沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館

2024-08-31 | 国内旅行

屈斜路(くっしゃろ)は、アイヌ語で「沼の水が流れ出る口」。屈斜路湖から釧路川が流れ出します。

弟子屈(てしかが)は、アイヌ語で「岩盤が川を横切っているところの岸」。

この当りには縄文時代の遺跡が数多くあり、その子孫がアイヌ民族で、松浦武四郎も集落を記録しています。

【弟子屈町のアイヌ民俗資料館】

屈斜路湖の南岸にあります。

アイヌ民族の歴史や文化を伝える施設として、1982年に開館。400点以上の資料がある。

【エペレセッ 子熊のおり】

成長した子熊は、ナラの木などで組まれた高床式の檻に移されて大切に育てられる。

床の丸太を引き出して、熊は外に出す構造。

イオマンテは、育てた熊を殺し、魂であるカムイを神々の世界に送り返すアイヌの儀礼。

儀礼までの間、子熊を飼育する場所だね。

【ヌササン】

イオマンテの儀式を行う場所。

ヒグマの頭部を飾り、お酒や食事を捧げて、熊の魂であるカムイに神々の世界に帰ってもらう。

ここにアイヌコタンがあり、イオマンテが行われていたんだね。

【縄文時代の遺跡】

発掘調査では、今から7000年前の縄文早期の土器が見つかっており、紀元前3000年には屈斜路コタン遺跡が多数見つかっている。

【屈斜路湖半と釧路川沿いの縄文遺跡】
屈斜路湖畔、釧路川流域に遺跡がある。
【松浦武四郎の久摺・阿寒方面足跡大概図】
1858年、探検家の松浦武四郎の第6回蝦夷地探査。アイヌの案内により、和人として初めて釧路を出発し阿寒を訪れた
「アイヌの人々から聞くところによると、久摺(現在の阿寒湖国立公園)の大自然美は相当のものらしい。しかし未だこの地を探検した者はいないという。自ら奮い立たせて挑もうと案内役のアイヌなど9名と釧路を出発し、山へ入った。」(久摺日誌)
【北海道の先住民族はアイヌ】
上記のことから、北海道の先住民族はアイヌということが考古学発掘調査と幕末の和人の探検記録で明らかになった。
 
【松浦武四郎の足跡】
字が小さいので、抜粋すると以下の通り。
1858年(安政5年)、最後となる6回目の探査北海道すべての海岸→十勝→阿寒→日高を巡る。
1859年以降、「東西蝦夷山川地理取調図」全28冊、「蝦夷漫画」など多数出版し、日誌、地図等の著作に多忙な日々を送る。
1861年、「久摺日誌」など発行。出版物は流行し、暮らしが楽になる。
1868年(明治元年)、明治政府より、役を仰せつかる。
1869年、開拓判官となり、蝦夷地の名称について「北加伊道」を含む6つの候補を意見書。アイヌ語の地名を元に北海道名、国名、郡名の選定に尽力。
1870年一切の官職を辞職。(その後、勲章も辞退)

【熊送之図】
イオマンテの様子を記録した映像の上映(約10分)も行われています。

【フクロウ祭り】

アイヌの人々の暮らしは、狩猟、漁労、採集を中心に展開された。

人々は信仰に厚く、自然界に神々の存在を信じ、中でも「コタンコロカムイ(シマフクロウ)はコタンの守り神として、最も尊い神様として祭られた。

【漁労や狩猟の道具】

【着る】

4月は、樹皮が和らぐ月。衣類の主要な材料となるオヒョウダモ(ニレ科)の樹皮を剥ぎ、厚司織を織る。

イラクサを叩いて繊維を柔らかくし、乾燥させて織った着物は体によくなじんだ。

文様は、ハルニレの糸などを用いて、襟、袖、裾の部分に多くつけた。魔除けの意味があった。

【食べる】

鮭の生身を凍らせておき、溶けたら食べる。シカや熊を食べる。

【住む】

カヤで葺いたチセ(家)。

【神々の森と動物たち】

屈斜路湖の湖畔に立地したアイヌ民族資料館。5000年以上前からこの土地に人々が住み、アイヌの人々の生活文化があった。

その様子を、コタンアイヌ民俗資料館で観ることができる。


アイヌコタンと前田正名、光子(前田一歩園財団)

