なかにし礼の遺稿『血の歌』
なかにし礼は、謎だった森田童子の姿を、遺稿「血の歌」で明らかにしている。
森田童子が亡くなって2年後に、なかにし礼も他界したが、遺稿は家族に見つかりやすいように机の引出の中にあった。
レコードデビューに際し、森田童子の本名や自分の姪であることを謎にしたことを、死後明らかにする意図があった。
森田童子の声の秘密
森田童子の歌声は、澄んでいて透明感があるが、暗くせつない。
ステージでは椅子に腰を掛け、ギターを手にマイクに向かって、うつむき加減に歌う。
直立して歌えば大きな声が出るのか、疑問だ。
曲の音階は高音や低音部を避け、歌いやすい。
短い曲が多く、ステージでは何曲か歌うと、途中休憩があった。
「のどが弱い」のではという噂もあった。
遺稿で、そのことを明らかにしている。
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青森で生まれた森田童子が、東京の大井町で住んでいた5歳の時だった。
珍しく、父親の中西正一に連れられ、夏祭りの屋台を一緒に歩いていた。
貧しかった父は、子供が欲しがりそうな屋台の綿菓子やヨーヨーを、娘のために買ってやることは無理だった。
しかし、最後にアイスキャンディをひとつ買ってあげた。
当時、屋台では、箸にアイスを差して売っていた。
童子は、嬉しそうにメロン色のアイスを選び、アイスの箸を持って舐めながら歩いた。
父親は、童子の手を握っていなかった。
何かのはずみで転んでしまい、運の悪いことに、アイスの箸が童子の喉の奥に突き刺さってしまった。
父は血だらけのアイスを捨てようとしたが、童子は泣きながらもアイスの箸を離さなかった。
今度は父の手をしっかりと握り、傷の深さに泣きながら、血の付いたアイスを舐め続けた。
童子の声は、その時に変わったのだろうか…。父は泣きながら思った。(「血の歌」より)
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森田童子の年譜
1953年1月15日 青森市で生まれる。中西美乃生。巳年なので「みの」。
68年、15歳。なかにし礼の新築の大きな家に同居。ギターを覚え、ピアノも弾けるようになり、なかにし礼から詩を書くことの秘密を教わった。大学紛争が高校に波及し、学園紛争の高校生活だった。
70年、17歳。父親の中西正一(礼の兄)が経営していた建設会社が多額の負債で倒産。高校も中退(友人逮捕をきっかけ)。
71年、18歳。借金に追われ、家族は離散。童子は恋人の元へ走って行き、同棲を始めた。家も、家族も、学校も失った。恋人は前田正春(亜土)、やがて前田姓になる。
72年、19歳。友人の死の知らせをきっかけに歌い始める。「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」などを作詞作曲する。
74年、21歳。「知りたくないの」で作詞家なかにし礼をメジャーデビューさせた音楽プロデューサー松村慶子が、「ぼくたちの失敗」のデモテープを聴いて虜になり、デビューさせたいとなかにし礼と正一に相談。なかにし礼の姪であることは伏せて、売り出すことを約束。
75年、22歳。森田童子が作詞・作曲した10曲を歌う最初のアルバム『グッド バイ』が発売。
76年、23歳。「ぼくたちの失敗」など10曲を収めた2枚目のアルバム『マザースカイ』が発売。
77年、24歳。3枚目のアルバム『A BOY』が発売。
80年、27歳。レコード会社を移籍。4枚目のアルバム『ラスト・ワルツ』が発売。
82年、29歳。国分寺に家を購入(前田正春と共有名義)。5枚目のアルバム『夜想曲』が発売。
83年、30歳。6枚目のアルバム『狼少年』が発売。
84年、31歳。新宿ロフトのライブを最後に活動停止。
93年、40歳。テレビドラマ「高校教師」の主題歌に「ぼくたちの失敗」が使われ、95万枚売上のヒット。
03年、50歳。再び、テレビドラマ「高校教師」の主題歌に「ぼくたちの失敗」
09年、56歳。夫の前田正春(亜土)死去。取材申込みに対し、森田自身も病で手紙すら書けないほど憔悴していると返答(うたの旅人)。
18年、65歳。自宅で死去。
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森田童子のデビュー
74年秋、森田童子デビュー話を叔父のなかにし礼、音楽プロデューサー(松村慶子)が、父親の中西正一に相談した。名前は「森田童子」に決めたんだと、なかにし礼がコースターに書いて説明した。
知人の紹介で自作曲のデモテープを持参した彼女(前田美乃生)は人前で歌うつもりは全くなかった。ポニーテールのどこにでもいる少女だったが、作品には、聴いているとイメージの扉を開かれて慰撫されるような唯一無二のフィーリングがあったので、絶対に何かある、これはいける!と直感した。その独特の世界は、本人が歌わないと伝わってこないので、貴方が歌った方が良いと説得した。サングラスは自ら表現者となるための武装で、殆ど私語を発しない。浄化された世界を表現した作品に自分の生活感をにじませないようだった(松村談 朝日新聞2010年5月22日うたの旅人より)。
売れっ子のなかにし礼の姪であることを当分は伏せておきたい。本人は叔父の七光りで世に出たくないという希望だが、アングラでマイナーなところから出発させたい。「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と松村は戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案した。
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TVドラマ高校教師の主題歌
プロデューサーだった伊藤一尋は、異例の楽曲起用について以下のように語っている。「当時は、大物ミュージシャンに新曲を書いてもらうのが主流だったが、ドラマの内容と違和感があった。
喫茶店で脚本を担当した野島伸司さんと思案に暮れるうち、どちらからともなく「森田童子って知ってる?」と言い出した。学生時代に聞き覚えのある森田童子の歌の数々を聞き返してみると、どれもが主題歌になりそうなほど、耳にしっくりとなじんだ。
「人の弱さをいとおしむように歌う森田童子の音楽の世界観が、ドラマのそれと、まさに共鳴し合っていました。野島さんも、聞きながらドラマの構想を練っていると、イメージがあふれ出てきそうだと意気込んでいた」朝日新聞2010年5月22日うたの旅人より
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謎のままで良いのか
カーリーヘアと黒いサングラス。活動期間は10年間でマイナーな存在だった。最初のアルバムは2千枚。学生時代にライブで聴いていたが、たった3歳しか離れていなかった。
最後のアルバムから10年後に、テレビドラマの主題歌に使われ95万枚のメジャーヒット。ヒットをきっかけにベスト盤の発売が企画され、またオリジナルアルバムも廃盤となっていたためすべてCD化された。さらに10年後にもドラマがリメイクされ主題歌としてヒット。
しかし、森田童子はマスコミの前に出ることはなかった。引退後も本名や年齢を明らかにしなかった。謎のままこの世を去った。しかし、間違った事実が継承されていく。それで良いのだろうか。なかにし礼が残した原稿が発刊されたおかげで、ようやく断片がつながった。