8日㈯、午前中は事務所でブログ書きなど。
午後は京都綾部ユニセフ協会(野間由紀会長)の2025年度総会に出席した。
京都綾部ユニセフ協会(設立当時の名称はユニセフ京都綾部友の会)は、設立総会を行っていたまさにその時に、熊谷吉郎初代会長を病気で喪うという悲劇と混乱の中で立ち上がったため、私は急きょ、初代事務局長に就任することになった。
手探りの中で二ヶ月に一度の会議を定例化して組織強化を図ったり、役割分担のための組織再編をしたりしながら、東京の本部とのやり取りもあり、悪戦苦闘したことを思い出す。
府議に初当選する前に事務局長は退任したが、今も常任顧問を務めており、これからも世界の子ども達のための活動に取り組んでいきたいと思っている。
総会後の第二部は綾部中学校吹奏楽部のコンサートが行われた。3年生はすでに引退し、1、2年生だけの編成だが、堂々たる演奏で安定感があり、安心して聴いていられる楽団に成長している。これは全国大会出場のレガシーだと思う。
夕方は事務所で原稿書き。来週は綾部中学校の卒業式があるため、PTA会長として述べる祝辞を推敲している。
夜は福知山市斎場にて、日高英之さんの通夜式に参列した。日高さんは福知山高校、綾部高校で野球部監督を務められたが、当時は私は面識がなかった。
定年退職後にバス運転手の派遣会社に登録し、清山荘に派遣されて来ておられた。その頃、私が副理事長を務めていたNPO法人あやべ福祉フロンティアが清山荘の指定管理者となり、それで日高さんと知り合った。
日高さんは奉仕精神にあふれる積極的な性格で「お金は要らないから、運転の合い間に清山荘の草刈りなどをさせてほしい」と自ら申し出られ、そのうち派遣会社を辞めてフロンティアの職員になってもらうことになった。最後は清山荘のセンター長として、平成20年から26年まで勤務していただいた。「清山荘の日吉丸」のような方だと私は思っていた。
日高さんに清山荘の基礎を築いていただいたし、入館者が過去最高の3万人を超えたのも日高センター長時代だった。
業者とのコストカット交渉の能力も高く、綾部市直営時代に電気の保守管理契約を福知山の企業と130万円で結んでいたのを私が綾部の企業に切り替えて値下げをお願いし、80万円台まで下げたと喜んでいたのをたしか40万円くらいまで下げられ、最終的にはゼロにされた。強気で引かない性格で、フロンティアのためにずいぶん戦っていただいた。
日高センター長時代はちょうど私が落選し、初当選の頃だったので、再挑戦の府議選の際には教え子やその保護者などにもお声がけいただき、力強く応援していただいた。
福知山にお住まいで、フロンティアを辞められた後はお出会いすることがなく、年賀状のやり取り程度しかできていなかったのは残念だった。
今日の通夜式には、大勢の教え子や関係者が参列しておられて、日高さんの優しく面倒見の良い人柄に魅かれた方がたくさんおられたことがよく分かった。
住職が広島県の豊島から来ておられて日高さんの甥っ子に当たられるとおっしゃっていた。日高さんが広島県の離島のお寺の出身だということは初めて知った。
日高さんをセンター長に抜擢した当時の曽根庸行理事長も亡くなられ、フロンティアに日高さんのことを知る理事や職員もほとんどおられなくなったため、今日は私がフロンティアを代表して最後のお別れに行った。病気で痩せておられて往時の面影はなかったが、「ありがとうございました」と手を合わせた。