千代田生命は、福沢諭吉門下で慶応義塾の塾頭を務めた門野幾之進によって、明治37年(1904年4月)に相互組織の会社として設立された。相互会社としては第一生命に次いで二番目である。
創業者である門野幾之進は安政3年(1856年)鳥羽藩家老の家に生まれ、14歳で慶應義塾に入塾し福沢諭吉に師事。入塾2年後には16歳で教鞭をとり、以来31年にわたり多くの人材を世に送り出した。その後、参加していた交詢社で、師と仰いでいた福沢諭吉が紹介した“人の生涯を請け負う仕事”というものに興味をひかれ、これこそ世の中に有益な事業であると考え、千代田生命保険相互会社を創立し実業家としても活躍した。他にも共同保険、海上海運保険、豊国銀行の経営に携わり、貴族院議員としても活躍し、郷土(三重県鳥羽市)の教育振興に尽くした。鳥羽駅の近くにあった生家は「門野幾之進の記念館」になっている。
明治37年は日露戦争が勃発した年である。政府は膨大な戦費の調達に、長期資金となる生保の資金を求めたという社会情勢もあって、この前後、雨後の筍の如く生命保険会社が設立された。
門野幾之進は、全国に散らばる慶応のOBを訪ね、代理店引き受けを依頼した。慶応のOBとなれば、地方の資産家、名士である。千代田はたちまちにして、先発の第一生命を抜いて、日生に迫る契約高を挙げた。
私の従姉の嫁ぎ先で会津若松の市長も務めた白木屋漆器店の高瀬喜左衛門も、千代田の代理店であり、社員総代だった。
千代田は、戦前は五大生命保険会社(明治生命、帝国生命、日本生命、第一生命、千代田生命)の一角を占めた。一時的に新契約高で日生を抜いて、一位になったこともあったが、戦後は、戦争未亡人を大量に雇い入れて外交員による販売を目指した日生、住友他各社に差をつけられていった。
戦後は、地方の代理店も親子世代交代で、その活動は低下していった。
それでも、千代田は、1948年(昭和23年)には業界初の「団体定期保険」、1950年には「団体年金保険」、1961年にも業界初の「団体信用生命保険」を発売。業界の先駆的役割を担い、生保大手8社の一角を占めた。1973年に海外3大保険グループと業務提携し国際化を目指す一方、1975年後半には事業の拡大を推進し、住宅ローンや増改築ローンの新商品を加えた。
千代田火災海上保険・東海銀行・トーメン等とさつき会のメンバーであったほか、親密先企業(融資関係)として三越・あさひ銀行・フジタ等があった。直接の財閥色は無かったが、千代田火災との関係から大倉財閥に近かったとされる。
折からのバブル経済のもと、不動産関連や株式投資への融資を積極的に進め業容は拡大。ピーク時の1992年(平成4年)3月期は年間収入1兆4991億円をあげるとともに総保有契約高60兆円を突破。しかしバブル期の積極経営が災いし、バブル崩壊後は不動産向け融資の不良債権化や株式担保融資の担保割れなどが発生し、不良債権額が毎期ごと増大、特に「ホテルニュージャパン」の火災では融資先の一社として有名になった。一方、景気低迷と低金利政策の下で予定利率を運用利回りが下回る「逆ザヤ」現象が続き、株価下落等による信用不安が増大した。
1999年(平成11年)には経営革新計画を作成、早期退職制度を中心に人員の合理化や、事業所の統廃合を行っていた。
私は平成10年の4月に、第一回目の希望退職者募集に呼応して退職した。丁度50歳。
その後も、契約者の解約は続き、メーンバンクの東海銀行に1000億円の資本支援を要請するとともにドイツの大手生保・アリアンツへ経営参加を中心とした経営支援を要請していたが、数回におよぶ交渉も前進を見ず自主再建を断念し、2000年10月8日に更生特例法の適用を申請し経営破綻(従業員1万3013名)。生命保険会社としては金融機関等の更生手続の特例等に関する法律(金融版会社更生法)申立の第1号。負債は保険契約に基づく準備金が約2兆6413億円、同準備金以外の債務が約2953億円の合計約2兆9366億円。
創業者を始め慶應義塾出身者が多く、三越、カネボウと共に「慶應閥」で著名であった。歴代社長も、破綻時の最後の社長となった米山令士も慶應の出身であった。
本社ビルは村野藤吾設計により東京都目黒区中目黒のアメリカンスクール跡地に1966年に建てられた。経営破綻後は目黒区に売却され、現在は内装等を大きく改装し、目黒区役所(目黒区総合庁舎)となっている。
当社を承継したAIGスター生命の本社は、当初晴海トリトンスクエアに置かれたが、2007年にAIGエジソン生命と共に墨田区のオリナスタワーへ移転。その後、2012年1月にエジソン生命と共にジブラルタ生命保険へ吸収合併され法人格が消滅した。