現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「一休と森女」の真相

2018-03-24 23:12:08 | 一休と虚無僧

さて、森女と交わした「旧約」とは何か、その約束を果たすことが

でき、「森女の深い恩に感謝する」という、その中身。

結論的に云えば、「大徳寺の住持になれたこと」である。

謎解きは、森女の素性。森女こそ、一休を大徳寺の住持に

導いた女性だった。それが一旅芸人のできることではない。

 

森女のことを、一休は詩の中で「上苑」「上郎」「輿に乗る」

「王孫」と詠じている。これまで「王孫の美誉を聴いて相思う」は、

「一休が天皇の子であることを森女が聞いて、慕ってきた」と

解説されてきたが、一休は「王の孫」ではない。「天皇の子」

である。「王の孫」は「森女」のことであり、特定すれば、

後醍醐天皇の王子「義良王」の孫。「義良」は南朝二代、

「後村上天皇」で、住吉神宮を行在所とし、住吉で亡くなって

いる。「森女」は「後村上天皇」と住吉の宮司「津守」氏の

一族の女性の間に生まれた孫。

そして住吉神宮は古来 舞楽が盛んであったから、「森女」は

その楽師の一人として鼓を打ち歌を歌っていた。

「後村上天皇」の王子の一人「説成王」は、山伏の修験道の

本山「聖護院」の開祖となっている。「聖護院」も「住吉宮」も

「杜=森」と呼ばれていた。「森女」とは「森の女」という通称。

 

「森女」の法号は、一休の死後、13回忌、33回忌の「香銭帳」から

「慈柏」と判った。さてさて、実は住吉神宮は、当事は神仏習合で

神宮寺として「慈恩寺」があった。「慈恩寺」ゆかりで「慈柏」である。

 

その「慈恩寺」の開祖は、住吉の宮司「津守」氏の一族で「卓然

(たくねん)」という。「卓然宗立」は、なんと大徳寺の二世住持

だったのである。

住吉神宮は「卓然」以来、大徳寺とは深い関係にあり、大徳寺は

住吉神宮を通じて、明との交易を図り、莫大な利益を得ていた。

堺の町の繁栄は「大徳寺と住吉神宮」によってもたらされていた。

 

その大徳寺が応仁の乱で消失してしまった。大徳寺に冨をもたらした

「一休」の兄弟子「養隻」もすでに亡くなっている。「一休」は兄弟子

「養隻」を毛嫌いし、「禅を金で売っている」と激しく批難していたが、

今や大徳寺を再建できるのは、「養隻」の弟弟子で、先に師の

「華隻」から印可状を下された「一休」しかいない。

 

「森女」は以前、薪村に「一休」を訪ねている。盲目の旅芸人が

戦乱のさなか、一人で薪村に行けるわけがない。近世以降の

越後のゴゼは、何人か集団で移動し、目の見える人がその

先導を務めていた。「森女」も住吉の津守氏に守られて「輿」に

乗っての来訪だったはずである。その目的は何だったのか。

「大徳寺の再建」である。それが[旧約」。その約束を一休は

聞き流して忘れていた。しかし81歳で住吉を訪れた時、

森女に再会し、彼女は忘れていなかった。そして「旧約」を

「新たにした」というのである。

「一休」としては、あれほど毛嫌いしていた大徳寺であるが、

開祖「大燈」の禅を本当に継ぐのは自分しかいないという

自負があった。森女と住吉の津守氏の後押しで、一休は

大徳寺の住持になったのである。

とは云っても、大徳寺は焼失して無いのであるから、名前

だけの住持。晋山式が行われたかは疑問。それで一休は

「入室の偈」と「出室の偈」を『狂雲集』に同時に残している。

それが、普化の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」。

そして「尺八を弄して云う」の一文である。

ここで一休は「普化」と[尺八」を結びつけているのである。

その後、一休は、住吉に滞在し、堺の商人から20億とも云われる

建設資金を集め、6年かけて大徳寺を再建したのである。

「森女」の「深恩」とは、「大徳寺」の再建でもある。

 


「一休と森女」の真相 2

2018-03-24 23:09:39 | 一休と虚無僧

「一休と森女」の真相を探っていて、すごいことに気づきました。

 

一休は自身を弥勒菩薩に例えているというのです。

一休の画像は右足を左膝の上に乗せているので、

「だらしない。一休さんらしい無作法さ」 などと評価されて

いますが、これは「弥勒菩薩の姿」を示しているのです。

 

つまり「一休」には、「我こそは、末法の末に人々を救うという

弥勒菩薩。未来永劫、人々の心の中に住み、衆生を救うのだ」と

いう強い自負心があった。

そしてまた「森女」を「「観音菩薩の化身」に見立てた。

一休の『狂雲集』に載せられた赤裸々な愛の表現は、

実は「森女=観音菩薩と合体して衆生を救う」という

一休の信念を表現したものだったのだ。

「変化球」の人「一休」ならではのトリック。この

トリックを解いた人は未だいない。

 

