現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

NHK朝ドラ「エール」 応援歌の早慶戦

2020-05-20 08:26:32 | テレビ・映画・芸能人

久々にNHK 朝ドラが面白い。視聴率も20%を超え好調とか。

古関祐二は福島の出身。私と同郷。それだけに私も関心がある。

そして今、早稲田の応援歌「紺碧の空」の作曲に苦慮しているところ。

ドラマでいろいろ脚色されているようだが、実際のところどうなのか。Wikipediaで調べてみた。

なるほど、昭和4年(1929)コロンビアに入社して、最初に公表された曲が、昭和6年(1931)の早稲田大学応援歌「紺碧の空」作詞:住治男)。それまで鳴かず飛ばずだったか。

ついでに、戦後の昭和21年(1946)に 慶応の応援歌「我ぞ覇者」(作詞:藤浦洸)を作曲している。

ついでに、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、中日ドラゴンズの初代球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」も作曲している。敵味方なしか。

当時の早慶戦は、昭和2年、3年と慶応が全勝。4年の3勝3敗をはさんで、5年も慶応が春秋4連勝という一方的な勝ちだった。慶応の応援歌「若き血」は、昭和2年堀内敬三によって作詞作曲され、一世を風靡していた。

その「若き血」も、それまで早稲田に後れをとっていた慶応野球部が、早稲田の応援歌 (実は「紺碧の空」は第6作目の応援歌)に対抗すべく、アメリカから帰朝したばかりの新進気鋭の音楽家堀内敬三に作詞作曲を依頼し、当時慶応の普通部の学生だった藤山一郎が歌唱指導して発表された。

そして昭和2年(1927)秋季リーグ戦で、慶応は1点獲得するごとに「若き血」を熱唱し、早稲田に連勝したのである。

 

この「若き血」に早稲田はただ圧倒されるばかり。沈滞した空気を一転させるような応援歌が必要と、古関裕而氏に白羽の矢がたてられた。古関祐二はこの時21歳。今朝の朝ドラでは、作曲が思うように進まず、危ういようだが、結果は、

昭和6年春、早慶戦で披露された「紺碧の空」は、野球部と応援席を一気に奮い立たせ、早稲田を勝利に導いた。この評判は一躍全国に広まり、古関裕而氏の出世作となった。

とは知らなかった。だから朝ドラ「エール」が面白い。「エール」というタイトルは、古関祐二の代表作が早稲田の応援歌(エール)だったからかと知る。

応援歌が野球部のパワーを何倍にもアップさせたとはすごい。作曲家名利につきる話でははないか。

 

 


NHK朝ドラ「エール」 早慶戦

2020-05-20 08:19:20 | テレビ・映画・芸能人

早慶戦の始まりは、なんと明治36年(1903)とのこと。福沢諭吉も大隈重信も存命の頃。

慶應の三田綱町球場にて行われた。

(ついでながら、この綱町から慶応中等部までの敷地は、江戸時代会津藩の下屋敷があったところ。私の先祖はここで生まれている。そして私は中等部に通っていた。なつかしい)

早稲田が慶應に「挑戦状」を送り、慶応が応じて行われた。

試合は11-9で慶應の勝ち。当時早稲田は野球部発足からまだ1年余り。対する慶應は発足から20年近い歴史を持っていた。

しかし発足一年余りの早稲田が9点獲得と大いに善戦したことは大いに評価された。

翌1904年、当時学生野球王者と謳われた一高野球部に早慶両校が連日にわたり勝利し、早慶戦は学生野球の頂点として衆目を集めた。

それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906年秋、第1戦で勝利した慶應の学生が大隈重信邸や早稲田正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生もが福澤諭吉邸や慶應正門に大挙して押しかけ万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発の険悪な状況となった。事態の悪化を危惧した両校当局は第3戦を中止し、以後早慶戦は長い空白期間に入る。

野球だけでなく、全競技で慶応と早稲田は絶縁状を突き付ける事態に。

早慶戦が復活するのは19年後の1925年(大正14)。明治、立教、法政の3大リーグ戦に東大が加わり、慶応、早稲田に呼びかけて「東京六大学野球連盟」が創設された時のことだった。

復活した早慶第1回戦(1925年10月19日)の試合前、早稲田の部長安部磯雄がグラウンドに立ち、早慶戦復活が野球の発展にいかなる意義をもつかを、応援におけるマナーの遵守を求める請願とともに満場に訴えたとのこと。