2024-08-27 | 国内旅行

【アイヌコタン】

阿寒湖畔にアイヌコタンがあります。コタンは集落という意味です。

看板に由来が書いてあります。

・北海道はかって蝦夷地といわれ、先住民族であるアイヌは各地の沿岸や川の近くにアイヌコタンを形成し、独自の信仰に基づき、漁猟・狩猟の生活が送られていた。

・しかし、明治時代の初め、日本政府はエゾを北海道に改称されアイヌは日本人名を名乗り、日本の言語・伝統・文化を強いられることになる。

1906年、前田正名氏が日本政府から阿寒湖畔地区の3900ヘクタールの土地の払い下げを受け、前田正名氏は美しい景観が公益になると判断し、管理者として活動する。

1957年、前田正名氏の息子の妻である前田光子さんが3代目の管理者になり、自然環境の保全北海道東部のアイヌ支援を目的に阿寒湖アイヌコタンを創設し、アイヌを招待した。

・当時は45名だったが土地の無償提供により北海道各地からアイヌが移住し、現在は120名。阿寒独自のアイヌ文化が形成された。

ポンチセ

アイヌ語で小さな家という意味。

アイヌの人々の暮らしとお店が並んでいます。

このほか、アイヌの古式舞踊や現代舞踊などが鑑賞できる専用シアターもあります。

【前田一歩園】

前田正名氏の信条「万事に一歩が大切」が名前の由来です。

鹿児島出身の前田正名氏は、官僚から実業界に転身し、各地で農場経営や山林事業を展開した。

阿寒湖畔の国有地の払い下げを受け牧場としたが、阿寒湖畔の景観に深い感銘を受け「この山は、伐る山から観る山にすべき」とした

さらに、「前田家の財産はすべて公共の財産となす」という家訓は、前田光子に受け継がれた。

1983年、前田光子は前田一歩園財団を設立し、すべての財産を財団法人に寄付した。

【財団法人 前田一歩園財団】

環境省の阿寒湖畔エコミュージアムセンターの隣接地です。


1999年オープンなので、以前来たときは、環境省の施設はなかった。
阿寒湖のマリモは観た気がするけど。

【阿寒湖温泉の土地所有区分】

温泉街の土地は、ほとんどが財団所有地ですね。これで阿寒湖畔の環境の美しさが理解できました。

赤い部分(個人所有地)は限定的。昔見た観光地はここだった。

大型ホテルや商業施設は有償で貸し付けて、収益は森林保全や自然普及に。

環境省や学校用地は寄付。

アイヌコタン、アイヌシアター、キャンプ場などは無償契約。

【財団管理山林の林班図】

阿寒湖畔で皆伐されていた1000ヘクタールは前田光子によって250万本が植林され、財団によってしっかり管理保全されています。すごいことです。

前田正名氏の自然を思う気持ちが、前田光子さん(宝塚女優だった)のアイヌを思う気持ちが加わり、財団によって後世に確実に伝わっていることを感じた。

【ナショナルトラスト】 追記

ユウさんからのコメントで、英国のナショナルトラストとの関係について、ご助言があり追記します。

1894年英国でナショナルトラスト誕生
1943年ピーターラビットの絵本作家ビアトリクス・ポターが湖水地方の自然保護のためナショナルトラスト運動に関わったローンズリー牧師の影響を受け、印税収入等で購入した湖水地方4300エーカー(1700ヘクタール)の土地や農場をナショナルトラストに寄付
1977年藤谷豊斜里町長が知床100平方メートル運動を開始し開拓跡地471ヘクタールを取得。町有地と合わせて861ヘクタールを町が管理し森を復元
1983年前田光子さんが阿寒湖畔の1000ヘクタールを植林前田一歩園財団を設立し3900ヘクタールの土地を財団に寄付

知床や阿寒は、それぞれ専門の財団が管理するとともに、国立公園として保全と適切な利用が法的に守られている


摩周湖 阿寒湖 オンネトー 

2024-08-26 | 国内旅行
【牧草ロール】
北海道といえば牧場、牧場といえば牧草。牧草といえば牧草ロールを作る機械。
カタコト、カタコト動きながら牧草を刈り取って進む。
おなかいっぱいになったら立ち止まって、停止。
ウンウン唸って、ポトリと牧草ロールを産み落とす。
フンコロガシみたいでかわいい。ずーと見てられる。

【摩周湖】
裏摩周湖展望台です。摩周湖には展望台が4つあります。
3つは表側で人も車も多いですが、ここは裏側(北東側)。森の中にこじんまりとしています。

阿寒湖に向かう途中、エゾシカに出会いました。

【阿寒湖】
昔来たときは、”いわゆる俗な観光地”のイメージだったけど、洗練されてました。
環境省の阿寒湖畔エコミュージアムセンターも充実しているし。
すぐ近くにボッケ遊歩道も整備されてるし。
ボッケとは、アイヌ語のポフケ(煮え立つという意味)が由来で、地下から火山ガスと泥を吹き出す現象。
泥は97度と非常に高温だそうです。
遊歩道でエゾシカに出会いました。至近距離です。
耳を向けてこちらの様子をうかがっていますが、こちらが動かないでいると、木の葉を食べ始めました。
【オンネトー】
アイヌ語で、年老いた沼、あるいは大きな沼の意味。
湖の色が変化する神秘の湖。曇りと霧なので、オンネトーブルーが一瞬だけ。
47年ぶりですが、変わっていない自然にホッとします。

