沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

家康の宝

2006-06-29 | 浜松の歴史
浜松は、引間(ひくま)と呼ばれていたが、1570年に徳川家康が遠江地方を支配する拠点として引間城に入城し、城の大改築を行うとともに、引間を浜松に改めた。これ以降、この土地は「浜松」と呼ばれた。

1586年までの17年間(29歳から45歳まで)、家康は浜松で過ごし、唯一の敗戦「三方ヶ原の合戦」など多くのことを学んだ。
徳川美術館(名古屋市)にあるこの絵は、32歳だった家康が三方ヶ原の合戦で武田信玄に無謀な戦いを挑み、大敗して多くの兵を死亡させ、浜松城に逃げ帰った直後に、肖像画を描かせたもの。文化遺産オンライン

唇を歪め、おびえた自信のない惨めな自分の姿を、家康は生涯大切にし、自分の戒めにした。
普通、いやなことは酒でも飲んで早く忘れて、良かったことや成功したことだけを覚えようとするもの。
その方が精神状態にいいし、それが自己防衛本能だと思う。

自分の失敗姿を忘れないよう記録し、戒めや励みにする…なかなかできることではないですね。

自分もPCの前であごを手で支え、反省しながら、考えていることがあります。
そんな時、画面に、家康の表情に似た自分の姿が映っているのに気づき驚きます。

浜松城

2006-04-04 | 浜松の歴史
浜松城は、桜と新緑で今が一番美しいです。
徳川家康は岡崎城から本拠地を移し、17年間もここで居を構えた。

明治6年の太政官通達で、花見で広く楽しまれていた場所が公園になった。
浜松城も公園になっています。
花見客は、昔はゴザを敷いていたが、今はブルーシートで、便利にはなったけれど風情に欠けます。

小堀遠州

2005-08-12 | 浜松の歴史
遠州といえば、遠州地方、遠州鉄道、遠州灘海岸とあるが、小堀遠州もお忘れなく。井伊家が小堀遠州に造らせた龍潭寺(りょうたんじ)庭園。遠州の古刹 龍潭寺
近江出身の小堀政一は、家康に駿府城の築城を命じられ、その功績で遠州地域を任され小堀遠江守政一(こぼりとおとうみのかみまさかず)、通称・遠州と名乗った。滋賀のプロフィール 人物編
建築、造園、茶道の達人だ。
畳に座って日本庭園を見ていると落ち着きます。正面が守護石、右下が亀島、左の方に鶴島、心字池。左甚五郎作と言われる、歩くと床が鳴る鶯張りの廊下もあります。


無銭飲食ダメよ

2005-08-12 | 浜松の歴史

家康は、三方ヶ原の戦いで浜松城へ逃げ帰る途中、道ばたの小さな茶店であずき餅を食べていた。

そこへ武田軍の追っ手が来たため、慌てて代金を払わず逃げ出した。

「無銭飲食は許さない!」

と茶店のおばあさんは家康を追いかけ、追いついたこの地で会計を済ませた。

それが「銭取り」の地名の由来らしい。

近くで働いている人に尋ねてみたが、地名とこの標識「銭取まんじゅう跡」以外には何もないようだ。

追いついただけの場所だから、現地には何も残っていない。

どうしてこの場所と特定できたのか謎だ。

また、おばあさんには非がないのに「銭取り」とは気の毒だ。


家康の武田軍夜襲と供養

2005-08-12 | 浜松の歴史
犀ヶ崖は家康が信玄と戦った史跡です。三方ヶ原の戦いで生涯で唯一負けた家康が浜松城に逃げ込んだ後、反撃しようと犀ヶ崖近くに夜営する武田を急襲し、深い谷に騎馬隊が転落死した。突然現れる深い谷に、夜で不案内な武田軍は気づかなかった。
後年、たたりが出たため家康は僧侶を招き太鼓を一週間鳴らし供養した。こうして遠州大念仏が広まったそうな。
犀ヶ崖資料館

出世城

2005-04-10 | 浜松の歴史
浜松城は、後に天下をとった徳川家康が築造した。
江戸と京都・大坂のほぼ中間点に位置し重要な扱いを受け、浜松城主になると9割は若年寄や老中などの要職に就いたことから、城主は「幕閣の登竜門」であった。「出世城」とも呼ばれている。
これに因んで、「浜松へ転勤してきたものは、9割が出世する」と聞かされるけど…(~_~;)