沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

森田童子の真実4

2024-06-04 | 音楽

森田童子は幸せだったのか。ファンの一人として確認してみたい。出典は『兄弟』『血の歌』など。

1 恵まれない環境で森田童子は育った

(出生になかにし礼が立会う)

1953年1月15日夜9時青森市で、森田童子(中西美乃生)は、なかにし礼(中西禮三)の兄である中西正一の次女として生まれた。このとき14歳だった礼は兄家族と同居しており、生まれたとき助産婦を呼びに行っていたことを『血の歌』に記している。

(父正一の境遇)

中西正一は中西家の長男。立教大学在学中に学徒出陣し宇都宮で陸軍特攻見習士官中に終戦を迎えた。戦争で父を失い満州から引揚げてきた母、妹、弟(なかにし礼)とともに、祖母が暮らす小樽の実家で、妻を含め6名の大家族を家長として22歳の若さで背負う運命だった。

(最初の失敗がニシン漁)

1947年3月、23歳の正一は普通に働いては家族を養えないと、実家を担保に借金して増毛のニシン漁に賭け成功した。しかし、獲れたニシンを秋田県能代へ船で運べば3倍儲かると欲を出し、日本海の荒波の中、魚を失ってしまった。小樽の実家を手放し一家はさまよい始める。正一はまるで特攻のように、仕事や人生に向かって勝負を賭け、失敗し多くの借金を背負う。その数奇な人生をなかにし礼は小説『兄弟』に書きとめた。そして発端となったニシン漁は「石狩挽歌」の歌詞に込め、さすらいのテーマソングとして、礼の心の中で生涯にわたって鳴り響くことになった。

ニシン漁失敗の後、母は正一から離れ、青森市にいる自分の弟に家と仕事を世話して貰い、礼と姉の3人で平穏に暮らしていた。しかし、1952年47歳の母が脳溢血で倒れ不自由になり、三沢で米軍の通訳をしていた正一が青森市に駆けつけ、同居を再開した時に中西美乃生(森田童子)は生まれた。

(東京へ)

29歳の正一は母の古着屋を継ぐが上手くいかず、バーの経営なども失敗。1953年に大学相撲部の同級生に仕事を紹介して貰い、一家揃って品川区大井町(3部屋の借家)に転居した。童子は青森生まれだが、0歳のうちに東京に転居して育っているので、弟が運営する「森田童子オフィシャルサイト」で東京出身としているのだろう。

30歳の正一は中西家の家長として、自分の家族4人に、病気の母、7歳下の妹、14歳下の弟(礼)の3人を加えた7人の一家を支えることになる。紹介された営業の仕事を3ヶ月でやめ、一山当てようとする人と組んで、スポイトホースの製造会社、化粧品会社、廃棄物処理、ミミズの養殖、商事会社、貿易会社と次々に会社を作り、失敗した。

(困窮する生活)

礼は高校の授業料が滞り、通学定期が買えず休む日もあった。奨学金を申請し授業料は何とか確保したが、生活苦で廉価なうどんのかすをたべ、病気の母は金歯を金に換えてくれと差し出し、養子に出してくれと礼が兄に申し出るほど困窮していた。高校卒業後は、礼は品川の家を出て独立する。童子4歳の時だった。

(童子への影響)

『兄弟』には、正一の仕事ぶりに変化は無く、生活の節目節目になると必ず金が無かった。子供達の入学式、夏休み、正月、夏祭り、修学旅行、卒業式、一度も満足な思いをさせたことが無いと記されている。森田童子は、恵まれない環境で、幼少、小中学校生活を過ごした。

2 人気作詞家となった礼と再び同居

(礼はアルバイトでシャンソンと出会い訳詩を始める)

1957年高校卒業後なかにし礼は、神田の炭屋や代々木のレストランで住み込みで働き、立教大学英文科入学後は五反田の貧しいアパートで暮していた。アルバイト先のシャンソン喫茶で一日中聴かされたシャンソンに惹かれ、アテネ・フランセでフランス語を勉強し、シャンソンの訳詩を始めた。これが評判になり、訳料1曲500円が2000円にまで上がっていった。1963年新設された仏文科に転科しシャンソンで知り合った女性と結婚する。

(流行歌の作詞を始める)

新婚旅行先の下田のホテルで声をかけられた石原裕次郎から訳詩ではなく流行歌を書けと勧められる。1964年シャンソンの訳詩をみたポリドールレコードの松村慶子デレクターから、小澤音楽事務所所属の菅原洋一「 I Really Don't Want to Know 」の訳詩を依頼される。この『知りたくないの』が大ヒットし作詞家デビューとなった。その頃、シャンソン訳詩は1000曲になり、歌謡曲の歌詞も売れ始めた。

(一躍人気作詞家に)

1968年暮れになると、ヒット曲の印税収入で中野に15部屋の家を新築し、礼が中西家を支えることになる。病気の母、正一家族5人(姉、童子、弟)、礼、弟子4人と中西家は11人で同居生活を再開した(兄との同居や作詞家など方向性の違いが理由で妻と離婚)。その年は「天使の誘惑」で日本レコード大賞受賞、NHK紅白で3曲歌われ作詞家として輝いた。

(礼の家に童子は再び同居)

1968年、森田童子は15歳の高校1年生で、30歳にして人気作詞家となったなかにし礼と再び同居することとなった。学園紛争中でもあり、ギターやピアノで音楽に親しみ、詩を書くことなど習ったことは既述のとおり。なお、礼と松村慶子デレクターは、1974年秋に正一に相談し、21歳の森田童子をレコードデビューさせている。

3 前田亜土と結婚へ

(童子の配偶者)

前田亜土(本名 前田正春)

1938年北海道阿寒生まれ。なかにし礼と同い年。(1939年3月生まれという情報もある)

1953年1月青森市生まれの森田童子(中西美乃生)とは、15歳離れている。

2009年10月31日没(71歳)

武蔵野美術大学西洋画科卒 イラストレーター、舞台美術家(劇団表現座で舞台装置担当)

(前田亜土となかにし礼)

1968年前田亜土(正春)は、中村メイコと神津カンナの詩集の表紙イラストを担うなど、30歳にして人気イラストレーターとなっていた。

1969年なかにし礼は、これまでの膨大な数の作詞や訳詩のなかから74編を精選した詩集「エメラルドの伝説(For Ladies 22)」を出版した。

その記念詩集の表紙のコラージュ・イラストレーションを担当したのが、前田亜土である。

なお「エメラルドの伝説」というタイトルは、作詞なかにし礼、作曲村井邦彦で1968年に発売されたザ・テンプターズ(リードボーカル:萩原健一)の最大ヒット曲の題名である。(表紙)

(前田亜土との出会い、礼との別れ)

なかにし礼の自宅は十分な広さがあり、仕事の打合せの場として使っていた。打合せに来た前田亜土が、学園紛争中で自宅にいた中西美乃生と面識を持ったのではないか。

そして1971年10月、礼が石田ゆり(由利子)と再婚する際、正一は倒産し借金の夜逃げ同然で礼の家を出て行く。家が崩壊していく混乱の中で、高校を中退していた童子(18歳)は恋人の元へ走って行き同棲を始めた。父親なんてこの世に存在しなくていいとでも言うように(『血の歌』より)。

