名護親方の程順則(ていじゅんそく1663-1734)と同じように、中国に渡り学び、琉球の基盤を築いた。
蔡温は、中国で風水地理を学び、琉球の国土作りに生かした。
国王の命令を受け、10万人を動員し、氾濫する羽地大川(名護)をわずか3ヶ月間で改修し、羽地に豊かな水田地帯を作った。
風水地理は、気候、地形、水脈等の自然条件を読み取ってまちづくりに生かす都市計画で、台風や洪水などの自然災害から集落を守るためには欠かせない技術として広まり、多くの村落が風水地理に従い、将来の発展のために村落を移動した。
羽地内海の奈佐田川と屋部川を結ぶ運河を掘削して船の往来を便利にすることで、那覇港とともに大型船が入港できた運天港を生かすとともに、首里より平坦な名護の地形が国都にふさわしいとして、首都を首里から名護に遷都する思想があった。
これに対し、蔡温は国土は山脈が連なってできて理をなしており、丘を運河で断ち切ると山々の気脈が失われて国土維持に好ましくないと反対し、この旨を碑に記した。
今では、傍らにあるヒンプンガジュマルが国の天然記念物となり有名になっている。
その蔡温は、山原(ヤンバル)地方を数多く歩き、山の管理・育成に力を注いだ。
島国で資源の少ない琉球にとって、山に有用木を植林し船や家屋の建築材や燃料材をとして重要だった。
この階段、大木を避けるように、両側に分かれている。
樹齢200年はありそうな松が見えてきた。
蔡温は、村を守るためにマツ(松)を植え、屋敷を守るためにフクギ(福木)を植えることを推奨した。
蔡温松と呼ばれて、沖縄の各地に今も伝わっている。
整備された散策路を歩いて行くと、辺戸の集落に出た。
拝所(ウガンジョ)があった。
近くに、立派な拝所があった。
背後に、辺戸御嶽が望めるいい場所だ。
森の中に、赤い影。アカショウビンだと思う。
鳴くまでじっと動かずに待てば、鳴き声で確認できたのだろうが、いやな感じがして足元を見ると、やぶ蚊が3匹も足に張り付いていた。
足を叩いたら、やぶ蚊は退治できたが、アカショウビンらしき鳥は飛び去った。
早朝の集落を歩く。
共同売店には朝獲りの野菜が並んでおり、一仕事を終えたおじいやおばあがいた。
「おはようございます。」と挨拶をしながら通り過ぎる。
集落を抜けて、国道58号沿いの駐車場近くにある蔡温1号橋。
駐車場で、車に乗った年配の米軍カップルと出会うが、お互い、引き返す。
車を止めてある宇佐浜の駐車場まで、もと来た散策路を歩く。
蔡温松と辺戸御嶽のツーショット。いいね。
辺戸岬が見えてきた。
駐車場までもうちょっとだ。
下から、車が上がって来たので、避ける。
さっきの米軍カップルだった。
こっちはサンダル、向こうはジープ。
日曜の早朝に、琉球の歴史文化を尋ねてくる姿に、ちょっと感心した。