【雌阿寒岳と阿寒富士】
左側の雌阿寒岳の噴火で、川の流れが止められてできた湖。
47年前は、摩周湖YHから雌阿寒岳を登山しました。


【オンネトー湯の滝】
オンネトーの南にキャンプ場があります。
駐車場に車を停めて、林の中の道を20分ほど歩きます。
池と、落差30メートルの滝がありました。
触ると温かく、温泉の滝です。
黒いのは、酸化マンガンが生成されているからです。不思議に思いますが、この辺りにマンガン鉱山があり、過去に採掘されていました。
すなわち、この黒い酸化マンガンがあることで、「温泉水の中の微生物が、マンガン鉱物を生成する世界唯一の場所」だと明らかになり、2000年に国の天然記念物に指定されました。

ここは過去に開発され、滝上に露天風呂があったり、グッピーなどの外来熱帯魚などが飼育されていました。
しかし、環境省が数千匹の外来魚を根絶され、今ではもとの自然が復元されたそうです。
 
【オンネトー湯の滝マンガン酸化物生成地】

滝の横に小屋には、科学的な事実を示す説明看板がありました。

中標津町 開陽台

2024-08-24 | 国内旅行

羅臼(らうす)から、中標津町の開陽台(かいようだい)を目指します。

広大な牧草地帯の真っ直ぐな道を、カーナビに従って、進みます。

景色の変化が少なく、遠くまで同じような景色なので、ついスピードが出てしまい、要注意です。


牧場が見えてきました。北海道牛乳かな。

牧場に立ち寄り、牛乳アイスクリームをいただいて、リフレッシュです。

遠くに、タンチョウヅルがいました。

ポツンと一羽で、何をしているのかな。

【開陽台】

標高271メートルの小高い丘です。

「地球が丸く見える」と書いてあります。360度北海道を見渡せます。

こちらは北側の森林地帯。セミの激しい鳴き声が聞こえてきます。

南側です。登ってきた道と駐車場が見えます。

その左側(東側)。開拓地は、格子状の防風林に囲まれています。

北海道は、防風林が必要なのだとよくわかります。

今度は右側(西側)。牧草地帯は牧場です。「牛の保育園」とあり、小さな牛が見えます。


町内の農家から預かった1000頭の仔牛を、半年間育てているようです。

開陽台出口を左折して東に進んだ町道北19号「ミルクロード」と呼ばれています

牛乳を出荷するタンクローリーが走る一直線の道です。

少し下ってからずーと登っていく道が真っ直ぐで、まるで天空に続くように見えます。

開陽台から南方向にもジェットコースターロードがあるようです。(最後の写真はお借りしました。)


ウトロ漁港から知床峠へ

2024-08-23 | 国内旅行

【ウトロ漁港】

知床半島の中央に位置する漁港で、サケ・マス漁が有名です。

知床国立公園、世界自然遺産の観光船の拠点となっています。

知床は、大地の突端を意味するアイヌ語のシリ・エトクが由来。

ウトロは、岩の間を我々が通るところを意味するアイヌ語のウトゥルチクシが由来

【オロンコ岩】

高さ60メートルの巨岩の上に住むオロッコ族とアイヌの人々が戦った伝説があります。

知床博物館には絵本がありました。

【知床観光船】

2022年4月、(有)知床遊覧船の観光船「KAZU I」が沈没し乗員乗客26名が死亡。

パンフレットには、同社の名前は消してありました。

2ヶ月経過していましたが、行方不明者を海上保安庁や警察が捜索中でしたので観光船はまたの機会に。

知床半島を横断し、対岸の羅臼に向かいます。

【羅臼(ラウス)岳】

ラウスは、獣の骨のあるところを意味するアイヌ語のラウシが由来。標高1660メートル。

47年前はヒグマの出現情報で登れなかった。若さがない今は、もう登れないね。

岩尾別温泉から羅臼岳の山頂まで往復6時間半。晴れたら最高ですね。

【知床峠】

斜里町と、羅臼町の境にある国道334号線(知床横断道路)の峠です。

この国道は、冬期(11月~4月)は通行止めとなるようです。

【国後島】

雲海の向こうには、北方領土の国後(くなしり)島が見えます。すごいね。

国後は、アイヌ語のクンネ・シㇼㇽ 黒い島 またはキナ・シㇼㇽ草の島 が由来。

峠を下って、羅臼の道の駅「知床・らうす」で休みます。

ここは、羅臼漁協直営店が人気で、海産物のお土産を購入しました。

この後は、中標津へ向かいます。

 


