沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

クチン(マレーシア)の市場

2017-10-05 | マレーシア

市場は、いいね。訪れた土地でどんな農産物が作られ、何が好まれているか、垣間見ることができる。

赤道直下のボルネオ島だけに、熱帯果樹が豊富です。

 

バナナは、ぶら下がっています。

左は、ドラゴンフルーツ。

右は、PAPAYA パパイアです。 LIMAU MADU 柑橘類はその下にかすかに写ってます…。

こちらは、バナナの山。

大きいのは、果物というより調理していただく。

沖縄でも、パパイアは青いうちに野菜として調理します。

これは、アテモヤ atemoya。森のアイスクリームとして、沖縄でも売られています。高いけど。

これは、ご存じの方も多いはず。

ドリアン durian 果物の王様と呼ばれているけど、香りがすごくて、機内持ち込み禁止だと。

私も、パイナップルを座席の下に持ち込んだら、香りが苦手と隣のお客からクレームついた経験があります。

これは、見ての通り、唐辛子、チリペッパー Chili pepper。

こういう売り方をするということは、香辛料がマレー料理でよく使われるということですね。


クチンの食事

2017-10-03 | マレーシア

クチンのMホテルの朝食ビュッフェです。

いろいろなものが並んでいますが、おいしそうなものをテイクアウトすると、こんな感じ。

こちらは、次の朝のメニュー。

マレーシアの人は、お魚が大好きのようです(豚肉はイスラムはだめですからね)。

その次の日の朝食です。だんだん、マレー色が薄れてきたような…。

夕食がマレー系、インド系、中華系なので、朝はおとなしいのを選んでしまうのかも。

しかーし、街に出ると、こんな店です。

ココナッツミルクが入ったカレー味。

マレー料理、いけます。おいしい。

こちらは、中華系。朝からこれはちょっと…。

まだあるよー。

このコーヒー、甘い味。

これは、こんにゃくだったか。

これは、さすがに食べ過ぎ。4-5人で小分けして味見したのですが。

注文した方が、探究心旺盛で、大変でした。

こちらは、マレーの人が行く昼食ブッフェ。

物価が安く、日本円換算で150円から200円で十分な食事がとれるので、ありがたいのでした。


クチンのお店

2017-10-01 | マレーシア

マレーシアは、イスラム教が国教で、マレーの人はお酒や豚肉はダメです。

女性は、ヒジャブ Hijabというスカーフを顔に巻いています。顔と手以外は隠さなければいけないそうです。

専門店に行ってみました。

いろいろなデザインが豊かで、おしゃれです。イバン族のデザインは、カラフルで気に入りました。

 

こちらは、観光客向けの川沿いの商店。良心的なお値段でいい品物がありました。

これは別の店です。なつかしい、ヘチマのたわしですね~。

お店の広告ですが、日本語でPRしています。

日本語のカナ表記が、ちょっとおかしいです。

フードスト→フードストア

ヂリンクスト →ドリンクストア

よくある風景。

車は、結構、高めの車に乗っています。沖縄は軽自動車が多いけど。

日本からは3年車検を迎え、市場に出てきた中古車が輸入されるそうです。賢いね。

日本語読みすると、きっさしつ 喫茶室ですけど。中華系の店です。

こちらも、よくありがちな、市内の店舗。


太平洋戦争 戦史地図

2017-09-28 | マレーシア

太平洋戦争戦史地図は、太平洋の地図に、日本軍がいつどんな作戦でどれだけの戦力を失ったかを、陸軍と海軍それぞれに描いた貴重なものです。

赤字は米軍主体の連合国軍で、作戦の開始日と終了日が記され、矢印の太さで戦闘の大きさを表しています。赤いバツ印は、軍の全滅を表しているのでしょうか。

沖縄は1945年:昭和20年3月25日から6月17日まで。全滅、死者42000と記されています。兵士数だけです。

地図専門家の植野録夫さんが作成したものですが、連合国軍に押収されました。
1966年になって、マッカーサーの太平洋戦史報告書の中に自分の描いた地図を発見し、戦後40年の1985年に植野さんが復刻して市販されました。
それを神田の日本地図センターで偶然見つけて持っていたものです。

