(ドイツ)社製。ゆったりと快適で疲れ知らず。

【添乗員さんの車中説明】

フランスの歴史や文化を詳しく教えてくれたのがありがたい。Wikiで確認しながら記事が書ける。

1 ルーアン、ジャンヌダルクの話(前の記事)

2 世界三大料理とされるフランス料理の歴史

  • 宮廷料理では、ナイフやフォークは一般的でなく直接手づかみで食べていた。
  • イタリアから嫁いだ王妃の料理人が美味しいイタリア料理と食事マナーを教えた。
  • ベルサイユ宮殿は連日晩餐会で、コース料理、ワイン・チーズ、菓子が出た。
  • オーストリアから嫁いだマリーアントワネットは、お菓子が大好きで発展した。
  • ルイ16世は大食漢の一方で、農場でジャガイモを栽培し、普及させた。
  • 大皿から取り分ける方式から、一人前ずつサービスするロシア式が導入された。
  • 1879年フランス革命で宮廷料理人が失職し、街で仕出し屋や菓子屋を開業し、国民に広まった。

※国際結婚で新しい食文化が導入・発展し、革命で宮廷から市民に開放された点が、イギリスやドイツとは異なるのだった。

【フランスの高速道路A13】

 

18:30。グーグルマップで現在位置を見ると、中間地点のカーン。
 
フランスの高速道路は、オートルート(Autoroute)と呼ばれ、国道はルート・ナショナル(Route Nationale)
A13は、パリから,ルーアンを通って、カーンまでの高速道路。
N814は、カーン大都市圏を環状する国道で、市内混雑を避けるため改良整備された。
環状線から放射状に、国道や高速道路が延びている。

インターチェンジで新たな高速道路に乗り換える。右側通行だから,右回りだね。
A84は、無料の高速道路で、ベルギーからスペインに向かう車両がパリを避けるため、2003年に造られた。
欧州大陸だね。

見える景色は,田園風景。これだけ長時間走っても、人家らしきものは殆ど見えない。
Gouvetsグヴェの給油所兼ショップ 
シェルが運営してる。
キットカット
不二家じゃなかった。各国で味を変えてるようだから、買えば良かったと後悔。

給油所
Shell V-Power 。フェラーリも使うハイオクガソリンが並んでる。

20時。日没が近い。目的地が見えてきた。