斜里町と知床100平方メートル運動

2024-08-21 | 国内旅行
充実してた斜里町知床博物館の次は、いよいよ知床半島へ。
【オシンコシンの滝】
落差70メートル。アイヌ語で川下にエゾマツが群生するとことを意味する「オ・シュンク・ウㇱ」から転じた。
【知床五湖】
知床連山やオホーツク海、森林を見渡すことができる湖と湿地帯です。
見晴らしのよい高架木道があるので、安心して歩けます。
ウグイスが声高らかにさえずっています。
小さな池もあります。ここは知床五湖の入り口部分で、観光客用に整備されています。
【知床100平方メートル運動】
エゾジカがこちらを見ています。
そのに広がる森林は、日本のナショナル・トラスト運動として約50年の歳月をかけて復元されたものです。
「しれとこ100平方メートル運動」は、不動産業者による乱開発の危機にあった開拓跡地を、全国からの募金活動で買い戻し、原生の森を復元するもの。
1977年に斜里町の藤谷豊町長が始めた。
 
【土地取得の変遷】
現在の地点(赤丸)から見た西側(左側)の開拓地(黄色)が、募金活動によって取得され(赤色)、森林に変わっています。
【航空写真】

【47年前の記憶】
岩尾別開拓跡地の中央に、岩尾別ユースホステルと書かれている。現在は休業しているが、47年前にお世話になりました。
1977年9月28日(水)
旭川1:00→石北線(大雪5号)→遠軽4:32→名寄本線→中湧別5:14→湧網線→網走7:49→斜里9:10→カムイワッカの滝11:45→乙女の涙・ウトロ灯台→岩尾別YH
夕日がオホーツク海に沈むから、皆で見に行こうとスタッフ(ヘルパー)さんが海岸まで行き、沈む夕陽に合わせギター演奏し、皆で歌ったなあ。
翌日は、羅臼岳に登ろうと思ったら、今日の宿泊者がヒグマを見かけたとの情報で、中止に。
大学2年だった私は知床100平方メートル運動のことは知っていた。しかし、47年を経て、多くの人々の努力で現在の姿になるとは想像できなかった。
 
【しれとこ100平方メートル運動の経緯】
1914年、岩尾別地区に開拓者が入植し国の開拓計画で開墾が進み、ピーク時には60戸の集落ができました。
しかし、水や電気、道路、住宅など生活基盤が未整備のうえ、厳しい自然条件の中で農業はうまくいかず入植者を苦しめました。
1973年、最後の入植者がこの地を去り、開拓跡地として放置されました。
1964年、知床半島が国立公園に指定され、不動産業者による開拓跡地の買い取りが100ヘクタールになりました。
乱開発を恐れた斜里町は、開拓跡地を国や北海道に買い取り要請をしましたが、制度の対象とならず、断られました
藤谷豊(フジヤ ユタカ)町長は、「全国に呼びかけ100平方メートルずつ買い上げてもらう運動」の構想を密かに東京の友人とあたためていました。
1977年1月、朝日新聞の天声人語に、英国のナショナルトラスト運動が紹介されており、これを読んだ藤谷町長は行動を決断
1977年2月、新年度予算発表の場で「しれとこ100平方メートル運動」のスタートを発表。資料もなく、職員も知らされていなかった。
総面積は約470ヘクタールの土地の買い取り。そこに、約42万本の木を植える
【運動の特徴】
「知床で夢を買いませんか」というキャッチコピー。
寄付金額は、100平方メートルで8,000円。
知床の地主になれるロマンを求め、5万人が参加。
土地の分筆や登記は行わず、斜里町が責任を持って森林に復元する。
 
【藤谷豊町長】
1963年から1979年まで、4期16年間も斜里町長を務めた。
1977年の知床100平方メートル運動、1978年の知床博物館の開館など、後世に残る歴史を作った。
本業は、鮭の漁業経営。
【しれとこ自然センター】
こちらの建物の内部には、運動に寄付した4万9千人の氏名が都道府県別に掲げられている。

