現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津と長州の友好 その1

2015-08-22 23:10:05 | 会津藩のこと

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』。先年『八重の桜』で会津側から維新を

取り上げたのに対して、バランス上、今度は長州となったものか。

仇同士の会津と長州に、最近雪解けムードが漂ってきたようだ。

両藩の友情を示す話がネットでも飛び交ってきた。

その1

禁門の変で長州藩の残党が西本願寺に逃げ込み、それを追って

会津藩兵が西本願寺に長州藩兵の引渡しを求めた。西本願寺は

これを拒否したため、怒った会津藩兵が西本願寺を焼き払おうとした。

この時、会津から西本願寺に修行にきていた「善順」という僧が間にはいって、

「窮鳥懐に入れば、漁師もこれを殺さず」と会津藩兵を説得し、

長州藩兵を救った。この中に品川弥二郎や山田顕義がいた。

僧「善順」は なかなかの 怪傑僧で、4年後の会津落城後にも、

会津と長州の仲をとりもつ大活躍をしているのだ。


会津と長州の友好 その2

2015-08-22 23:09:18 | 会津藩のこと

禁門の変で長州が京から追い落とされてから4年後の慶応4年
(= 明治元年)、形勢逆転。薩長土肥を中心とする西軍が会津を
攻めた。その時、長州の村田蔵六(改名して大村益次郎)は、
「仙台・米沢など周辺の藩を落とせば会津は降伏するであろう」
と、会津への直接攻撃は避けるよう進言していた。会津を
攻めるよう決めたのは、土佐の板垣退助と薩摩の伊地治正治
である。

一ヶ月の籠城戦の末、会津は降伏し、藩士は猪苗代に監禁された。
その中に漢学者として知られた秋月梯次郎もいた。その秋月に
思いがけなくも、越後口の参謀だった長州藩奥平謙輔から一通の
私信が届けられた。秋月梯次郎は、以前萩に旅行し、萩の藩校
明倫館で、長州藩士を前に漢学の講義を行ったことがあった。
このときの聴講生の一人が奥平だった。その講義に感激したと
いう奥平謙輔は、猪苗代に幽閉されている秋月の心中を慮り、
一書をしたためた。しかし西軍参謀とはいえ、私信を会津藩士に
届ける自由はなかったのであろう。さてどうしたものかと思って
いる矢先、河井善順の名が出た。禁門の変の際に長州兵を救った
僧であるという。

そこで、奥平は善順に手紙を託した。厳しい検問をどうすり抜けた
のか、善順は秋月に面会して奥平謙輔からの一書を手渡した。
この手紙に感動した秋月梯次郎は「奥平に会いたい」と、善順の
下僕に変装して謹慎所を抜け出し、新潟まで逃走するのである。
脱走は、見つかれば即死刑である。無事秋月は新潟で奥平に面談
できた。そして「会津の将来を担う少年の面倒を見てもらいたい」
と頼みこむ。
善順は再び猪苗代に戻り、藩の重役と諮り、山川健次郎と小川享の
2人の少年を従僕として連れ出した。他に2人が別行動で脱出
したが、この2人は捕らえられ斬首されている。山川健次郎が
厳しい検問を潜り抜けて新潟まで脱出できたのは、まこと善順の
大胆剛毅な性格と幸運だったのだ。

そして明治4年、山川健次郎は岩倉使節団に随行して海を渡る
のである。妹の捨松も同船していた。


会津と長州の友好 その3

2015-08-22 23:08:48 | 会津藩のこと

河合善順は、その後も東京に潜伏して、東京に戻っていた。
奥平謙輔に、山川健次郎の兄の山川浩(大蔵)を面会させたり、
長州藩士の前原一誠や大村益次郎と酒席をともにしたりして
親交を深め、窮乏する会津藩士とその家族のために、1,000円
もの救済金を引き出したり、藩主の助命嘆願と会津藩再興の
周旋を依頼したりしている。

前原一誠は松下村塾の「四天王の1人」として知られ、師の
松陰からもその誠実さを愛されていた。会津戦争においては
会津征討越後口参謀として若松入りをし、戦後処理にあたった。
この際、会津藩側の立会いを勤めた山川大蔵と知りあった。

前原は戊辰戦争の功により、維新政府でも木戸孝允に次ぐ
位置にあった。後に初代総理大臣になる伊藤博文など、この
時点では小僧っこだった。

山川大蔵らは、会津藩の再興を前原一誠に嘆願した。そして
明治2年、会津藩の再興が認められる。「会津は戦争に負けて
不毛の下北半島に追いやられた」というのは、実は“小説家の
感傷”ということが最近言われはじめた。たしかに、事実は、
「猪苗代か下北がどちらかを選べ」とされ、下北を選んだのは
広沢や山川ら会津藩の重臣だったのだ。

さて、会津藩としては、そのお礼に前原一誠に会津鶴ヶ城に
あったとされる『泰西王侯騎馬図』の半分を贈っている。
その前原一誠は、やがて木戸孝允と対立して、明治9年萩に
下野して不平士族とともに「萩の乱」を起こし、捕らえられて
処刑された。『泰西王侯騎馬図』はその後どう転々としたのか、
今神戸市立博物館(南蛮美術館)に飾られている。重要文化財。



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