現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

旧「千代田生命本社ビル」

2012-08-29 15:12:26 | 村野藤吾
現在の「目黒区役所」は、元「千代田生命の本社ビル」でした。

それまで、千代田生命の旧本社ビルは京橋にあり、
大正12年の竣工でしたから、老朽化していました。
関東大震災にも太平洋戦争の空襲にも崩れずに
残ったビルで、そうあの「デビ夫人」も中学を卒業して
「給仕=庶務Ⅱ」として働いていた“由緒ある?”
ビルでした。

当時の千代田生命の社長は、海外の保険会社を視察して、
「これからの時代は 本社ビルは 都心にある必要はなく、
郊外の広々とした敷地に建てるのがよい」との判断で、
目黒の住宅街に移転することを決めたのでした。

ここには 戦前からアメリカンスクールがあったのです。
ジュディ・オングもここに通っていたとか。

私の記憶では、昭和30年前後、駒沢通りは、スクール
バスや生徒を送迎する外車でよく渋滞していました。
「スクールバスは追い抜いてはいけない」とのことで、
日本の車はノロノロと後を着いて走っていました。
子供心に「敗戦国の惨めさ」と思っていましたが、
後に、グアムやハワイでも「追い越し禁止」と知り
ました。

さて、その渋滞を解消するために、アメリカン・
スクールは、立川への移転を計画しており、
タイミングよく、その跡地を千代田生命が買った
のです。

そして、その建築設計を「村野藤吾」に依頼したの
でした。「村野藤吾」は、日比谷の「日本生命ビル」
(日生劇場)を完成させ、注目を浴びていました。
それで(千代田も・・・)と「村野先生」にお願いに
あがった後、日生の担当者に挨拶に行ったら、
「大変なことになりますよ」と脅かされたそうです。

そう、当初予算は40億でしたが、最終的に5割増しの
60億に跳ね上がり、担当役員は大蔵省への説明に
四苦八苦したという、実に“大変な”ビルなのです。

目黒区役所へ

2012-08-29 15:12:09 | 虚無僧日記
8/27(月) 目黒税務署で相続税のことを聞き、
ついでに目黒区役所に寄ってみた。私の実家から
徒歩15分ほど。ここは元は 千代田生命の本社ビル
だった。

建築は「村野藤吾」。千代田生命ビルは「外壁を
すべてアルミのルーバーで覆った世界最初の建物」
として、建築史に残る建物なのだ。私が広報部に
勤務していた頃、毎年100人以上の建築家が見学に
来られ、私がその案内役を務めていた。外国からも
みえた。

「千代田生命ビルと村野藤吾」のことなら2時間でも
3時間でも語り尽くせない。

さて、その「村野藤吾」が 精魂傾けたビルだが、
まず正門から入ったスロープが途中で寸断されている
ではないか。玄関エントランスには、あるべきはずの
「グレコの像」が無い!。中はすっかり改造されて
もう涙がチョチョぎれる。

全館を周って、喫茶店で休む。年寄りや子供連れの
若いママさんが休憩している。
そう、村野藤吾は「このビルが 近隣の人々の憩いの
場になってくれれば」と語っていた、その思いが、
目黒区役所になってようやく実現したのだ。

「これでいいのだ。すっかり改装されて、また
新しく生まれ変わって、これで良かったのだ」と
明るい気持ちになって、ビルを後にした。