この恋人を前田亜土と考えると合点がいく。不安定で貧しかった父に代わり、若くして大きな仕事を成し遂げるイラストレーターと出会い、幸せな日々を送り始めたと思うと、安心する。

4 正一の借金で苦しむなかにし礼

(兄が借金を次々とつくり、弟が返す)

会社を作っては倒産を繰り返す正一のせいで、弟のなかにし礼は兄の借金返済の肩代わりを繰り返す人生だった。

正一は、金のありそうな人に「一緒に仕事をやろう」と押出しのある雰囲気で信用させ、相手が工面した金を使い会社がつぶれる、そのくり返しだった。

礼の再婚が決まりその財産を相続できなくなると直ぐに手を打ち6千万円の生命保険に本人に無断で加入したり、礼の実印を持ち出して自分の借金の連帯保証人にするなど、印税収入のある弟を利用し放題だった。

1973年、正一はゴルフ場開発の儲け話に乗り、礼の実印を勝手に持ち出して会社を作り新聞広告で会員を募集したが無認可事業で失敗。負債総額4億円。それに自分の借金2億円を被せて6億円。それを全て弟の礼に被せて自分は失踪した。とんでもないことだ。なかにし礼はとうとう倒産してしまう。

(借金返済の苦難)

借金返済のため、礼は新築して4年しか住んでいない中野の自宅、北青山のビル、南青山のビルなど全財産を処分したが、3億5千万円の借金が残った。作詞家なかにし礼の印税収入は、債権者会議で、今後も含め全て法律事務所に送金することになった。それでは食べていけないので、息子を妻の大阪の実家に預けるとともに、テレビ番組、講演など日銭の稼げる仕事は何でも取組み、借金を減らしていく毎日だった。『時には娼婦のように』を作詞作曲し、自ら歌いヒット。映画にも出演。キャバレーでも歌い、借金を大きく減らすことが出来た(『兄弟』」より)。

5 中西正一と前田亜土

(風吹ジュンの報道で結婚が明らかに)

1971年頃、中西正一は、前田亜土(アド)を社長に、自分となかにし礼を取締役にした芸能事務所「アド・プロモーション」を設立していた。童子が前田亜土と同棲を始めた頃だ。

1974年9月、アド・プロモーションは所属タレントの風吹ジュンの二重契約問題でトラブルになり、週刊誌に「誘拐事件」と報じられ大きなニュースになった(幸い録音テープ等で否定され事件化はしていない)。

記事の中で「アドプロ社長の前田亜土の妻は、なかにし礼の実兄の中西正一の次女」と記され、社長の前田亜土となかにし礼との関係が書かれた。

この記事で、正一の次女である森田童子(美乃生)は前田亜土と既に結婚していたことがわかる。そして正一は人気イラストレーター、舞台美術家の前田亜土と親子の関係になっていた。

6 本名を公にできなかったもう一つの理由

「叔父の七光りで世の中に出たくない」という前田美乃生の希望と、「反体制的なイメージでデビューさせたい」という松村慶子プロデューサー(なかにしを売り出した人物)の方針で、本名を一切明らかにせず、「森田童子」としてレコードデビューすることになった(『血の歌』より)。

しかし、レコードデビューが決まったのは同じ1974年秋である。喫茶店での風吹の説得を「風吹ジュン誘拐!」と大げさに週刊誌で騒がれた直後だった。人気作詞家のなかにし礼との関係だけでなく、誘拐報道(虚偽情報があり事件化されなかった)や借金トラブルの父親中西正一の存在が、デビューの際に本名を公にしなかった理由の一つと思われる。

7 森田童子の活動

森田童子は、1975年(22歳)から1983年(30歳)にかけて6枚のアルバムを出すとともに、全国各地の小劇場でライブ公演など約10年間活動し、1983年に活動を休止する。

私がFMラジオから流れてきた童子の2枚目のアルバム『マザー・スカイ=きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか』を偶然耳にして衝撃を受け、西荻ロフトなどライブで歌を聴きに行くようになったのは1977年。

(母の死と兄との絶縁、借金完済)

その1977年、正一夫婦が25年間も世話していた病気の母親が73歳で亡くなった。兄への負い目がなくなった礼は、1980年(42歳)になってようやく兄と絶縁し、兄が作り出す借金から逃れた。そして3度目のレコード大賞を受賞した1980年、遂に兄が造った借金を完済した。

(童子や前田亜土への影響は)

しかし、正一の破天荒な性格や借金づくりが母の死で変わるとは思えない。1980年以降は、今度は礼の代わりに、印税収入のある実娘の森田童子に借金のしわ寄せが向かわなかったか。それが原因で童子が引退を早めることはなかったのか、ファンとして心配である。加えて正一は、社長の礼に借金を肩代わりさせたのと同様に、義理の息子の芸能事務所アド・プロモーション社長の前田亜土に借金を肩代わりさせなかったのか、心配である。

8 国分寺での生活

(国分寺に家を購入)

1982年3月、前田亜土と森田童子(美乃生)は国分寺に共有名義で1戸建てを購入する。亜土44歳、童子29歳の時だった。

公開情報の登記簿によると住宅は共有名義だが、ローンは亜土が組んでいる。童子は10年間の活動で得た収入を投じたのであろう。父親から預金を狙われることを恐れ住宅取得に充当したのかも知れない。当時の住宅ローン金利は年8%強と高く、30年間の返済総額は借入金の約3倍にも達する。

(亜土と童子の仕事)

亜土はイラストレーターのほかに舞台美術の仕事をしており、活動停止後の美乃生はその仕事を手伝っていたようだ。

(童子の印税収入をあてにしていた父)

引退10年後の1993年、テレビドラマ『高校教師』が脚光を浴び、主題歌に使われた森田童子の「ぼくたちの失敗」がCD化され再発売し、100万枚の大ヒットになった。このとき、正一が童子に電話した内容が『血の歌』に記されている。

「おめでとう。良かったね」と電話した正一に対し、童子の返事はにべもなかった。

「まだ、印税入ってないわよ」。正一は絶句した。

この会話から、正一は、過去に娘の印税収入をあてにしていたことがわかる。

CD1000円にかかる印税は、アーティストは10円(1%)、 作曲家は15円(1.5%)、 作詞家も15円(1.5%)が相場のようだ。 100万枚売れた場合、アーティストには10円 × 100万枚 = 1000万円。 作曲家には15円 × 100万枚 = 1500万円。 作詞家には15円 × 100万枚 = 1500万円。作詞・作曲・歌の印税は4000万円になる。

(1000万円の金策)

礼に絶縁され金策に窮していた正一は69歳になっていたがまだ野心を持って事業と失敗を繰り返していたのだろうか。童子に電話したときも、1000万円の金策をつきあっていた女に頼んでいた。女から断られたら、娘の印税を当てにしただろうか。弟の印税を自分の物にしていた男である。娘の印税に手を出していたとしても不思議ではない。

(著作権の管理)

1994年4月、森田童子の著作権を管理する(有)海底劇場を設立。代表は前田亜土。印税は夫の会社が管理することになる。

(父が残した2億円の借金を相続放棄)

1996年10月、父の中西正一が72歳で死去。

1997年3月、正一の妻が離婚(死後離縁)。正一が残した借金が2億円もあった。それを遺族が背負わないよう、妻、童子達3人の子が小樽の本籍から籍を抜いて遺産相続放棄をする。その後は弟の礼に回ってくるので、礼にも相続放棄の手続を急ぐよう兄嫁から連絡を受けたことが『兄弟』に書かれている。

