沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

さようなら沖縄

2008-06-27 | 沖縄のくらし
沖縄に来て、まもなく2年を迎えます。
一人暮らしも、4年になります。
帰る日が、近づいてきました。

沖縄は、住んでみて、いいところでした。
数字では、沖縄の暮らしは所得も雇用も厳しいけれど、人々はおっとりとした性格で、親切。
早朝から近所を掃除し、海岸のごみを拾い、きれいな海を守ってる。
土日も炎天下で農作業。夕方になると、夕陽を見たり、おしゃべりゆんたくしてる。
街角に、三線や舞踊のお稽古の風景がある。

夕日がきれいで、海も大好き。
伊江島水納島古宇利島東シナ海に沈む夕陽

450年間続いた琉球王国の歴史文化も残っています。
中城城跡(なかぐすくじょうせき)勝連城跡今帰仁城跡首里城座喜味城跡斎場御嶽玉陵(たまうどぅん)

戦争の傷跡、行って欲しいところ。
魔文仁の丘、平和祈念公園旧海軍司令部壕伊江島座間味島

お魚と出会えたスノーケル、ダイビング。
風を切るサイクリング
水納島でみた満天の星。孵化した仔ガメとの出会い

美味しかったパインアップルバナナ
沖縄そば、首里そば、ジューシー。

blogを読んでいただいた方、コメントを書いていただいた方、沖縄のことなどたくさん教えていただいた方、どうもありがとうございました<(_ _)>

首里城書院・鎖之間庭園

2008-06-20 | 琉球・首里城
首里城といえば正殿が有名ですが、普段、国王や王子が仕事をした場所が書院・鎖之間(しょいん・さすのま)です。
発掘調査から始まり6年を費やして昨年1月に復元されましたが、このたび、庭園部分が完成間近です。
上の写真は、右側が書院で、奥が鎖之間。

琉球石灰岩の露岩に、ソテツやマツが植栽されています。
白と緑のコントラストが鮮やかです。

那覇市内を見渡せる、高さ130メートルの高台にある庭園です。
遠くに市内や那覇港が見えます。

建物側から、庭を見てみました。
国王の執務室、書院です。

書院と庭園です。
庭園の背景は、青い空なので、空中に浮かぶ庭園のようです。

右端は、特徴のあるマツです。
「蟠った(わだかまった)マツ」と中国から来た使者が書き記したものです。

戦火や大学建設で失われた一部の露岩は、明治時代の測量図や古写真を手がかりに、再現されています。
少し色がついている部分です。
風雨を受けて、次第に馴染んでいくそうです。

夕陽

2008-06-16 | 沖縄の海
沖縄は海がきれいだけど、夕陽もいいよね。
沈むのは19時30分頃だけど、18時過ぎからは夕陽が海に反射して、一層眩しい。

伊江島に、火の玉が落ちるような明るさです。

火の玉が、伊江島の塔頭に点火です。
低い雲が、夕陽の明るさを際立てます。

うっかり見とれていると、夕陽の残像で何も見えなくなります。

今日も、一日が終わりです。
梅雨明けは、近いのでしょうか。

海軍壕

2008-06-08 | 戦跡・沖縄戦・米軍
那覇空港の近くの高台に、旧海軍司令部壕があります。

米軍が沖縄本島に上陸したのが1945年4月1日。
本土決戦のための時間稼ぎを、沖縄で行なうため、徹底抗戦して玉砕せよという本土の指令。
陸軍の32軍は、首里城地下の司令部を捨てて魔文仁の丘へ南下したが、海軍はこの高台に築いた地下壕にとどまった。

長い階段を下りていくと、ひときわ涼しいです。
米軍の艦砲射撃に耐える構造で、4000人の兵士がいたそうです。
狭い壕の中、兵士は廊下で寝たそうです。

6月13日、自決する前に本土の海軍次官に打電した有名な大田実 少将の電文です。

「沖縄県民の実情に関しては県知事から報告すべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部も通信余力なしと認められ、現状を見過ごせないので、緊急に通知申し上げる。
沖縄島に敵攻略開始以来、陸海軍は防衛戦闘に専念し、県民を殆ど顧みることはなかった。
しかし県民は、青壮年は全員防衛召集に捧げ、残る老婦女子のみが相次ぐ砲撃・爆撃に全財産を焼かれ、身一つで軍作戦に支障ない小防空壕に避難し、乏しい生活に甘んじている。
しかも若き婦人は率先して看護婦、炊事婦、砲弾運び、捨て身の斬込み隊を申し出る者もいる。
敵が来れば老人子供は殺され、婦女子は後方に運ばれ毒牙に供されるとして、娘を軍に捨てる親もある。
看護婦は、軍に置き去りにされた重傷者を親身に助ける。
軍が作戦を大転換し、遥か遠隔地に住民地区を指定され、黙々と雨中を移動する。陸海軍が沖縄に進駐して以来、終始一貫、勤労奉仕や物資節約を強要されつつ、ひたすら日本人としてご奉公の護を胸に抱き…。
一本一草残らない焦土と化し、食糧は6月で尽きるという。
沖縄県民、かく戦えり。
県民に対し、後世に特別のご高配を賜らんことを。」