シラカンバ、アカエゾマツの植林。
植林した樹木の樹皮を食べるエゾジカとの戦い

ヒグマとの戦い
【フレペの滝(乙女の涙)】
高さ100メートルの断崖から、地下水がしみ出して海へ落ちていく。フレペはアイヌ語で赤い水。
47年前はアイヌ語ではなく、ホロホロと流れ落ちる様子から「乙女の涙」と呼ばれていた。
【知床あっぺメシ】
鮭の漁獲高が日本一の知床の漁師メシ。
鮭と昆布の混ぜご飯に、鮭の漬け丼、それに薬味と出汁をかけていただく。3回も楽しめる。
おいしかった。

知床博物館

2024-08-16 | 国内旅行
【斜里町立知床博物館】
斜里(しゃり)の歴史を物語る立派な博物館です。
これほど充実した内容とは、入館するまではわからなかったです。Google mapsで博物館を見つけて、ちょっと寄ってみようかと思った自分が恥ずかしいです。
斜里町開基100年記念事業として設置されました。特徴は松浦武四郎の展示とオジロワシなど鳥類ですね。オジロワシは実物が見れます。
斜里は、斜里川の下流一帯を指すアイヌ語サルSar(葦原)に由来するそうです。
【斜里町の誕生まで】
1635年、アイヌ民族が暮らしていた土地に和人が最初に訪れたことが文献に記録され、町の歴史となっています。
1685年、和人との交易のため宗谷場所が設置され、1790年には斜里場所が設置されて、交易が便利になった。
1807年、ロシア船が南下して樺太各地を襲い、知床半島近くに出現した。防衛のため、1807年に蝦夷地は幕府の直轄地となった。津軽藩に命じてシャリ警備を当たらせたが、酷寒のシャリ越冬は厳しく、70名余が病死した。

【松浦武四郎の足跡】
知床博物館では、松浦武四郎を大きく取り上げていました。
1818年、今の三重県で生まれた松浦武四郎は、17歳で諸国遍歴を決意した。
1845年、28歳で蝦夷地に入り知床岬に標柱を立てた。
1846年、松前藩の刺客に狙われながらも、初めて北海道全島一周をした(樺太、択捉島も)。
1856年、幕府に雇われ、斜里で人口、地名、産物など詳細な記録書をまとめた。
1858年、4度知床に入る。これらの探検で未知の世界だった蝦夷地を余すところなく調べ、北海道開拓の道しるべとなった。
    この間、場所請負人のアイヌに対する残酷な支配を怒り、世に訴えるなど単なる旅行家以上のものがあった。
1869年、明治2年、蝦夷地を北加伊道(北海道)と改名した。
と書いてあります。
【生存中は出版が許されなかった調査報告書】
幕府に雇われてとりまとめた調査報告書には、圧政に苦しむアイヌ民族の窮状や実態も記されていたため、松浦武四郎の生存中は出版が許可されなかった(ウィキペディア)。
 
知床日誌』 ウポポイに展示されてました)
挿絵には、アイヌ民族からの訴えを聞く松浦武四郎の姿が描かれている。
知床地方のあるコタン(集落)を訪れた武四郎を、コタンの人々が出迎えてくれたが、そこには老人と子どもしかいなかった。
理由を尋ねたところ、「村の若い男性は択捉島へ連れて行かれて厳しく働かされ、若い女性は単身赴任の役人や商人たちが自分たちの好きなようにする。村にいれば文化を伝承し、結婚して子どもを作り、親を養っていくような大切な時に、あらん限りに責め働かされ、若者がいなくなった村では狩りもできず、食料が不足して困窮している。」と長老が涙ながらに語ったという。
1870年、松浦武四郎はアイヌ民族を苦しめる「場所請負制:交易所を商人が運営する」廃止を訴え、明治政府により一旦は廃止された。しかし、商人らの反発で名を変えて場所請負制が存続されたため、松浦は開拓使を辞職した(ウィキペディア)。
 
【松浦武四郎の調査】
この展示がすごい。斜里町の力作です。
松浦武四郎の背景には、斜里町や国後島の調査した箇所がびっしりと記され、それぞれにアイヌ語の地名が記されています。
どれだけ多くのアイヌの人々に地名を訪ねたのだろう。
北海道の地名はアイヌ語が語源が多いけど、松浦武四郎の努力が現在も生きているんですね。

拡大すると、こうです。

標津町や中標津町、別海町、野付半島のあたり。

【鳥類の標本展示】
猛禽類の標本です。

こちらは海辺の鳥かな。

こちらは森林や平原の鳥。

屋外には、オオワシ。眼光鋭いです。

こちらはオジロワシ。学生の頃、オジロワシを探しに北海道に来たけど、見れなかった。

【津軽藩のシャリ警備】
警備に当たった多数の藩士が死亡したことを政府は秘密にしていた。
166年後の1973年になって明らかになり、津軽藩兵供養のための慰霊碑を建立し、毎年慰霊祭を行った。
これがきっかけで青森県弘前市と姉妹都市になっている。