(再び高校教師。童子が20年ぶりに収録)

引退20年後の2003年1月、テレビドラマ『高校教師』の新作が放送され、再び『ぼくたちの失敗』が主題歌として使用された。2003年版のベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に新規に歌唱・録音された「ひとり遊び」が収録された。「ひとり遊び」は童子の国分寺の自宅で、自らのピアノ、ギター、ハーモニカの演奏で20年ぶりに録音された(このとき童子は50歳)。

(前田亜土の死と自身の病気との闘い。そして死)

2009年10月、闘病生活をしていた夫の亜土が71歳で死去。童子は56歳。

2010年5月、朝日新聞が森田童子に取材したが「とても親しかった人との唐突な死別と、自らの病で手紙すら書けないほど憔悴している」と断る。取材時は夫の会社や自宅などの整理、自分の病と闘いながら、初めて経験する相続手続などが大変で、新聞取材にはとても応じられなかったのだと思う。

2010年6月、童子は、亜土の住宅持分と住宅ローンをようやく相続する。夫の死から半年後だ。

2013年9月、亜土から相続した30年ローンを31年半で完済。なぜ1年半も遅れたのだろうか。延滞損害金は年14%と高額で、1年半も延滞すると返済総額が増えてしまう。亜土の収入が無くなったのに亜土の残したローンを払い、自分の病気と闘っている姿を想像すると、心が痛む。

2018年4月16日死去(推定)。4月24日に森田童子は自宅で死亡しているのが見つかった。65歳だった。

9 なかにし礼が書き残したこと

森田童子は活動休止後も、亡くなるまで、本名や生年月日を明らかにしていない。本名を隠すことを決めたなかにし礼が、森田童子の出生地や生年月日、デビュー、父親の中西正一との関係を遺稿『血の歌』に残した。本名は(有)海底劇場や自宅不動産の登記簿で公表されている。

(『血の歌』について)

「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村慶子氏はなかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。息子の中西康夫もそれが父の遺志だと信じ出版した。

(『ぼくたちの失敗』について)

『血の歌』では、正一の言葉として次のように記している。

堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。特攻に取り憑かれ墜落を恐れながら、みずから華々しくさらなる墜落を求める父。父の背中越しに戦争の興奮、傷と孤独。童子にとって時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか。俺がいくら自分の成功を信じたとて、呪われたように俺は失敗を続ける。森田童子の歌のとおりじゃないか。恋愛の歌ではなく、家族の歌でも学生運動の歌でもない。「ぼくたちの失敗」というのは俺の失敗のことだろう。

10 森田童子の歌の世界

森田童子の歌の世界は、幼少期のつらくて切ない経験がベースにある。人気作詞家となった叔父のなかにし礼と過ごした高校生の頃に作詞と作曲を覚えて歌に昇華した。前田亜土との幸せな生活の中で多くの作品が生まれていった。

童子の歌に出てくる「ぼく」や「君」は、自分自身、父や前田亜土のことなのだろうと思う。

「寂しい雲」

いつも君のあとから長い影を踏んで いつも君のあとからついて行きたい

君:前田亜土

「君は変わっちゃったネ」

久しぶりダネ ぼくは相変わらず甘い夢を追っています そんなぼくをあなたは子供っぽく見えるかしら とても長い時が過ぎたのネ

ぼく:中西正一

「今日は奇蹟の朝です」
不幸な時代に僕たちは目覚めた 八月の海はどこまでも青い
今日は気持ちのいい朝です 砂浜に人は黒い影を落とす
まぶしい陽射しに目眩する 今日は気持ちのいい朝です

白い雲が流れる もうすぐ夕立 僕たちは奇跡を待っています
今日は奇跡の朝です 八月の海は悲しみいっぱいに
いま聖母マリアが浮上する

僕たち:1947年の正一、礼たち

聖母マリア:大量のニシン

この歌の歌詞が何を意味しているのか長年わからなかった。なぜ聖母マリアが浮上するのか。しかし、森田童子の父親が、小樽の実家を担保に入れて借金して網元から権利を3日間借りた北海道増毛のニシン漁の最終日の1947年3月22日の未明。魚が入らず失敗したと家族全員があきらめたときに奇跡が起きて、遠くの海から大量のニシンが父の網に押し寄せる奇跡が起きた(『兄弟』)。童子は父親や叔父のなかにし礼からこの時の話を聞かされていたに違いない。

森田童子を訪ねて

森田童子の真実 1

森田童子の真実 2

森田童子の真実 3

森田童子の真実 4


森田童子の真実3

2024-04-11 | 音楽

なかにし礼の遺稿『血の歌』

なかにし礼は、謎だった森田童子の姿を、遺稿「血の歌」で明らかにしている。

森田童子が亡くなって2年後に、なかにし礼も他界したが、遺稿は家族に見つかりやすいように机の引出の中にあった。

レコードデビューに際し、森田童子の本名や自分の姪であることを謎にしたことを、死後明らかにする意図があった。

 

森田童子の声の秘密

森田童子の歌声は、澄んでいて透明感があるが、暗くせつない。

ステージでは椅子に腰を掛け、ギターを手にマイクに向かって、うつむき加減に歌う。

直立して歌えば大きな声が出るのか、疑問だ。

曲の音階は高音や低音部を避け、歌いやすい。

短い曲が多く、ステージでは何曲か歌うと、途中休憩があった。

「のどが弱い」のではという噂もあった。

遺稿で、そのことを明らかにしている。

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青森で生まれた森田童子が、東京の大井町で住んでいた5歳の時だった。

珍しく、父親の中西正一に連れられ、夏祭りの屋台を一緒に歩いていた。

貧しかった父は、子供が欲しがりそうな屋台の綿菓子やヨーヨーを、娘のために買ってやることは無理だった。

しかし、最後にアイスキャンディをひとつ買ってあげた

当時、屋台では、箸にアイスを差して売っていた。

童子は、嬉しそうにメロン色のアイスを選び、アイスの箸を持って舐めながら歩いた。

父親は、童子の手を握っていなかった。

何かのはずみで転んでしまい、運の悪いことに、アイスの箸が童子の喉の奥に突き刺さってしまった。

父は血だらけのアイスを捨てようとしたが、童子は泣きながらもアイスの箸を離さなかった。

今度は父の手をしっかりと握り、傷の深さに泣きながら、血の付いたアイスを舐め続けた。

童子の声は、その時に変わったのだろうか…。父は泣きながら思った。(「血の歌」より)

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森田童子の年譜

1953年1月15日 青森市で生まれる。中西美乃生。巳年なので「みの」。

68年、15歳。なかにし礼の新築の大きな家に同居。ギターを覚え、ピアノも弾けるようになり、なかにし礼から詩を書くことの秘密を教わった。大学紛争が高校に波及し、学園紛争の高校生活だった。

70年、17歳。父親の中西正一(礼の兄)が経営していた建設会社が多額の負債で倒産。高校も中退(友人逮捕をきっかけ)。

71年、18歳。借金に追われ、家族は離散。童子は恋人の元へ走って行き、同棲を始めた。家も、家族も、学校も失った恋人は前田正春(亜土)、やがて前田姓になる。

72年、19歳。友人の死の知らせをきっかけに歌い始める。「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」などを作詞作曲する。