大田司令官の部屋です。
当時のままだそうです。

こちらは、自決した山田中佐が息子に宛てた遺書。
「雅弘よ 父は「バトン」をお前に渡したよ
父が望んで達することの出来なかった更に大なる飛躍こそは、お前以外に誰が襲いでくれるひとがあろうか…」

手榴弾で自決した幹部達。
壁に傷跡が残っています。

入り口の、階段の手前側に展示室があります。
ここは無料で入れます。
年配の方、若い人、外国人が無言で展示を見つめていました。
ここは、撮影してもよいとのことでした。

伊江島の風景(21)

2008-06-05 | 伊江島(伊江村)
伊江島って、いつ見ても美しく、癒されます。
最近の写真を、まとめて紹介します。

この写真は、梅雨入りした直後。
まだまだ元気で眩しい、お日様です。

空には雲が少ないのに、低い雲が横に広がってきました。

梅雨前線が沖縄まで南下して、低い雲は一段と厚さを増しました。

この写真は、昨日の伊江島です。
厚い雲から、所々で黒い影が落ちているのは、にわか雨かな。

赤く染まった空の色が、次第に消えていく、夕暮れです。

スノーケルの楽しさ(水納島14)

2008-06-02 | 水納島(本部町)
ダイビングも楽しいけど、手軽に楽しめるのがスノーケル。
事故も多いので、ちょっと邪魔だけど、ライフジャケットは欠かせないです。
これに、水中メガネとフィンの4点があれば、OKです。
水中カメラがあると、後で、見た魚とか思い出せるね。

楽しみ方は、いろいろ。
水面に浮かんで、沖合いの伊江島を見て、そのままエメラルドの海に潜るとこんな感じ。

こちらは、陸側のビーチを眺めていて、潜るとこんな感じ。
サンゴ礁と、サンゴや海が砕けた白い砂浜。

ビーチの西端は、海底に縞模様。
差し込む光が波に揺れて、キラキラきれいです。

お魚も、たくさん寄って来ました。
島のおじさんに尋ねると、アイゴの群れらしい。
アイゴはおいしい魚だけど、背びれに毒があるので、ちょっと注意です。
魚の方から人にぶつかってくることはないけど、サンゴや生き物には触らないようにと、島のおじさんが呼びかけています。

名護親方の六諭衍義(りくゆえんぎ)

2008-06-01 | 名護市

江戸時代、全国の藩校や寺子屋で道徳の教科書として使用された「六諭衍義」。
この原点は、1708年、程 順則(てい じゅんそく)が中国に渡り巨額の私財を投じて印刷し、琉球に持ち帰ったもの。

教育熱心だった程順則は、琉球で初めての学校「明倫堂」を建てた。
琉球国王とともに江戸に上った際は、「六諭衍義」も持参し、島津氏を経て、将軍徳川吉宗にも「六諭衍義」を届けた。
吉宗は、優れた教育書である「六諭衍義」の和訳を命じ、「六諭衍義大意」は全国各地に広まった。

「六諭衍義大意」は冒頭「この本は琉球の程順則という人が」で始まるので、当時の日本で名の知られた琉球人といえば程順則ただ一人だったといわれている。

「六諭衍義」が琉球に伝来し、今年はちょうど300年。
名護市博物館で、企画展「名護親方程順則」展が開催されていました(5月30日~6月8日)。
この石碑は、300年を記念して作られたもので、明日テープカットされるらしい。

六諭とは、有名な以下の文。

孝順父母 父母に孝行しなさい
尊敬長上 年上の人を尊敬しなさい
和睦郷里 郷里の自然や人を愛し仲良くしなさい
教訓子孫 子孫を教育しなさい
各安生理 自分のやるべきことを成し遂げなさい
毋作非為 悪いことをするなかれ

六諭衍義とは、例話を挿入するなど六諭の意味を判りやすく解説したもの。

企画展は、無料。
掲示資料を読んでいたら「六諭のこころ」という教育委員会発行の冊子を頂いた。
今日は、ありがたい、とてもいい日なのだった。
鳳凰木(ホウオウボク)もきれいに咲いていました。

程順則は、5回も中国に渡った学者で、新井白石と会見したり、琉球の様子を書いた「中山伝信録」の徐葆光(じょほこう)と親交があった。
66歳のとき、名護親方(市長のようなもの)に任命された。

この場所は、名護町役場のあったところで、樹齢300年のフクギも花を咲かせていた。
名護親方の銅像も、うれしそうです。