日本軍が南方に侵攻した際の作戦の状況と被害状況(おそらく日本軍の)も併せて掲載されています。
南西方面主なる作戦概況を見ると、

英領ボルネオ作戦は、1941年:昭和16年12月16日から翌年の1月24日まで40日間の戦いで、死者190名とあります。
オランダ領ボルネオ作戦は、1942年:昭和17年1月11日から2月11日まで、死者無し。
爪哇ジャワ作戦は、1942年:昭和17年3月1日から3月10日までの10日間で、死者無し。
スマトラ作戦は、1942年2月15日から3月17日まで、死者無し。

「ジョヨボヨの預言が的中し、平和と主権が取り元せる」と、長らく植民地支配を受けていたインドネシアやマレーシアの人々の歓迎もあって、他の作戦に比べると被害は少ない方だったようです。

クチン(猫)の市街(2)

2017-09-27 | マレーシア

こちらは、スクエア・タワー Square Tower。 留置場だったところ。

 

すぐ近くには、旧裁判所があります。The Old Court House.

裏にまわると、賑やかな商店街があります。

突き当たりに、新しい大きなショッピングモール PAKSONがあります。

反対側にでると大きな中央広場。隣はホテル。

ここは、クチンの中心地だったため、巨木がたくさんあります。

高さ30メートルくらいの大きな木です。

The Kapok Tree Ceiba Pentandra カポック パンヤです。

樹齢100年以上で、地上に出ている”板根”がすごいです。 

場所は、ここです。

ストリートビューなどで、風景が見れます。


クチン(猫)の市街

2017-09-27 | マレーシア

クチンKuching という名前は、二代目の白人王チャールズ・ブルックにより命名された。

チャールズ・ブルックは、よく出てくる名前ですね~。

マレー語で Kucingは猫という意味があるようです。

それで、猫のシンボルが街の拠点にあり、売り出してます。

上の写真は、南の拠点のシンボル。

こちらは、北の拠点のシンボル Cat Statue 。ホテル等が集中する繁華街です。

北クチン市役所の一画には、ネコ博物館Cat Museum 入場無料もある。

世界の人々のネコとの関わり合い、日本の招き猫など、2000点が展示されています。

クチンは、州都である北クチン市(主要施設があるエリア)と、華僑が多い南側のクチン市に分かれる。

中心部の風景。

サラワク川沿いの散策路があります。

サラワク州の議事堂です。

夜になると、この川沿いの遊歩道は、ライトアップしてきれいです。

歩道にプレートが埋め込まれています。

歴史散歩道 10

We do not want to be colonised. 1946-1963

植民地化を望まない。1946戦後~独立1963

反対運動にもかかわらず、サラワクは英国直轄植民地となった。戦後の大きな変革が生じた、とプレートに書いてあります。

oppposition? pが3つもあるけど、反対を強調しているのかな。

この独立運動は、サラワク博物館(3)-日本軍 にあった。

続く。


サラワク博物館(4)-ジョヨボヨの預言と日本軍

2017-09-24 | マレーシア

インドネシアに伝わる、Joyoboyo prophesy ジョヨボヨの預言というのがあります。

「インドネシア人は約300年間、白人によって支配されるが、黄色い小人がやってきて追い出し、トウモロコシ収穫期間が終わるとインドネシアの国王が復活する。」

 

インドネシアは、1602年にオランダによる植民地支配が始まった。

それから330年後の1942年に、日本軍がオランダ領インドネシアを占領し、白人支配が終わった。

この時、「ジョヨボヨの預言が的中した」と、多くのインドネシア人は街で踊り、日本軍を歓迎した。

According to a selectively abridged set of stanzas within a Joyoboyo prophesy (all are extremely long epic poems):

"The Javanese would be ruled by whites for 3 centuries and by yellow dwarfs for the life span of a maize plant prior to the return of the Ratu Adil: whose name must contain at least one syllable of the Javanese Noto Negoro."

When Japan occupied the Netherlands East Indies, in the first weeks of 1942, many Indonesians danced in the streets, welcoming the Japanese army as the fulfillment of the prophecy ascribed to Joyoboyo.(wiki)

 

 

ボルネオ島の南半分はインドネシアで、言葉や民俗文化が近いマレーシアの人々にも、ジョヨボヨの予言が言い伝えられていました。

そのため、1941年に日本軍がサラワクを占拠し、100年続いた英国支配を終わらせたとき、多くのマレーの人々に歓迎されたと言われています。

 

サラワク博物館に展示してある日本兵の遺留品「祝 平和到来」は、そういう意味で書かれたのかもしれませんね。

そして、そのことをマレーシアの人に伝えたいのかもしれませんね。I wish peace comes. 