74年、21歳。「知りたくないの」で作詞家なかにし礼をメジャーデビューさせた音楽プロデューサー松村慶子が、「ぼくたちの失敗」のデモテープを聴いて虜になり、デビューさせたいとなかにし礼と正一に相談。なかにし礼の姪であることは伏せて、売り出すことを約束。

75年、22歳。森田童子が作詞・作曲した10曲を歌う最初のアルバム『グッド バイ』が発売。

76年、23歳。「ぼくたちの失敗」など10曲を収めた2枚目のアルバム『マザースカイ』が発売。

77年、24歳。3枚目のアルバム『A BOY』が発売。

80年、27歳。レコード会社を移籍。4枚目のアルバム『ラスト・ワルツ』が発売。

82年、29歳。国分寺に家を購入(前田正春と共有名義)。5枚目のアルバム『夜想曲』が発売。

83年、30歳。6枚目のアルバム『狼少年』が発売。

84年、31歳。新宿ロフトのライブを最後に活動停止。

93年、40歳。テレビドラマ「高校教師」の主題歌に「ぼくたちの失敗」が使われ、95万枚売上のヒット

03年、50歳。再び、テレビドラマ「高校教師」の主題歌に「ぼくたちの失敗」

09年、56歳。夫の前田正春(亜土)死去。取材申込みに対し、森田自身も病で手紙すら書けないほど憔悴していると返答(うたの旅人)。

18年、65歳。自宅で死去

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森田童子のデビュー

74年秋、森田童子デビュー話を叔父のなかにし礼、音楽プロデューサー(松村慶子)が、父親の中西正一に相談した。名前は「森田童子」に決めたんだと、なかにし礼がコースターに書いて説明した。

知人の紹介で自作曲のデモテープを持参した彼女(前田美乃生)は人前で歌うつもりは全くなかった。ポニーテールのどこにでもいる少女だったが、作品には、聴いているとイメージの扉を開かれて慰撫されるような唯一無二のフィーリングがあったので、絶対に何かある、これはいける!と直感した。その独特の世界は、本人が歌わないと伝わってこないので、貴方が歌った方が良いと説得したサングラスは自ら表現者となるための武装で、殆ど私語を発しない浄化された世界を表現した作品に自分の生活感をにじませないようだった(松村談 朝日新聞2010年5月22日うたの旅人より)。

売れっ子のなかにし礼の姪であることを当分は伏せておきたい。本人は叔父の七光りで世に出たくないという希望だが、アングラでマイナーなところから出発させたい。「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と松村は戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案した。

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TVドラマ高校教師の主題歌

プロデューサーだった伊藤一尋は、異例の楽曲起用について以下のように語っている。「当時は、大物ミュージシャンに新曲を書いてもらうのが主流だったが、ドラマの内容と違和感があった。

喫茶店で脚本を担当した野島伸司さんと思案に暮れるうち、どちらからともなく「森田童子って知ってる?」と言い出した。学生時代に聞き覚えのある森田童子の歌の数々を聞き返してみると、どれもが主題歌になりそうなほど、耳にしっくりとなじんだ。

人の弱さをいとおしむように歌う森田童子の音楽の世界観が、ドラマのそれと、まさに共鳴し合っていました。野島さんも、聞きながらドラマの構想を練っていると、イメージがあふれ出てきそうだと意気込んでいた」朝日新聞2010年5月22日うたの旅人より

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謎のままで良いのか

カーリーヘアと黒いサングラス。活動期間は10年間でマイナーな存在だった。最初のアルバムは2千枚。学生時代にライブで聴いていたが、たった3歳しか離れていなかった。

最後のアルバムから10年後に、テレビドラマの主題歌に使われ95万枚のメジャーヒット。ヒットをきっかけにベスト盤の発売が企画され、またオリジナルアルバムも廃盤となっていたためすべてCD化された。さらに10年後にもドラマがリメイクされ主題歌としてヒット。

しかし、森田童子はマスコミの前に出ることはなかった。引退後も本名や年齢を明らかにしなかった。謎のままこの世を去った。しかし、間違った事実が継承されていく。それで良いのだろうか。なかにし礼が残した原稿が発刊されたおかげで、ようやく断片がつながった

**冒頭の絵はAIが作画したもので、森田童子とは無関係です。***

森田童子を訪ねて

森田童子の真実 1

森田童子の真実 2

森田童子の真実 3

森田童子の真実 4


森田童子の真実2

2024-03-31 | 音楽

森田童子は年齢、氏名が謎だったが、叔父のなかにし礼が「血の歌」でその正体を明らかにした。

森田童子は1953年生まれ

本名は、前田(旧姓なかにし)美乃生(みのぶ)1953年1月15日夜9時青森市生まれ巳年に生まれたので「みの」と、出産に立会ったなかにし礼が生まれた時刻まで正確に記している。

一方、wikiでは1952年生まれとしている。その根拠として「1980年の札幌でのコンサート会場で主催者配付のチラシ「森田童子ラフスケッチ」によると、1952年青森に生まれた彼女は、68~70年の学園闘争の激しい最中に高校生活を送り、高校を中退。72年夏、「ひとりの友人の死をきっかけに森田童子はめまぐるしく疾風のように通り過ぎていったいくつもの青春たちのかたちを振り返ってひとつづつ思い出すように歌いはじめた」を引用している。

68~70年の3年間を高校生活とするのは生まれが1952年度であるが、森田は1月15日の早生まれなので、1953年青森生まれが正しい。主催者の勘違いが現在もwikiの森田の生年月日に影響している。

詩を書くとはどういうことか

1968年、ヒット曲を連発した30歳のなかにし礼は、印税5500万円で中野に床面積110坪の家を新築し、兄の中西正一家族5人(森田童子の姉と弟を含む)、母、自分の弟子達と同居生活を始める。森田童子は期せずして、学園闘争の高校時代をなかにし礼の家で過ごすことになった。

人気作詞家のなかにし礼が森田童子の詩や曲にどのような影響を与えたのか、次のように記されている

「ギターを覚え、ピアノも弾けるようになっていた。長女より次女(森田童子)と波長が合い、何かにつけて可愛がった。肩を揉まれながら、詩を書くとはどういうことか、自分なりの秘密を話して聞かせていた。」(血の歌より)

 

高校生活も、家も崩壊していく

学園紛争が高校にまで波及し、進学校では逮捕者が出るなど学校が荒れていた。森田にとって自宅で音楽に打ち込む時間は十分あったに違いない。森田は高校を中退している。

この時期に、なかにし礼は日本レコード大賞受賞曲を2曲(68年天使の誘惑、70年今日でお別れ)、作品の総売上が1000万枚突破するなど時代の寵児だった。

一方、兄の中西正一(童子の父)は建設会社を立ち上げ、自宅新築を弟(なかにし礼)から受注したが経済的には苦しかった。森田の姉は学費をなかにし礼が負担していることも知らず、兄正一は、家族に新築費用を弟と折半したと話すなど虚構の同居生活だった。そのうえ、売れっ子の弟を保証人とし、兄は無謀な事業を展開して借金が膨らみ、会社はとうとう倒産。多額の借金取りが押し寄せる日々となった。71年10月、なかにし礼の再婚を機に、兄一家は夜逃げ同然の引越しをすることになった。童子は、父親の果たした役割(家族にうそをつき弟に多額の借金を負わせたこと)をしっかりと見ていたに違いない。家が崩壊していく混乱の中、森田童子は恋人の元へ走って行き同棲を始めた。(兄弟、血の歌より)