そして驚いたのは、「キリスト教の影響があるのでは」と

いうこと。弥勒菩薩は薬指と親指を合わせて思考している。

キリストの像にも「薬指と親指」を合わせているものがある。

つまり、キリストは神の子としてこの世に使わされたメシア。

弥勒菩薩も如来から衆生済度を託されて降臨するメシア。

 

つまり、一休の中に「仏の託宣を受けて、観音菩薩と一体と

なって衆生を救う」という “三位一体” の思想があった。

さらに云えば、

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれる前の父ぞ恋しき」の

意味もこれで解けた。「闇の声なき声」「生まれる前の父」とは

「仏=神(西洋のゴッド)」を意味している。

これも偶然か、一休の詩に中に「旧約」と「新」。まさに

「旧約聖書」と「新約聖書」の語が入っているのである。

ジジャジャジヤーン あなたは信じますか?

 


一休と住吉神宮との知られざる関係

2018-03-24 05:54:14 | 一休と虚無僧

大阪の「住吉神宮」と「一休」(1394~1481)とは
深い結びつきがあったことは、意外に知られていない。

『一休和尚行実及年譜』によれば、一休は文明元年
(1469年)75歳の時、京田辺の酬恩庵を出で、住吉に
移り住んだ。翌年、住吉神宮に参詣し、盲目の女性
「森女」に出会う。半年後にまた住吉で「森女」に
再会し、「森女」と同棲する。

文明6年(1474年)、80歳の時、後土御門天皇の
請願により、一休は大徳寺の住持となり、応仁の乱で
焼けた大徳寺の再建にとりかかる。

そして文明10年(1478)、86歳。「森女」を連れて
酬恩庵に戻り、三年後の文明13年(1481)。87歳
(かぞえ88歳)で往生する。

つまり、大徳寺の住持に任ぜられた時、一休は京都には
居なかったことになる。その後も、住吉から堺に出向いては、
堺の豪商「尾和宗臨」らに大徳寺再建の資金を工面して
もらったりしていたのだ。

そして、大徳寺の山門、本堂が完成した文明10年(1478)に
京都に戻っている。


その前に、一休はなぜ「住吉」に移り住んだのか。
この疑問が最近 ようやく解けた。

「住吉神宮」は、後醍醐天皇の皇子「後村上天皇」が、
正平6年(1351)から、正平23年(1368)年、41歳で
亡くなられるまで17年間「南朝の行在所」だった。

一休が生まれる前のことだが、一休の母は「後小松天皇」の
寵愛をうけて一休を身ごもったが、「南朝方の忠臣の娘」と
いうことで宮中を追われた。一休にしてみれば、北朝の
「後小松天皇」の子というより、「南朝」の母方に、より
恋慕の情があったと考えられる。

一休が「住吉神宮」に長く滞在していたことで、一休の
南朝びいきは明白となる。

そして、なんと「住吉神宮」は明治の廃仏毀釈まで「神仏
融合」で、神官の「津守」氏は「住吉寺」の住職も兼ねており、
なんとなんと「大徳寺」の住持にもなっていたのだ。

しかるべき肩書きも印可状も持たない「一休」は
大徳寺の住持になる資格が無かった。そもそも
そのようなものは毛嫌いして、生涯、一托鉢僧として
生きてきた「一休」だったが、80歳を過ぎた最晩年、
大徳寺の開祖「大燈国師」の遺鉢を継ぐものは我一人
との思いを強くする。しかし、その資質はあっても
資格(免許状)が無い。そこで、一休は「住吉神宮」の
神主兼大徳寺住持だった「津守」氏を頼り、その推挙を
得て、「大徳寺の住持」になったのである。

このことに気づくと、「森女」の存在が重要なものと
なってくる。小椋圭氏などは、住吉の境内に棲んでいた
盲目の乞食女のようにとらえているが、とんでもない。

住吉神宮は、古来「舞楽」を継承していた。「森女」は
住吉の神官「津守」氏の娘で、舞楽を務める巫女だった
と考えてよいのではないだろうか。

一休は、「森女」を娶ることで「津守」氏と深い関係を
築き、大徳寺の住持になれたのだ。

「狂雲集」には「大徳寺の住持」就任を前に「森女」
との出会いと赤裸々な愛の詩を書き連ねている。

「狂雲集」を「一休が長い放浪の末に「大徳寺の住持」に
なるまでの壮大な叙事詩と考えれば、「森女」の詩が
単なる一休の色事ではないことは明白である。

ところが、このことはほとんど知られていない。


住吉大社と大徳寺

2018-03-24 05:52:39 | 一休と虚無僧


『狂雲集』には、一休は住吉大社で森に会い、心ひかれて詩を作った。
そして半年後再び住吉を訪れた時、森女に再会し、声をかけると、
森女も「王孫の美誉」を伝え聞いて、一休のことを慕っていた。
それ以来、二人は一緒になった、というのが一般の解説。
さらに水上勉によって、森女は女乞食にされてしまった。

