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24日㈪、明け方、地震があった。揺れた後、地鳴りもあったので、大地震がどこかであったのかと思ったが、綾部市が震源地だったようだ。
石川県と千葉県でも同時刻に地震があったそうで、日本列島が大揺れするのではないかと心配する。
■サイエンスキャンプINあやべ
今年も「サイエンスキャンプINあやべ」(京都府主催)という小中学生に科学の面白さを体験してもらおうという企画が綾部駅北の北部産業創造センターで3月15日㈯で開催されます。
理系人材の育成のため、北部産業創造センターができて以来、京都府商工労働観光部には地道に子どもへの教育啓発活動に取り組んでもらっています。まだチラシに申込先が書かれていませんが、学校等を通じて告知されると思いますので、ぜひご参加ください。
■物部氏の祖神
最近、「ニギハヤヒと『先代旧事本記』物部氏の祖神」(戸矢学著、河出文庫、2020年3月)という本を読んだ。大変興味深く、分かりやすい文章で、著者の戸矢さんの調査力、洞察力に感心した。
先日、2月7日付のblog「今日、人類が初めて、綾部に降りたよ」で約20年前に書いていた文章を掲載したが、その頃は意味もあまりよく理解せずに
「聖徳太子や蘇我氏と争って敗れた物部氏の祖先といわれる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨伝承が『先代旧事本紀』という書物に描かれている」
「日神、月神、星神、その他大勢の神々を従えて、五部および二十五部の天津物部の兵を従え、呪能のある十種の天津瑞宝を携え、天磐船に乗って威風堂々と河内の『哮ヶ峯(いかるがのみね)』に天下った」
と書いていたが、この本を読んで改めていろいろと調べ直してみようと思った。
綾部市は戦後に市町村合併するまでは「何鹿(いかるが)郡」という地名が残っていたが、「何鹿」と書いて「いかるが」と読むというのは、以前からなぜだろう?と考えている。
綾部市の奥上林地区にある君尾山光明寺の国宝「二王門」は聖徳太子の創建と伝えられており、聖徳太子の建てた奈良の「斑鳩(いかるが)宮」と同じ読み方をする。
『先代旧事本記』に出てくる河内(現在の大阪府交野市)の「哮ヶ峯」の「いかるが」(「たけるがみね」とも呼ぶ)は獣が「咆哮」するの「哮」の字を使う。
以前、読んだ本には「厳る宮処」と書いて「いかるが」と読み、「厳粛なる場所」すなわち「都」を指す言葉ではないかと書いてあった。
■江戸時代の何鹿郡
何鹿郡(一部、現在の福知山市の私市と報恩寺を含む)は幕末には7つの藩と10の旗本によって分割統治されていた。
藩 … 綾部藩(九鬼)、山家藩(谷)、園部藩(小出、京都府南丹市)、柏原藩(織田、兵庫県丹波市)、篠山藩(青山、兵庫県丹波篠山市)、半原藩(安部、岡部藩から改称、埼玉県深谷市)、湯長谷藩(内藤、福島県いわき市)
旗本 … 十倉谷(谷蔵人)、梅迫谷(谷鐐蔵)、城下藤懸(藤懸左京)、小山藤懸(藤懸伊織)、赤目坂藤懸(藤懸源之助)、杉浦越前守(相模国高座郡→大住郡)、武田兵庫(武田信玄の異母弟・信実の子孫)、川窪賢三(武田流槍術師範、武田兵庫と同族か?)、柴田七九郎(船井郡・氷上郡・何鹿郡に5500石を領有)、太田善太夫(大坂の陣で活躍し、相模国愛甲など加増)
村ごとに領主が違い、村の中でもさらに細分化されているところもあった。
例えば、今の山家地区では和木町だけは梅迫谷氏の領地で残りは山家藩、豊里地区の位田町は大半が山家藩で柏原藩と十倉谷氏の飛び地がある。
最も分割度の高い「1つの村が4分割されている」ところは私市村(約1105石)と物部村(約2543石)で、私市村は湯長谷藩(166)と杉浦越前守(363)、武田兵庫(176)、川窪賢三(400)の3旗本の領地で、物部村は綾部藩(281)、柏原藩(713)、半原藩(818)と旗本の柴田七九郎(731)となっている。
私市村、物部村規模の石高を1つの村で持っているところは、他には鷹栖村(1055)、高津村(1119)、位田村(1269)、東栗村(1660)、報恩寺村(1338)、中村(1499)※現在の小畑町、上杉村(1278)あたり。
私市には私市円山古墳(京都府最大の円墳)があるし、物部も物部氏の名が付き、室町時代には信州諏訪出身の上原氏が地頭として治め、物部氏にもゆかりのある諏訪神社を祀ったり、領内の川を犀川と名付けたりしている。それだけ栄えていた土地であり、古代からの中心地であったのだと感じる。
この本に触発されて、またいろいろと調べたくなった。