博物館では、「この日章旗は、バトゥ・リンタン捕虜収容所の菅 辰次( Suga Tatsuji)陸軍大佐のオフィスに掲げられていた」とあります。


「菅 辰次(すが たつじ)」については、日本語ウェブサイトでの情報は少ないので、上記wikiから抜粋すると、以下の通りです。

菅大佐は、広島出身で、米国シアトルのワシントン大学に留学し、高校で英語教師を務めていたことから、英語力が役立つ捕虜収容所勤務を志願した。

6人の子を大学に行かせるほど教育熱心な親であり、英国・オーストラリア人の捕虜や被抑留者の収容所でも人道的な行動が記録されています。

母子収容所にいた作家アグネス・キース Agnes Newton Keithが収容所生活を Three Came Home「3人は帰った」として出版し、1950年米国で映画化。

アグネスによる菅の人物像は、小柄な男、ワシントン大学卒、芸術理解者、第一次大戦の勲章受章者、スキンヘッドの軍人、糖尿病患者、子供好きの兵士、大きな剣を持つ小さな男、神道に生まれカトリック、英雄と嘲笑、愛国者、ボルネオの捕虜および被抑留者の司令官。

映画化された際、菅大差の役は当時ハリウッドの人気俳優だった「早川雪舟」が演じた。

しかし、8月6日に家族がいる広島に原爆が落とされ、家族が全滅したと悲観し、9月16日、60歳の誕生日を目前にして自殺したそうです(wiki)。


サラワク博物館(3)-日本軍

2017-09-23 | マレーシア

日本政府発行の5ドル札 The Japanese Government 5dollars

初めて見た。

 

ブルック王国は、建国100年のお祝いで賑わった1941年12月、日本軍による空爆を受け、5日後にクチンは陥落した。

1942年1月には、ボルネオ島全体が日本軍に占領された。

そして、お札や地図が発行された。

「標準大東亜分図 ボルネオ」とあります。

今の地図と比較すると、いろいろなことがわかってきます。

航路(赤線)は、日本とシンガポール、マラッカ海峡を通じてインド洋へ。

交通の要所を、固める必要があった。

それに、ボルネオ島では石油資源が発見されており、資源供給の重要拠点でもあった。

「戦争が進むと、クチンに住む人の多くが、食料調達のために田舎に移動した。

 日本軍は、クチンにボルネオキャンプ捕虜収容所を作り、市民や軍人を収容した。

 1945年8月17・18日、日本軍は捕虜収容所を撤収予定だったが、8月15日に日本政府が降伏したことで、多く捕虜収容者の命を救った。

 戦後、サラワクは、大きな政治的変化を経験する。

 最初は、100年以上続いたブルーク支配の終わりだった。」

戦後、英国は、マレーシアをブルック王国以上の、強力な植民地として支配しようとした。

 

これに対し、ナショナリズムが芽生えたサラワクでは、反政府運動 anti-cession movement of Sarawak が1946年から1950年まで続いた。

白人支配体制を、アジアの同胞である日本が打破したことも大きな要因とされる。

英国もマレーシアからの撤退を検討し始め、マレー半島を含むマラヤ連邦が1957年に独立した後、1963年にサラワクもマレーシア連邦に加わって、英国支配から独立した。

 日本兵士の石河惣七 さんが日の丸に残した「祝 平和到来」がやっと訪れた。

 


サラワク博物館(2)-先住民族と英国人との戦い

2017-09-21 | マレーシア

ボルネオ島は、ブルネイ王国の支配下にあったが、クチンのあるサラワクでは部族間の争いが絶えなかった。

特に、ibanイバン族は攻撃的な首狩族で、河沿いに移動し、他の民族を襲った。

 

19世紀初頭、ゴム、コショウなどの植物資源を求めてアジアに進出してきた英国は、インドに続いてマレー半島やボルネオ島の北部を植民地化し、スズ鉱山やゴム農園を開発した。さらに、植民地のインドから労働者を移住させた。

