現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚無僧から大名になった水野勝成

2020-12-23 23:32:08 | 虚無僧日記

福山藩初代藩主水野勝成(1564-1651)。

福山城主となってからは名君として知られるが、その半生は破天荒なメチャぶりでした。

初陣は15歳で天正7(1579) 年 遠江の高天神城攻め。翌年の第二次高天神城攻めで16歳にして15もの首級を挙げ信長から感状を与えられた。その後も信長、家康の下で小牧長久手の戦いまで、幾度かの合戦に参加し一番槍の手柄を立てる。

しかし自分の悪行を父に告げ口した家臣を斬ったことで、父から勘当され出奔。京都に出て、無頼の徒と交わり、喧嘩沙汰を起こしては何人もの人を斬っている。

その後、九州に行き、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正、立花宗茂などの大名に仕えるが、先々でいざこざを起こしたり、ブチ切れて出奔している。

浪人している時は「虚無僧」となって移動したという。戦国のフリーランスだ。

15年の放浪の末、1600年の関ヶ原の合戦の前年、家康のとりなしで父忠重と和睦。しかしその直後、父忠重が加賀井重望に殺されたことで、家督を継ぐことに。

その後、関ヶ原の戦い、大阪の陣で活躍、島原の乱と、生涯 戦場を駆け抜け「鬼日向」と評された。

1619年55歳の時、福島正則の改易にともない、福山十万石の初代藩主となる。

福山では、瀬戸内海に近くに新たに大規模な城を建て、上下水道を整備して城下町を整備し、移住する人に土地を無償で与えて地租を免除した。前任の福島正則は城を改築して改易となったが、福山藩には幕府のお咎めはなかった。(福浜正則は豊臣秀吉方の外様、水野勝成は家康の従弟ですから)。そして海運、鉱山開発、イグサやタバコなどの産業開発に務め、福島正則によって破壊された寺社の復興など善政を行い名君と慕われた。水野時代は一度も農民の一揆が起きなかった。

家臣に対しては、目付などの監視役を置かず、法度や細かい規則もなく、届けを出せばどこへ旅に出ようと自由といった処遇で、家中に争いも無く、皆忠勤に励んだ。

水野勝成の名言

すべての士に、身分の貴い、賤しいはない。主君となり、従者となって、互いに頼み合ってこそ、世は立つ習いである。
だから、大事の時は身を捨てて忠義をなすのだ。汝らは我をば親と思われよ。我は汝らを子と思わん。

これは、若い時、虚無僧で放浪した時の苦労から得たものだという。がしかし、福山領内では虚無僧の往来は禁止された。これは虚無僧の所業がいかなるものか知っていたからでしょう。

ところで現在、虚無僧の天蓋は、福山の井草製が最良です。これも水野勝成が虚無僧体験者だったという縁でしょうか。

水野勝成

生没年:1564-1651
父:三河刈谷藩初代藩主 水野忠重
幼名:国松、藤十郎
通称:六左衛門、鬼日向
別名:忠則
1600-1615 三河刈谷藩二代藩主
1601 従五位下
1601 日向守
1615-1619 大和郡山藩
1619-1639 備後福山藩初代藩主
1626 従四位下
1919 贈従三位