なかにし礼の家で過ごした3年間は、成功した叔父から音楽の教えを受ける華やかな生活から一転して、高校、友達、家族、住む家まで全てを失い、14歳年上の恋人(前田亜土:本名前田正春)の元へ走る激動の時代だった。

多感な高校時代に経験した、天国から地獄へ落ちるような激動の体験が、森田童子独特の音楽の世界観に影響したのではないか。

 

森田童子は歌い始めた

「72年夏、ひとりの友人の死をきっかけに森田童子はめまぐるしく疾風のように通り過ぎていったいくつもの青春たちのかたちを振り返ってひとつづつ思い出すように歌いはじめた」

この頃のフォークソングは、政治や反体制的なものを盛り込んだメッセージソングから、身の回りの出来事や恋、人間関係など個人的な歌に変化し、ニューミュージックと呼ばれた。

吉田拓郎(46年)、井上陽水(48年)、南こうせつ(49年)、大橋純子(50年)、忌野清志郎(51年)、中島みゆき・さだまさし・河島英五(52年)、森田童子(53年)、荒井由実・因幡晃・坂崎幸之助(54年)。

同世代のシンガーソングライターは、恋、夢、人生、結婚、別れなど聞く人の多くが共感する歌を作詞・作曲し、自ら歌い、若者を中心に多くの支持を得た。

 

森田童子は、孤独や友を歌う

友への思い、孤独、昔の暮し、別れ、挫折、悲しく色褪せていく青春を歌う。楽しい、嬉しい、聞いて元気が出るようなことはない。

ヒットメーカーのなかにし礼が「詩を書くことはどういうことか」自分なりの秘密を森田に教えたが、森田はヒット作を狙うのでは無く、自分の心の中の願望を詩に書いた。

カーリーヘアーに黒いサングラス。ジーンズ。ギターを片手にか細い声で静かに歌った。

私が森田童子を最初に知ったのは76年末か77年

NHK-FMラジオから2枚目のアルバム『マザースカイ』(76年11月発売)の曲が次々と流れていた。「ぼくたちの失敗」に衝撃を覚え、誰が歌っているかもわからず急いでラジカセに録音を取り始めた。「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」と「海を見たいと思った」は大好きな曲となり、旅に出た(後述)。

20歳の大学2年。自分の学業成績で希望学科に進級できるか、進学振り分けで専門課程が決まる不安な時期だった。情報誌ぴあで森田童子のライブ会場を探し、西荻窪ロフトに通った。早くから入店し前席に座った。観客は床に座り、膝を抱え、沈黙して、森田童子のギターと歌が自分の内面に突き刺せと聞き入っていた。年齢不詳だったが、当時24歳。4年の差でこんなに異なる世界観を持っていたと知り驚いた。

 

森田童子の言葉

  • 私は何もできない。動けなかった。私の歌は、周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。人も風景もどんどん変わっていく。だけど自分だけが同じ所にいるような気がして……。
  • 何もしていなかった時間を、どうやって経験してきたか。こうなって欲しかった。多分こうだったんじゃないかという想いが、私の一つのエネルギーになっているんです。
  • 私、寝台車って大好き、電車のゴトン、ゴトンという音が胎内の音に似てる気がして、安心できる。よく眠れるの。
  • 人はそれぞれ崇高な孤独を持っていればいい。
  • もし、感動を伝えるとするなら個から個へと伝わるものでしかありえない。

森田童子は、ライブハウスでも、多くを語らなかった。残した言葉は少ない。上記は、森田童子研究所から引用させてもらった。

 

森田童子の曲

表紙は1975年11月に発売された最初のアルバム『Good Bye』の歌詞カード。LPレコードは再生装置が無く処分した。

10曲のうち、8曲は君(あなた)とぼくを歌う。久しぶりに会った君、君の思い出、別れ。

シングルカットされたのは「さよならぼくのともだち」「まぶしい夏」。どちらも、学園紛争で疲れ、睡眠薬を飲んで亡くなった友人を歌う曲だ。レコード会社の売り出し方針だったのか。

後にテレビドラマ「高校教師」の主題歌となった「ぼくたちの失敗」は森田童子の代表作で、74年時点でデモテープがありレコードデビューのきっかけとなった曲だが、発売は76年11月の2番目のアルバム『マザースカイ』に収められた。森田童子のレコードデビューにも、なかにし礼が関わっていた(後述)。

 

淋しい雲は私が好きな曲の一つで、今でも時々口ずさむ。

森田童子は誤解されているが、暗い別れの歌ばかりでは無く、大好きな友を思う歌もある。

 

淋しい雲

いつも君のあとから長い影をふんで

いつも君のあとからついてゆきたい

どこへ行くあてもなく ぼくたちはよく歩いたよネ

夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて

ぼくひとりでは とてもやってゆけそうもないヨ


君の好きなミセスカーマイケル ぼくもいいと思うヨ

夏休みが終わったらもう逢えなくなるネ

そうしたら時々 なつかしいミセスの話をしようヨ

夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて

君ひとりでは とてもやってゆけそうもないから

 

さよならぼくのともだち

長い髪をかきあげて ひげをはやしたやさしい君は

ひとりぼっちでひとごみを歩いていたネ さよならぼくのともだち


夏休みのキャンパス通り コーヒーショップのウインドの向こう

君はやさしいまなざしでぼくを呼んでいたネ さよならぼくのともだち


息がつまる夏の部屋で 窓もドアも閉めきって

君は汗をかいてねむっていたネ さよならぼくのともだち


行ったこともないメキシコの話を 君はクスリが回ってくると

いつもぼくにくり返し話してくれたネ さよならぼくのともだち


仲間がパクられた日曜の朝 雨の中をゆがんで走る

やさしい君はそれから変わってしまったネ さよならぼくのともだち


ひげをはやした無口な君が 帰ってこなくなった部屋に

君のハブラシとコートが残っているヨ さよならぼくのともだち


弱虫でやさしい静かな君を ぼくはとっても好きだった

君はぼくのいいともだちだった さよならぼくのともだち

さよならぼくのともだち

つづく

森田童子を訪ねて

森田童子の真実 1

森田童子の真実 2

森田童子の真実 3

森田童子の真実 4


森田童子の真実1

2024-03-27 | 音楽

森田童子が自宅で亡くなって、来月は7回忌だ。

本名・年齢不詳で正体を明かさなかった謎のシンガーソングライター森田童子

しかし、2020年82歳で亡くなった作家・作詞家なかにし礼本名 中西禮三)が遺稿「血の歌」を残し、遺族が2021年に出版した。

それは、森田童子の謎を、叔父の立場から明らかにしていくものだった。

私が調べた結果(赤字部分)も併せ、森田童子の謎に迫ってみたい。

 

森田童子について

本 名 前田(旧姓中西) 美乃生

生 年 1953年1月15日 21時

没 年 2018年4月16日(推定)。享年65

出生地 青森市

死没地 東京都国分寺市(自宅)