女満別、網走、小清水原生花園へ

2024-08-15 | 国内旅行
北海道を旅してきました。2022年6月です。
【女満別(めまんべつ)空港】
羽田空港から女満別空港に到着後、レンタカーで北上します。
メマンペッは、アイヌ語で泉池がある川。網走川が網走湖に注ぐあたりの地名です。

こういう景色を見ると、車を止めて写真を撮りたくなります。
しかし、北海道は車の走行スピードがかなり速いので、遠くの車があっという間に迫ってることも。注意深く、安全な行動が必要です。

【JR釧網本線の北浜駅】
100年前に開業した小さな無人駅で、乗降客は1日に10人。
駅長室跡にレストラン。隣に展望台があります。

冬には流氷が押し寄せるオホーツク海。6月下旬というのに、風が冷たかった
海岸まで20メートル。こんな海に近いところに線路を引くとはすごいです。
昔、映画「網走番外地」のロケで、網走駅として、囚人を駅から護送するシーンが撮影された。わかる気がする。

JR釧網本線は、網走と釧路を結ぶ人気の鉄道です。
今回の旅は、車で網走から知床、阿寒湖を経由して、釧路を目指します。
【小清水(こしみず)原生花園】
鉄道に沿って東に進むと、右側に大きな湖、左側はオホーツク海。小清水町につきました。
オホーツク海とトウフツ湖に挟まれた約8キロの細長い海岸砂丘に、200種類の花が咲きます。
いっぱい花が咲いていました。

いっぱい蝶が飛んでいました。花園ですね。

木道が用意されています。
原生花園駅が夏季限定で設置されています。
西の方から、トコトコ、一両編成の列車がやってきます。

このあと、鉄道に沿って、斜里町を目指します。

まな板磨き

2024-08-06 | 生活
木のまな板は、軽くていいですね。
 
しかーし、いつの間にやら黒ずみやカビが付いてくる。
まな板にできる小さな傷に、肉や魚の破片が入り込み、カビとなり、やがて黒ずんでくる。
スイカを切るなど使う場面が限られ、使用機会が減り、台所の片隅に追いやられてました。 

新しいまな板があるから、このまな板は捨てようかな、長年使ったし
いやいや、磨けばきれいになって輝きを取り戻すはず。ヒトも同じだ。
そうは思ったものの、裏側もこんな感じ。大丈夫か不安になってくる。

側面をよく見ると、相当、黒ずんでるじゃないのお。
果たして、また板君、再生できるのでしょうか。

お金はかけられないので、近くのダイソーとセリアを徘徊して補修材料を探します。
 
おおー。コレなんか良いんじゃないの220円。
  • サンドペーパー(80番、180番、320番 各2枚入り) 110円
  • 杉ブロック(12cm*12cm*2cm)          110円
セリアにありました。大きさもちょうどいい。

サンドペーパーは、番号の小さい方が目が粗く、ガリガリ削れます
杉ブロックの上に80番のサンドペーパーを被せます。
木くずが飛び散るので、屋外で行います。
こんな感じ。

そして、裏返して、かる~く、こすります。まあるく、こすります。
面白いように、まな板の表面が削れていきます。
まな板の傷に深く入り込んだ黒ずみも、次第に取れてきました。
 
杉板ブロックを当てるのは、均等に力が伝わるようにするためです。
表面がボコボコだと、汚れやすいし、包丁が引っかかり危ないです。

表面がスベスベになったと思いましたが、まな板を水洗いすると、ザラザラが目立ちます。
表面に木くずが詰まっていたのでした。

180番、320番と番号を上げて、仕上げます。
数回こするだけで十分だとわかります。そんなに手間はかかりません。
いい感じです。
新品に近くなった、気がします。
側面も、きれいです。

素人ながら、上手くいきました。セリアに感謝です。
今後は、汚れてきたら、すぐに磨くことにします。

ウポポイ

2024-08-04 | 国内旅行
最後に、ウポポイにやってきました。2020年に開館した、アイヌをテーマにした国立の施設。
北海道に到着した月曜日、千歳空港から最初に目指したのですが、辺りの静かな気配にイヤな予感…。やってもうた。休館日だった。とほほ。
北海道を後にする土曜日、最後の訪問先として、再度、白老町にやってきました。
ウポポイは、入場料1200円。駐車料500円。
 
【国立アイヌ民族博物館】
大きな建物。うっすらと模様が描かれている。
「アイヌ」は「人間」を意味するアイヌ語。
「ウポポイ」は「大勢で歌うこと」を意味する。
基本展示室
エスカレータで2階に上がると、広い。
ことば、世界、くらし、歴史、仕事、交流の6テーマを「アイヌ民族の視点」で紹介している。