 

そして、英国人のジェームス・ブルックJames Brookeが、ボルネオ島西部のサラワクで生じた部族間の争いを、武力で鎮圧した。

これをきっかけに、ブルネイ王国からサラワクの支配者Rajahの地位を与えられ、1841年白人のブルック王国が建立された。

まさに、帝国主義*ですね。

 *自国の民族主義・文化・宗教・経済等の拡大や、領土・天然資源等の獲得のため、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略する思想や政策。

 

英国は、インドで栽培し製造した麻薬のアヘンを清(中国)に密売し巨額の利を得ていたが、アヘンの流通を禁止する清に対し、戦争(アヘン戦争)を仕掛けたのが1840年。

敗戦の結果、香港は1841年から1997年までの156年間、英国の領土となった。

 

上の写真は、イバン族の戦士- Rentap。祖国を守るため勇敢に戦ったとして、絵画が飾られていました。

これも、戦いの様子。

こちらは、iban族の武器、鮮やかな民族衣装。

左の方に、なにやら怖いものがあります。スカルskulls 頭蓋骨です。

戦いで敵将の首を持ち帰ることは日本にもありましたが、イバン族にとって首狩りは結婚の条件で、大事な儀式でした。

2代目のチャールズ・ブルックは、イバンの男性が婚礼前の首狩儀式を行った場合、鳥や豚などの家畜をペナルティにしたとあります。

Charles Brooke even agreed to fine an iban man one fowl,one pig and a piece of iron for marrying before performing the necessary rituals.

今日ではヘッド・ハンティング(首狩り)というと、他社の有能な人材を引き抜く意味合いです。

自分より強い人間を食することで、自分が強くなる(人肉食)という意味では同じで、怖い言葉ですね。

 

チャールズ・ブルック Charles Brooke(1829-1917)は Jamesの次の支配者で、ボルネオでは最初となるサラワク博物館を1891年に完成させた。

1903年には、マレーの少年がマレー語を学ぶ学校も設立したとある(wiki情報)。

偉大な人ですね。


サラワク博物館ーボルネオの豊かな自然

2017-09-19 | マレーシア

クチン市は、マレーシア・サラワク州の州都です。

ボルネオ島というと、オランウータンや象などのジャングルを想像していましたが、このような美しい歴史都市がありました。

その理由を調査するには、博物館が最も便利です。

 

博物館となっている建物は、1891年に完成したもので、第2代白人王 チャールズ・ブルックの考案だという。

”白人王”って、何?  いずれ、わかるので、まずは中へ。

入場無料。写真撮影は、OKでした。

 

1階には、ボルネオ島の豊かな自然が理解できる、動物たちの標本。

写真は、ほんの一部で、見たこともない野生生物の宝庫だったというのが、理解できます。

これは、サイチョウの仲間が、8種類もいる。

上のくちばしの上に、サイのような膨らみが特徴。

アニメで見たことがあるような、いや、アニメでしか見られないような。

During the Japanese Occupation, the museum was put under the direction of a sympathetic Japanese Officer.

As a result, the museum suffered very little damage and remarkably little looting.

日本の占領下にあっても、思いやりのある日本人指揮官の指示で、博物館はダメージがほとんど無く、驚くべきほど略奪はなかった。

出典:Ethnology Museum (Old Building)

こういう表現が博物館HPに記述されることが、今日のマレーシアの人々に親日派が多いことに、つながっているのだと思う。

こちらは、新聞記事と、腕時計。

「仕留められたワニは、”殺し屋”だった」

2階は、ボルネオ島の先住民族の工芸品や文化財が多数あり、写真撮影は遠慮してください、ということでした。

この後、ボルネオ島の歴史がわかる隣の建物へ。


マレーシア(ボルネオ島クチン)へ 12年ぶり

2017-09-13 | マレーシア

12年ぶりに、マレーシアへ行ってきました。

海外へ行くのも、12年ぶり…。

前回行ったクアラルンプールは、乗り継ぎだけで、今回は初めて、ボルネオ島のクチン国際空港に深夜着きました。

ボルネオ島のサラワク州の州都で、歴史のある古都です。

 

朝、ホテルの一室から窓を見やると、すてきな風景が。

ゆったりと流れるサラワク河、とんがった山。伊江島の塔頭を思い出します。

 