家 族 父は中西正一、母は房子。姉と弟。中西禮三(なかにし礼)は、正一の14歳下の弟で、美乃生(森田童子)の叔父

正一は特攻隊の生き残りで事業で失敗を重ね大借金を作る破天荒な男。なかにし礼が実兄の借金返済に追われた。正一の死後に書いた「兄弟」が直木賞候補になり映画化された。映画で北野たけしが兄の役を演じた。

 

名前・出生と死亡について

「血の歌」(執筆1995年)では、「美納子みのこ」とされている。

昭和28年1月15日夜9時。極寒の青森市。兄嫁房子の出産に立ち会った禮三が「兄さん、おめでとう。名前はなんてつけるの?」と聞くと、

兄の正一は「巳年に生まれたんだから、みの、でいいんじゃないか」といい、妻にねぎらいの言葉をかけることもなく、麻雀(愛人)のもとへ戻っていった。(血の歌より)

****************************************************

2020年、沖縄から戻り大きな手術をした私の日課は歩くことだけだった。ふと、ネットにあった一枚の写真を頼りに森田童子が住んでいた国分寺の家を探そうと思い立ち、あてもなく歩き、偶然、見つけることができた。没後2年半が経ち、家は他者により建て替えられていたが、周囲の風景が一致していた。

帰宅して就寝中の午前3時、グーグルのストリートビューでは過去の映像が見られることに気づき目が覚めた。そして、森田童子が生存中の家の表札に「前田」を確認した。

さらに、その土地の住所から公的機関の公開情報を調べ、森田の氏名前田美乃生と死亡年月日2018年4月16日(推定)を確認した(赤字部分)。

森田童子を訪ねて - 沖縄での一人暮らし (goo.ne.jp)

 
なかにし礼(作詞家
なかにし礼は、作詞家として20代から数々のヒット曲を生み出した。
27歳「知りたくないの」30歳「エメラルドの伝説」「天使の誘惑(レコード大賞)」31歳「恋の奴隷」「今日でお別れ(レコード大賞)」「君は心の妻だから」「人形の家」「夜と朝のあいだに」33歳「別れの朝」37歳「石狩挽歌」「心のこり」40歳「時には娼婦のように」44歳「北酒場(レコード大賞)」46歳「まつり」47歳「ホテル」など多数。
曲とともに、歌詞の一部を思い出す人も多いのではないか。
 
中西正一(借金まみれの兄)
満州で死んだ父の代わりに21歳で小樽の父の実家で6人家族(妻、祖母、母、姉弟)を支える。普通に働いては家族を養えないと、事業を手掛けるが、ニシン漁で失敗し一家は小樽の実家を追われた。その後も次々と借金を重ね、その負債を14歳年下の弟のなかにし礼が、肩代わりしつづけた。甘やかされて育ち怠慢・独善・自尊心だらけの兄(なかにし談)だが、親代わりに育ててくれ、病の母の世話に感謝や負い目があったようだ。その母の死亡後、ようやく兄と絶縁する(「兄弟」より)。石狩挽歌は、ニシン漁の悲しみを歌ったものである。
 
なかにし礼(小説家)
散々苦労をかけた兄が病で72歳で1996年に死去。2年後、兄との関係を描いた小説「兄弟」(後に映画化)が直木賞候補となり、その3年後には妻の家族をモデルにした「てるてる坊主の照子さん」(後に連続NHKテレビ小説)など小説家として活動の幅を拡げた。
 
なかにし礼の遺稿「血の歌」
兄の借金返済の後は、自身の病気と闘い、なかにし礼は2020年12月に82歳で亡くなった。翌年の夏に別荘で妻(由利子:いしだあゆみの妹)が遺品整理中に、机の引出の中から原稿用紙60枚に鉛筆で書かれた原稿「血の歌」を発見した。
あとがきで息子の中西康夫氏は、執筆年次は1995年と推定され、「兄弟」(1997年連載開始)の習作として書かれたものとしている。
 
なかにし礼との音楽関係、森田童子の歌手デビュー
つづく。

70年ぶりのニシン群来 石狩挽歌

2024-03-01 | 音楽

北海道の積丹半島の浜に70年ぶりにニシンが大量に戻ってきた。

大量の白子が海面に浮かび、海は銀色に染まる。群来(くき)と地元で呼ばれる現象。

浜には大群のニシンを迎える網が仕掛けられ、誰の網に入るか、かがり火で仕切られている。

 

なかにし礼(中西禮三)が、一家の運命を左右するニシン漁を経験したのは8歳の時だった。

7歳で終戦を迎え、母と姉と3人で満州から引揚げて小樽の祖母の家に。そこに兄夫妻を併せ6人が暮し始めた。

学徒動員で特攻帰りの22歳の兄は、普通の仕事では一家を養えないと、勝手に実印を持ち出し祖母の家を抵当に入れ、高利貸しに30万円を借りる。

ニシン漁の網を30万円で3日間借りて網にニシンが入れば100万円になり、入らなければ全て失う博打のような賭けだ。

しかも、ニシンの到来数は年々減少しており、せっかく建てたニシン御殿を人の手に渡す人も出ている。

ニシンが浜に大量に来ても、自分の網に入らなければ、お金にならない厳しい仕組み。

 

家族で祈った最後の3日目、素人漁に失敗したとあきらめかけた時に、大量のニシンが兄の網に入り一家は喜び、安堵する。

しかし、兄は獲れたニシンを直接青森まで運べば、もっと大金にな儲かると欲を出し、荒れた日本海の海で全てを失い、実家を追い出されることに。

なかにし礼「兄弟」 1997年 より

 

石狩挽歌(1975年 日本作詩大賞作品賞) 作詞 なかにし礼

海猫が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖の ヤン衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら

破れた網は 問い刺し網か 今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロ-
沖を通るは 笠戸丸(かさとまる) わたしゃ涙で にしん曇りの 空を見る


燃えろ篝火 朝里の浜に 海は銀色 にしんの色よ
ソ-ラン節に 頬そめながら わたしゃ大漁の 網を曳く
あれからニシンは どこへ行ったやら 

オタモイ岬の ニシン御殿も 今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロ-
かわらぬものは 古代文字 わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る

古井戸と泉谷しげるが中学校に(1972年)

2020-11-23 | 音楽

1972年3月の中学校の生徒会新聞

体育館で開催された卒業生の送別会
「フォークを聞く会」
 
出演者は、3組。
・古井戸(加奈崎芳太郎と仲井戸麗市)
・泉谷しげる
・小野和子
 
本棚を整理していたら、ガリ版のチラシが出てきた。
中学校の「卒業生を送る会」を、2年生中心の生徒会が主催してくれたものだ。
 
<古井戸>
仲井戸麗市(なかいど れいいち)は、当時21歳。
進学高で名高い桐朋学園高3年在学中に古井戸を結成。
その後、泉谷しげるやRCサクセションとライブハウスで活動していた。
1972年3月、「古井戸の世界」でレコードデビュー。その年に「さなえちゃん」が大ヒット。
1979年、古井戸解散後、仲井戸麗市はRCサクセションに加入し、忌野清志郎とともに活躍した。(wikiより)
 
古井戸のボーカルの加奈崎芳太郎が、声量豊かに歌っていたのが印象的だった。
 花言葉、インスタントラーメン、なんとかなれ…
大学生になってからバイト代で「古井戸の世界」を購入し、思い出しながら聴いていた。
 