【前近代におけるアイヌの窮状】
場所請負制を運営する商人が利益を増やすため、アイヌ民族を労働力として組み込み、地元に帰れなくなる、労働の対価の米が減らされるなどにより、人口が減ったと書いてある。

【知床日誌】1863年 松浦武四郎
アイヌの人の窮状を直接聞いて、それを記した松浦武四郎の有名な「知床日誌」
実物を見れるとはスゴイ。
斜里の海岸で、松浦武四郎にアイヌの老人や子供達が訴えている様子。
場所請負人によって、若い男女や夫婦を国後へ連れて行かれ、酷使され、故郷に帰れないなどひどい扱いを受けている。
このまま20年も経つとアイヌは絶えてしまうのでは無いか。健康で丈夫な者がいないので、漁や狩りも出来ず困窮していると…。

【毒矢禁止に対する訴え】
なぜ、毒矢が禁止されたのか、背景が書かれていないのはなぜか
今までのような狩猟が出来なくなり、困るのではないか。禁止する側の言い分は?

【川での漁労、海での狩猟】
明治になって、開拓使が川でのサケ漁を禁止したため、重要な食糧資源が取れなくなった。
なぜ、禁止されたか背景が書いてないので、読んでいてストレスになる。
先住民の暮しを脅かすのが開拓使なのか、漁業補償はあったのだろうか。

国立博物館なんだから、当時の国が禁止した理由をきちんと説明すべきではないのか?
「アイヌ民族の視点で紹介する」とは、理由を明かさないまま事実だけを紹介することか。
甚だ不満である。

【日本とロシアの国境の変遷と強制移住】
1875年、樺太アイヌの841名が稚内に強制移住
 ※書かれてないけど、1875年は樺太・千島交換条約で、日本が樺太を放棄し、ロシアから千島列島を譲り受けた。
1876年、江別市の対雁(ついしかり)に強制移住され、後に半数近くの400人が病死
 ※強制移住で半数近くが病死するとは。
1890年以降、ロシア樺太へ帰還。
 ※1905年、ポーツマス条約で南樺太は日本の領土になった。再び強制移住となるのか不安だったろうね。
1884年、千島アイヌ97名が色丹島へ強制移住
 ※千島のアイヌの人は、色丹島に移住して幸せになったのだろうか。ロシアの実行支配後に、故郷に戻れたのだろうか。

【北海道旧土人保護法】
1899年(明治32年)に、先住民のアイヌの人々を日本国民に同化させる目的で、土地を付与して農業奨励、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行うために制定された。
法の制定後、1898年から1936年にかけて、北海道の人口は85万⇒300万へ増大したが、アイヌ人口は17,573⇒16,519人と減少した。
100年後の1997年(平成9年)に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」の施行に伴い、この法律は廃止された。

アイヌの歴史や人々の暮しは、北海道博物館の方が優れている。生活道具や暮らしぶりは斜里町立知床博物館弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館釧路市立博物館も充実している
 
国立アイヌ民族博物館の特徴は何か。

「アイヌの歴史や文化、自然や伝統を体験できる施設」ということらしい。
入口のパンフレットには、プログラムのタイムテーブル(時刻表)がたくさんあった。
HPにもある。事前に見て予約したり、開始時間に合わせて行動することが必要だった。
西エリアの体験学習ホールや体験学習施設では、「展示施設ではない」とやんわり入館を断られた。
結局、どれひとつ体験することはなく、残念だった。
 
東エリア
工房 木彫りなどの体験が出来るようです。
 
伝統的コタン
アイヌ民族衣装を体験でき、喜ばれていました。
ウポポイは、事前の準備と時間配分をしっかりすれば、いろいろ体験できてアイヌ文化を楽しめます
今回は私の準備不足で残念でした。これで、空港に向かいます。
 
北海道で見た不思議
この矢印は何?
海沿いの道にもあります。

海が直ぐそばなのに、あります。
信号機
赤青黄が縦に並んでいます。赤が一番上です。内地は横なのに。何でかな。
レンタカー
フィットクラスで申し込んだら、トヨタのヤリスグレードアップされていました。
しかも、新車。左下の走行距離4km(気づいて撮影したときが8km)。
オリックス・レンタカーに感謝です。

返却するとき。1282kmでした。1日200kmくらいがちょうどいいです。
6日間で1178km走行し、49Lを給油しました。ハイブリッドで24km/Lになります。