仕事をした後は、お食事です。

海鮮料理の店にみんなで行きました。

華僑の人がやっています。

これは、カニというか、その類いです。

こちらは、見ての通り、エビの唐揚げです。

こちらは、豆と、肉と、唐辛子を炒めたような。

これは、食べやすかったです。

地元野菜の卵とじ。

これは、白身魚です。結構、おいしかったです。

ということで、一日の疲れが、珍しい海鮮料理で癒やされた気がした一日目でした。


マレーシア再訪問

2005-11-03 | マレーシア
Google Earthでマレーシアを再訪問してみました。
午前中に撮影したのか、クアランプールのツインタワーは長い日陰を落としていました。
独立(国家)記念日にパレードを行った100m道路のプトラジャヤも、独特の形態が上空から直ぐに発見できました。
カリマンタン(ボルネオ)島の方も、ヤシ油栽培でかなり開発されていて、ゾウやオランウータンの棲みかが減ってきているんだなあ。



東方政策

2005-10-14 | マレーシア
外務省のHPを見ていたら、マハティール前首相が退任前年の2002年に来日した時の講演内容が紹介されていました。
東方(ルック・イースト)政策の起源(なぜ日本に見習おうとしたのか)、グローバリゼーション化と小国の危機(通貨経済危機でIMFの支援を受けなかった理由)、日本への期待(成功から学びたい)などです。
マレーシア首相になって自ら東方政策を提唱し、その20周年記念講演で、今も日本を見習おうと期待を寄せています。
東方政策20周年記念セミナーにおけるマハディール首相の基調講演(要旨)
マレーシア(Malaysia)の概況

マレー・ジレンマ

2005-10-10 | マレーシア
”マラヤ(半島)は豊かなのに、マレー人が貧しい。”マハティール,「マレージレンマ」,1970年。

独立後10年を経ても改善されないマレー人の貧困。独立の父ラーマン首相の政策を批判し、首相の辞任要求して党を除名されたマハティールが書いた発禁本。マレー人優位の経済構造への変革とマレー人自身の自己改革を求め、当選一回で落選時の45歳の時に書いたこの本は、シンガポールでは読むことが出来、多くのマレー人に読まれた。

民族融和と民族間の分業体制(華人は商工業、マレー人は農業)では華人との経済格差は縮まらず、歴史的につくられた民族間の経済格差を解消するためにはマレー人優遇政策が必要との主張は、ブミプトラ(土地の子)政策につながった。

74年にマハティールは再び当選すると直ちに第2代首相ラザクに教育相に抜擢され、第3代首相フセイン・オンには副首相を命じられた。そして1981年から2003年まで22年間にわたりマハティールは第4代首相を務め、ルック・イースト政策(西欧ではなく日本や韓国に学べ)を推し進め、国産自動車、国産モノレール、電子製品の輸出国など工業化に成功した。
[マハティール語録] NNA: Global Communities

*ジレンマ:自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち、一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場。板ばさみ。
マレー・ジレンマとは「民族融和とマレー人優遇策」のことと思われる。初代と第3代首相は民族融和策を取り、第2代と第4代首相はマレー人優遇策を推進したといわれる。多民族国家という状況下で政策が揺れ動いていたが、このジレンマを克服し、両立させていくことの必要性を訴えた。

マレーシアの謎

2005-10-09 | マレーシア
国家記念日の式典で民族融和を強調していたが、マレーシアが多民族国家になった理由が謎だった。図書館で借りた「ラーマンとマハティール(岩波書店)」が興味深い。

1911年時点での人口比率は、マレー人53%、華人34%、インド系10%。独立後最初の内閣はマレー人6、華人3、インド系2で構成された。人口比とほぼ同じ。
(英国人)200年続いた英国の植民地支配。独立後も貿易・金融を握る。
(華人)英国とのアヘン戦争で敗戦した中国からの移民が認められ、スズ採掘の出稼ぎに来て定着し、その勤勉さからマレーシアの商工業を支配する。
(インド系)英国は、アマゾンから持ち込んだゴム苗木でマレーシアを世界一の天然ゴム産出国に変えたが、ゴム農園の労働者として英国植民地から連れてこられた。
植民地と、スズ・ゴムの2大産業により多民族国家は形成された。