<泉谷しげる>
当時23歳。名門の都立日比谷高校を中退。
1971年11月、ライブ盤の「泉谷しげる登場」でレコードデビュー。
1972年、代表曲となる「春夏秋冬」がヒットする。
その後の活躍は、周知のとおり。俳優も。
2009年5月、デビュー当時から一緒にライブをしてきた忌野清志郎の死に際し、「清志郎の死受け入れたくない。清志郎は俺の中で生きている。」とコメント。(wikiより)
 
泉谷しげるは、ギター片手にガナっていた印象。
きれいに歌うのではなく、心の声を叫んでいた。
突然、チラシに登録していない放送禁止歌を、歌い出した。
生徒達は盛り上がるとともに、先生方の困った顔を見て楽しんでいた。
 
仲井戸麗市も泉谷しげるも日本のフォーク、ロックを担う大物。
当時はデビュー直後で、ヒット曲が出る直前のタイミングだったので、中学校の生徒会が主催する小さなイベントに出演してくれたのだろう。
 
ありがたいことですね。

森田童子を訪ねて

2020-11-19 | 音楽

1976年、FMラジオから流れてきた森田童子のアルバム「マザースカイ」を偶然聴いて、衝撃を覚えた。


「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」
「海を見たいと思った」
「ぼくたちの失敗」…
 
自分の心の感情を、歌にして、ギターを弾きながら、語るように、嘆くように、時には叫ぶように歌う。
森田童子が何を思い、伝えたいのか、不安な学生生活の中、耳を傾けていた。

情報誌の「ぴあ」で森田童子をチェックし、西荻ロフト、下北沢屋根裏、目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂などで開催されたライブコンサートに出かけた。
 
西荻ロフトでは、椅子に座りギターで弾き語りをする童子を、前列の床に座って、見上げるように聴いていた。
 
曲の合間では、歌と同様に、自分の気持ちを独り言のように童子は話し、聴衆の反応を求めたり会話することは無かった。
 
素顔は謎だった。
 
2018年4月に65歳で亡くなったことが伝えられ、少しずつ、森田童子のことがわかってきた。
 
住んでいた家を、歩いて、探し求めた。
それらしきところを探したが、見つからず、足が重たくなってきた。
 
すると、道路の向かい側の家を見つめて、じっと立っている女性がいた。
 
幼稚園バスが到着し、園児と女性が去った場所に立ち、その家を見つめた。
 
探し求めていた家が、そこにあった。
周りの風景が一致していた。
 
死後2年半が過ぎ、家は取り壊されて、跡地には別の家が新築されていた。
苦労して住んでいた場所を見つけて写真を撮ったものの、この写真は使えないことは分かっていた。
 
電車で帰ろうと、駅の改札で、スイカが弾かれた。2度目で気付いた。手に持っていたのは、郵貯カードだった。疲れていた。
久しぶりに小銭で切符を買い、電車に乗って帰宅した。
 
ーーーーーーーーーーーーーーー
その夜、就寝中の午前3時にひらめいて、目覚めた。
 
Googleのストリートビューで探せば、その場所の過去の映像が残っているのではないか。
 
過去数回撮影された映像が、10年前まで残っていた。撮影地点を変えれば、別の写真が得られる。(写真は全てGoogleです)


上の写真は2010年2月。
夫の前田亜土さんが亡くなった頃のもの。
玄関の灯りは、夫を待っているのだろうか。
 
森田童子の活動期間は、1973年(20歳)の西荻ロフトから1983年(30歳)の新宿ロフトまでの10年だと思う。
 
8年間の地方都市コンサートは、舞台設備のない小劇場、幼稚園、集会場が多かった(朝日新聞「夜想曲」より)
 
引退後、この土地に新しい住居を構え慎ましく暮らしていた。
 
この家で、ギターを手に自分の気持ちを歌うことはあったのだろうか。
 
家の外周とフェンスの間には、植物がいっぱいで、大きく歩道にはみ出した大木もある。壁には夏蔦が繁っている。
幸せを感じる。

表札には、手書きで「前田」とある。
イラストレーターだった前田さんの直筆かな。森田のサインとは「田」の字体が違う。
 
その後の写真を観ると、持病のせいで、手入れが大変になってきたのか、庭木は少しずつ消えていった。
 
亡くなった後の2018年6月には、蔦が2階の窓まで覆っていた。


2019年5月、家から鳩が飛び立つのをレンズは捉えていた。
 
マザースカイのサブタイトルは、「きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか」だった。
 
「悲しみの青い空を、飛んでいくのか」と、童子が問いかけているように感じた。

家を出て8時間

2020-02-23 | 音楽

実家を出て8時間が経ちました。

普通です。9時間かかることもある。
沖縄は遠い。
すっかり夜になってしまいました。
真っ暗な道を走るバス。
インターを降りた。
左側には、海が広がっているはずだが…
 
もうすぐ終点です。
行き止まりの海です。
 
西荻のライブ喫茶でギターを弾き語りしていた森田童子の歌を思い出す。
 
「海を見たいと思った」
作詞作曲 森田童子
 

夜汽車にて
ふと目を覚ました
まばらな乗客 暗い電灯

窓ガラスに もう若くはない
ぼくの顔を見た
今すぐ海を
今すぐ海を 見たいと思った

“行く先のない 旅の果てに
ひとり砂浜に ねそべって
飲めない酒を 飲んだ
泣いてみようとしたが 泣けなかった”

ある日 ぼくの
コートの型が
もう古いことを 知った
ひとりで 生きてきたことの
淋しさに 気づいた
行きどまりの海で
行きどまりの海で
ぼくは ふり返る


フィッシュ ストーリー

2018-10-14 | 音楽


久しぶりに面白い映画でした。
「僕の孤独が魚だとしたら…」

意味不明な歌詞と、がなりたてるパンク…。
しかし、繰り返し聴いているうちに、その謎が解けて意味がどんどん深まってきて、好きな曲になって来る。
いくつもの出来事が、時代を超えて、積み重なって行く。最後に種明かしのように一気に完成する痛快感。

セリフも音楽も映像とのタイミングも計算され尽くしていて、何度も推敲されたシナリオを想像する。

テーマ曲は斎藤和義。原作は伊坂幸太郎。

伊坂幸太郎は、会社に勤めながら小説を書いていたが、出勤途中に斎藤和義の曲を聴き、小説のために退職を決意したそうです。

耳にした音楽が人生を変える。人を救い、地球までも救う。

だけど、曲が売れなければ、音楽が誰かに届くことがあるのか…。

登場人物も、いい仕事をしていました。

この映画は、売れたのだろうか。 面白かったので続いて二度も観ました。二度目の方が作者の考えに近づけるので、より楽しめました。

逆鱗のFish Story、実際に販売されたそうですが、いつか、人生を変えたり、地球を救うことになるのでしょうか。


ショパンで33km/l

2015-06-09 | 音楽

ショパンのノクターン、夜想曲というのでしょうか、聴きながら運転していると、燃費が良くなります。

1000キロ走って、ガソリン1リットル当たり33キロ走行しました。

気分が落ち着いて、安全運転になるし。

スマホをつなぐと、カーステレオになって、充電もできて、便利。

ノクターン8番がいいね。

13番や15番もいいけど。

こちらは、最近の燃費メーター。

燃費45キロが出た。

50キロを保つように運転していると、いつの間にか電気だけで走ってる。

どういうシステムかわからないけど、さすが、ホンダ、フィット。

通算、9000キロ走って、29.7キロ。もうちょっとだね。


第8回浜松国際ピアノコンクール入賞者披露演奏会

2012-12-01 | 音楽

浜松国際ピアノコンクール。音楽の街・浜松が3年ごとに開催する国際イベント。

世界各国から288名の応募者の中から選ばれた若手ピアニスト92名が、課題曲を1次予選(20分)、2次予選(40分)、3次予選(70分)を競い、オーケストラと協演する本選を目指す。