ありがとうございました。

北海道博物館

2024-08-02 | 国内旅行

北海道開拓の村のすぐ近くに、北海道博物館があります。

【北海道博物館】

1971年に開館した北海道開拓記念館と1994年にできた道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、2015年4月に開館

28名の学芸員・研究職員を擁し、アイヌの歴史や有形・無形の文化に関する専門的研究組織も持つ研究博物館。迫力あるね。

65歳以上は入館無料。嬉しいね。

マンモスゾウ

威圧的な牙。先が内側に丸まっているから戦闘には向かないかと思ったけど…。

牙の間には、長くて太い鼻があった。

鼻で敵を上にすくい上げると、ちょうど鋭い牙に引っかかって、敵はやられるね。怖いね。

ナウマンゾウ

数万年前まで東アジアに住んでいた。

この骨格標本は十勝地方で発見された化石で、全国から集まった研究者とボランティアによって発掘された。やるね。

「ポケット学芸員」

博物館にある解説文は、アプリでどこでも見れると、学芸員の方に教えて貰った。

早速ダウンロードしてみた。
全国の博物館が登録している。これは便利。
リスト」が、館内の解説の目次で、選択すると解説を見れる
これは便利だね。「ガイド」は展示番号を入れる必要があり、館内専用だね。
 
北海道博物館は、アイヌの人々とその文化について責任を持って解説してる。
やってきた甲斐がありました。
 
アイヌ民族から和人への交易品
毛皮(トド、熊、鹿、オットセイ、アザラシ)、タンチョウ、オオワシ、干しタラ、干しニシン、昆布。

和人の砂金掘り
江戸時代のはじめころ、砂金を求めて本州から多数の金堀り夫が渡ってきて、9箇所の採掘場では川の流れを変えたり、汚した。
サケ漁ができなくなり、冬の食料不足やサケとの交易品不足でアイヌの生活は苦しくなった。

カラザケ100本と米1俵
松前藩はアイヌ民族のカラザケ100本に対し、米1俵を交換していた。
しかし、1665年に一方的に価格改定し、1俵は左側の30kgから右側の10kgに半分以下になり、アイヌ民族の不満が募った。
シャクシャインの戦い
1669年、シャクシャインひきいるアイヌ民族は、松前藩と闘いを起こした。
しかし、松前藩の鉄砲隊に敗れ、その後は松前藩によるアイヌ支配が強まった
 
夷酋列像
1789年、クナシリ場所やネモロ場所で働いていたアイヌ民族が場所請負人(漁場経営者)に不満を持ち、蜂起した。
この「クナシリ・メナシの戦い」をやめさせた、アイヌ首長12人の絵
絵は評判を呼び、天皇や諸大名も閲覧した。

戦いに参加したアイヌ民族の村と首長の拠点

和人の墓と弔いのイチャルパ(先祖供養)
場所請負制とアイヌ民族
寒冷地では稲作が困難だったため、松前藩は家臣に対し漁場や交易場所の権利を与えた。
しかし、商いが不得手な藩士に代わり近江商人などが場所運営を請け負うようになった。
この場所請負制により、アイヌ民族は和人の下で働き、給料を貰い、物を貰うように代った。
 
北海道の名付け親の松浦武四郎は、場所請負制がアイヌ民族を苦しめると明治政府に訴え、1869年にいったんは廃止されたものの、名前を変えて存続したことに失望し、開拓史を辞職
松浦武四郎は、蝦夷漫画近世蝦夷人物誌でアイヌ民族や文化、藩や和人による圧政を記した
 
せまりくる外国船
1770年 ロシアの狩猟隊がウルップ島の千島アイヌを襲う。
1806年 ロシア軍艦が樺太の和人漁場施設を襲う。
1807年 江戸幕府は蝦夷地を松前藩から取り上げ,直轄とし、防衛に備える。

ロシアとの国境
1855年 日魯通好条約
択捉島とウルップ島の間を国境とすることを、日露両国が調印。
<北方四島は日本>

1875年 樺太・千島交換条約
日本が樺太を放棄し、ロシアから千島列島を譲り受けることを、日露両国が調印。
<北方四島は日本>

1905年 ポーツマス条約
日露戦争の結果、南樺太を日本の領土とすることを、日露両国が調印。
<北方四島は日本>

1951年 サンフランシスコ平和条約
日本は南樺太、千島列島を放棄。ソビエト連邦が調印を拒否。
<北方四島は千島列島に含まれず、日本>

北方四島は、我が国固有の領土。しかし、実効支配されている。

ロシアの主張

1945年2月のヤルタ会談(ソ連、米国、英国)で、連合国に要請されてソ連の対日参戦が決まった。

その際、クリル諸島(千島列島で択捉島、国後島を含む)のロシア領有が含まれていた。