最近、大徳寺真珠庵前住職、山田宗敏師によって「大徳寺と一休」
という本が出、私の疑問がすべて明らかになった。

住吉大社では、古来芸能が盛んで、今でも社殿で歌舞音曲が演じられる。
「住吉の森」ともいわれることから、森女は住吉大社に仕える巫女。
あるいは住吉神宮の神官津守氏の娘だった。
あるいは、聖護院や、天河神社も「森」と呼ばれていることから、
森女も皇族につながる高貴な出であった可能性も否定できないと。

一休は晩年、応仁の乱を避けて、堺、住吉に移住していた。住吉は
かつて後村上天皇の行在所にもなったところで、南朝方との結びつき
も強かった。一休の母は南方の回し者として宮中を追われたのである。

一休は師から大徳寺の法系を継ぐ資格を証明する印可状を受けたが、
それを破り捨てている。カタチにこだわるなら、一休は大徳寺の住持
にはなれない。しかし前例があった。住吉神宮内の神宮寺の開祖卓念は                                    大徳寺の住持になっており、住吉と大徳寺は深い関わりがあったのだ。

一休が大徳寺住持になる伏線として『狂雲集』に森女が登場してくる
というのである。

「一休は放浪の旅芸人を、単に愛欲だけで囲ったのか」という私の
これまでの疑問はこれで解決。


住吉大社と雅楽

2018-03-24 05:51:30 | 一休と虚無僧

インターネットの情報量は、どんどん増え続けていて、
何でも出てきます。

一休さんと関わりの深い 大阪の「住吉大社と雅楽」
についての詳しい論文がありました。

なんと、「住吉大社」では雅楽や舞楽の演奏が行われて
いたようです。神官「津守」氏の中に代々音楽に優れた
家系が存在し、13世紀後半から16世紀にかけて、
住吉大社において、舞楽が盛んに行われていた。

『松葉大記』には、文明4年(1472)12月8日の
新大般若会式の記録があり、この法儀に楽所が関与
していたことが記されている。


そして、住吉神宮は後醍醐天皇の王子で南朝の第2代

「後村上天皇」の行在所であり、崩御の地。南朝と深い

関わりがあった。

また、住吉神宮は神仏習合で、神宮寺の開山「卓然」は

神官津守氏の一族であり、大徳寺の住持も務めていた。

住吉神宮は大徳寺の窓口となって明との交易をしていたこと。

これで、「一休と森女」の謎が解けた。
 


住吉大社もヘブライの神?

2018-03-24 05:50:32 | 一休と虚無僧

日本古来の固有の宗教と思っていた「神社」が
ユダヤ教とほとんど同じとは驚き桃の木山椒の木。

手を洗い口を漱ぐ「手水(ちょうず)」、鳥居、
本殿と拝殿の区別、神官は白装束、賽銭箱、偶像が無い
など、そっくり同じだというのです。

たしかに、伊勢神宮や熱田神宮の社はテントの形です。
イスラエルの「幕屋」という移動式の神殿そのものです。

伊勢神宮の遷宮は、社は移動するもの、建替えられるもの
というイスラエルの「幕屋」につながるのでしょうか。

住吉大社も、かつて遷宮を行っていたそうです。
縦に三つ並んだ国宝の本殿は、オリオン座の三星を
さしているといわれます

「住吉大社」がある「摂津、陶津(せっつ)」の国名は、
エジプトの「スエズ」ではないか。

住吉大社が祀る神は「海人」。つまり海の彼方から渡って
きた渡来人。「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」の
「ツツ」はヘブライ語で「星」を意味し、オリオン座の
三星のことであると。

住吉大社に伝わる古地図「難波の八十嶋」は、大阪の
難波の地形とは全く符合せず、エジプトの地図だという。

そして「住吉大社」は古来「舞楽」も盛んであった。
「住吉大社」には「石舞台」があり、厳島神社、四天王寺とともに、
日本三大石舞台として国宝に指定されている。

神官「津守」氏の中に代々音楽に優れた家系が存在し、
13世紀後半から16世紀にかけて、住吉大社において、
舞楽が盛んに行われていた。

一休が尺八を吹き、森女が鼓を打って「祭文」を歌うのも
「住吉大社」ゆえのことだったのです。