入賞者6名による演奏会が、上野の東京文化会館で行われた。

司会進行など一切なく、第6位から入賞者による演奏が始まる。

曲目は、リスト、ショパン、ブラームス、ラヴェル、シューベルト、シューマン、ラフマニノフ、渡辺晋一郎。

入賞者は、日本人3名、ロシア人2名、韓国人1名。

誰も上手で、私には優劣の違いはわからなかった。

個人的には、4位のアンナ・ツィブラエワ(ロシア)さんが演奏したリストの曲がよかった。 

優勝は、イリヤ・ラシュコフスキー(ロシア)さん。

3位の佐藤卓史さん。途中から演奏をちょっと聞かせてくれます。

演奏会の模様はこちら↓で紹介されています。

浜松ピアノコンクール東京公演


悲しいうわさ I Heard It Through The Grapevine

2012-07-07 | 音楽

学生時代によく耳にした曲を、どうしても聴きたくなった。

iTunes storeで調べたら、この曲だけはシングルでは買えないので、アルバムごと購入。

さっそく聴いたところ、聞いていたアルバムは、これだったと気づいた。

Creedence Clearwater Revivalの CHRONICLE THE 20 GREATESTHITS

クリーデンス・クリアウオーター・リバイバルのヒット曲集。

1. Susie Q
2. I Put A Spell On You
3. Proud Mary
4. Bad Moon Rising
5. Lodi
6. Green River
7. Commotion
8. Down On The Corner
9. Fortunate Son
10. Travelin' Band
11. Who'll Stop The Rain
12. Up Around The Bend
13. Run Through The Jungle
14. Lookin' Out My Back Door
15. Long As I Can See The Light
16. I Heard It Through The Grapevine
17. Have You Ever Seen The Rain?
18. Hey Tonight
19. Sweet Hitch-Hiker
20. Someday Never Comes

3の「プラウド・メアリー」、17の「雨を見たかい」が有名なC.C.R.ですが、

16の「悲しいうわさ」 I Heard It Through The Grapevineは11分の長曲です。

マーヴィン・ゲイのヒット曲ですが、C.C.R.がハードに繰り返すバンドが耳に残ります。

…重く長いトンネル状態を抜け出したい。


スローバラード&帰れない二人

2009-05-04 | 音楽
忌野清志郎さんが亡くなった。ご冥福を祈ります。

昨日は車の中で寝た あの娘と手をつないで
市営グラウンドの駐車場 二人で毛布に包まって
カーラジオからスローバラード 夜露が窓を包んでいて
悪い予感のかけらもないさ あの娘の寝言を聞いたよ
ほんとさ確かに聞いたんだ
(1976年「スローバラード」作詞作曲:忌野清志郎&みかん)

「初期のRCサクセション」「シングルマン」などのレコードを聴き入っていた学生の頃、渋谷のジャンジャンで行なわれたRCサクセションのライブに行った。
僕の好きな先生、スローバラードなど静かな曲を期待していたが、全曲、過激なロックを歌い、そのあまりの変わりように驚いた。
「シングルマン」が1年で廃盤になるなど全く売れないどん底で、アコースティックバンドからロックバンドへ生まれ変わろうとしていた頃だった。

1972年に発売されベストセラーとなった井上陽水さんのアルバム「氷の世界」には、忌野清志郎さんとの共作が含まれており、陽水さんの甘い声が印象的だった。

思ったよりも夜露は冷たく 二人の声も震えていました
僕は君をと言いかけたとき 街の灯りは消えました
もう星は帰ろうとしてる 帰れない二人を残して
(1972年「帰れない二人」作詞作曲:井上陽水&忌野清志郎)

忌野清志郎さんには様々な面があるが、切ないバラードを歌う素顔が好きだ。
今までありがとうございました。合掌。
このblogに今まで登場した忌野清志郎さん

Danny Boy Ireland

2008-12-27 | 音楽
アイルランドに、いつか行ってみたい。
Danny Boy Ireland

Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side
The summer's gone, and all the flowers are dying
'Tis you, 'tis you must go and I must bide.

But come ye back when summer's in the meadow
Or when the valley's hushed and white with snow
'Tis I'll be here in sunshine or in shadow
Oh Danny boy, oh Danny boy, I love you so.

And if you come, when all the flowers are dying
And I am dead, as dead I well may be
You'll come and find the place where I am lying
And kneel and say an "Ave" there for me.

And I shall hear, tho' soft you tread above me
And all my dreams will warm and sweeter be
If you'll not fail to tell me that you love me
I'll simply sleep in peace until you come to me.
作詞:フレデリック・エドワード・ウェザリ(Fred E. Weatherly)

ダニーボーイよ。(戦いの)バグパイプが山谷に響く。
夏はすっかり過ぎ去り、花は枯れていく。
君は行かねばならなく、私は待たねばならない。

でも帰ってきて。
草原に夏が来ても、雪が降り谷が静まっていても。
そのとき、光や影となって、私はここにいるよ。
ダニーよ。ダニーボーイ。こうして愛しているよ。

帰ってきた時、全ての花が枯れているかもしれない。
私も死んでいて、会うことはできないかもしれない。
君は、私が眠っている場所を見つけるでしょう。
ひざまずき、アヴェマリアに祈ってください。

君がそっと私の上を歩いても、私には聞える。
すべての夢が、暖かくて甘いものとなるでしょう。
私を愛していると、君が必ず、言ってくれるなら。
君が私の元に帰って来るまで、私は安らかに眠ります。
(意訳:forever-green)

アイルランドの歌ですが、英国で詩がつけられ、戦争に行った息子を思う親の気持ちが込められていると言われています。

MATTさん、広がる

2006-06-29 | 音楽
あれからわずか6日間で、MATTさんは70万回見られて93万回に。
一日10万人に見られている。
YouTube - Where the Hell is Matt?

MATTさんにつられて、こんな反応を送った人もいるよ。
ロンドンのインド系の人。家の中を移動してるだけじゃないの。
YouTube - Response to Where the Hell is Matt !

なんか一生懸命作った人もいるよ。
YouTube - FFXI Where the hell is Matt/Ninjai

でもやっぱMATTさんの不恰好なダンスと曲のよさだよね。
DEEP FORESTのSweet Lullabyという曲。

MATTさんの踊りは、場面場面で微妙に違いますね。
足元悪い(怖い)ところでは小刻みだし、遠景では腕を激しく振り上げてるし、若者と踊る時は肩を入れて激しいし。
場面に合わせてアレンジしているセンスがいいです。
曲の展開も計算して場面切り替えてるし。

MATTさん、テレビに出て踊ったりインタビュー受けてます。人気者です。
犬や子供も一緒に踊り出す楽しさを持ってるんだ。
Matt Harding On Good Morning America

MATTさんのように、遠くの海へ行ってみたい。