詩吟でよく詠ぜられる詩
「細川頼之(よりゆき)」の『海南行(かいなんこう)』。
「人生五十 功無きを愧(は)ず
花木 春過ぎて 夏已に中ばなり
滿室の蒼蠅(そうよう)掃(はら)えども去り難し
起って禪榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(が)せん」
「細川頼之」は 室町時代の初期の人です。足利
2代将軍「義詮」の後、1369年、義満が10歳で
将軍になると、その補佐役(管領)に任じられます。
そして「義満」が20歳になるまで、幕府の実権を
握っていましたが、1379年 斯波氏他 守護大名の
讒言に遇って罷免され、一時 領国の四国讃岐
(現 香川県)に隠遁します。
この時詠んだのが『海南行』の詩です。
「蒼蠅(そうよう)=「青パエ」とは、自分を陥れた
連中のことを差しています。
細川頼之は四国に隠棲して12年後の 1391年、
今度は斯波氏が失脚して、義満の命で幕政に
復帰します。しかし その翌年 1392年 病に倒れ、
3月に死去。享年64歳でした。
この年の10月に「南北朝合一」が成り、1394年の
1月1日に「一休」が生まれるのです。
足利3代将軍「義満」の補佐役だった「細川頼之」の
おかげで、「一休」が生まれたと 私は考えています。
1369年、「細川頼之」が 将軍「義満」の補佐役
として実権を握った年に、「楠木正勝」の弟「正儀
(まさのり)」が北朝に降ります。将軍「義満」は
まだ10歳でしたから、「楠木正儀」を迎え入れたのは
「細川頼之」の一存だったことでしょう。
「正儀」は 和泉・河内の守護に任ぜられますが、
1379年、細川頼之の失脚によって、北朝には居ずらく
なり、再び南朝に戻り、その後の足取りは不明です。
それから12年後、細川頼之は 赦免されて 京都に戻り、
幕政に参画しますが、翌1392年に亡くなります。
そして この年の10月、南朝の「後亀山天皇」が
北朝の「後小松天皇」に 「三種の神器」を渡して
「南北朝の合一」が成ります。
さて、その1年半後に「一休」が誕生します。
「一休の母は 後小松天皇の寵愛を受けていたが、
“南朝の臣の娘”であったため、宮中を追われて
田舎で一休(千菊丸)を産んだ」と言われています。
「南朝の臣の娘でありながら、後小松天皇の女御と
なった」。しかし「南朝方であるために追放された」と
いうのは不思議な話です。そこで該当するのが
「楠木正儀」です。「正儀」なら、北朝に降り、
河内・和泉の守護に任ぜられたのですから、その
孫娘あたりを宮中に入れることはできたはずです。
ところが、「南北朝合一」が成った後、南朝方の
楠木の残党が、「将軍義満」に騙されたと知って、
再度 大和で蜂起します。この事件によって、一休の
母も南朝方「楠木」の血を引きますので、天皇の
命を狙っていると讒言され追放されたと私は考えて
います。
昭和30年頃発見された『橘氏楠木家系図』に、
「楠木正儀の子正澄は現在の門真市に土着し、その
娘が入内して、後小松天皇の寵を受け、一休を産む」と
書かれていたのです。