現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

風狂という生き方

2018-03-10 00:40:30 | 一休と虚無僧

ひろさちやの『“風狂”という生き方』が売れている。
(佼成出版社)

徹底して自由人であれ。そのためには「欲望」の虜に
なってはいけない。この世の常識にとらわれず、仏の
生き様にならって有意義に生きよ。

というもの。「風狂」といえば一休だ。一休は「普化
(ふけ)禅師」の生き様を倣った。普化は「瘋癲(ふ
うてん)」と呼ばれた。「フーテンの寅」さんの元祖だ。

「フーテンの寅さん」が人気になるなら、一休、そして
普化=虚無僧の生き様にも理解が得やすいのではと、
あれこれ思いを巡らす。虚無僧ブームの火付け役は
「フーテンの寅さん」か。寅さんのような旅をしている
私である。


普化と一休と寅さん

2018-03-10 00:39:27 | 一休と虚無僧

一休さんて、ほんとに良い子?

 お坊さんなのに、肉や魚を食べたり、
 仏様にお尻を向けてお経をあげたり、
 和尚さんや将軍様をからかったり、
 はては、関の地蔵の開眼供養にしょんべんをひっかけたり。

どうしようもないヤンチャ坊主だ。それが愛される。
寺の権威も失われつつある現代だが、それはもう
江戸時代から始まっていた。
江戸時代の人も、一休に名を借りて、寺の坊さんを
虚仮(コケ)にして溜飲を下げたのだ。


「一休とんち話」に隠された真理。それは瘋癲(フウテン)と

呼ばれた「普化の禅」なのです。

「普化」は、『臨済録』に、臨済の相棒としてでてくる僧です。

奇行が多く、風変わりで、師から「瘋癲(ふうてん)」と呼ばれた。

その「普化」を日本に紹介したのが「一休」でした。

「一休」は、普化を真似て、みずから「風狂」「狂雲子」と称して

やんちゃぶりを発揮したのです。人々はそんな一休さんに

真理を見ます。

虚無僧は、一休を通じて 「普化」を知り、普化を始祖と仰ぐ

集団です。

「瘋癲」といえば「フウテンの寅さん」。「一休」から「寅さん」に

受け継がれて庶民に愛される「風狂の生き方」。それが

現代の虚無僧「一路」のめざすところです。


一休の母の手紙

2018-03-10 00:37:37 | 一休と虚無僧

千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるという噂。

一休の幼名「千菊丸どのへ」となっていて、4歳の時の母の遺言だという。

ところが、千葉県館山市に館山寺など存在しない。原本も所在不明。
後世の創り話だろうが、これを創った人は、実によく一休の
禅をとらえている。

内容は、

 釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを
 説いたといっても、一字も書き残してしはいないのです。
 釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、どこぞの寺の
 住職にならなくとも、俗人のままでも苦しからず。

というもの。

一休は、安国寺を飛び出し、15歳の時、西金寺の謙翁の下に
走った。謙翁は大応の法を継ぐ人であったが、そのような
肩書きを否定し、“乞食行” ひと筋の托鉢僧であった。
その師と仰ぐ謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、
路頭に迷うことになった。絶望からか、20歳の時、瀬田川に
身を投げるのである。その時母の声を聞いて生還する。

一休が自殺を図った時の「母の手紙」とする方が納得いく。

経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちによって
書かれたものだ。釈迦は一字も残していない。ならば「経典を
諳んじたところで、釈迦のように修行をしなければ 糞虫と
同じ」と母は言う。「釈迦や達磨も下僕(しもべ)となすほどの
修行を積んで、人々の苦悩を救える人になれたら、
どこぞの寺の住職なんて肩書きはいらないではないですか。
俗人のままだっていいじゃないですか」というのだ。

虚無僧はこの一休を師と仰いでいる。経典も必要ない。
寺も要らない、肩書きもない、教義もない、すべては
己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままなのだ。一休の母がいう、衆生を救うことが
できたら、どこぞの寺の坊さんなんて肩書きはいらない。
それが虚無僧なのだ。