現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

福沢諭吉は「侵略主義者か?」に答える。

2022-08-14 12:58:47 | 虚無僧日記

日韓友好団体の会合で、日本と韓国の歴史をまとめたDVDを見せられた。

その中で、日本が韓国を侵略、植民地化したこと。「福沢諭吉もそれに同調していた」

とあった。これには一言申し上げたい。

 

福沢諭吉は、明治18年(1885)『脱亜論』を書いて、清や朝鮮を見限ろうと考えた。


「…筆者からこの二国[清・朝鮮]をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、

とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない」

 

福沢諭吉は決してアジアを蔑視してこの文章を記したのではない。福沢は壬午事変の後、朝鮮独立を目指す金玉均らに対し、惜しみなく指導をし、援助を与えてきたのであるが、再三裏切られた。慶応に入学させ、自宅に宿泊させていた留学生に金庫の金を持ち逃げされたり、全く恩を仇で返す朝鮮人の道徳心の無さ、民度の低さに福沢はあきれたのだ。もうこの2つの国は見放すしかない。このままでは、欧米から、日本も中国や韓国と同じ、民度の低い国とあなどられ、わが国まで欧米の侵略を受ける怖れがある。「日本は中国や韓国とは違う」ということを世界に知らしむるべし。

それが「脱アジア論」の主旨なのである。

 

福沢諭吉の思想の根幹は、「人も国家も 独立自尊」。独立の気概無き国は滅びる。当時の朝鮮は、中国の属国であり、朝鮮王朝は 法治国家としての体面も気概も無く、派閥争いに終始して、中国に就くか、ロシアに就くかの内紛状態にあった。

「閔妃」は朝鮮王朝の「高宗」の妃。「高宗」の父「大院君」と激しく対立し、ロシアの援助を得てクーデターを画策していた。ロシアはこの機に乗じて、朝鮮半島を植民地にしようとしていた。日本としては、ロシアの浸出はなんとしても防ぎたい。だが、朝鮮王朝は、そのような大局的な見方ができず、派閥争いに終始していた「内政外交にも疎い、そんな王朝なら、滅びた方が、朝鮮の民にとっては幸せである」と、福沢諭吉は言いきったのである。

 

 

 


日露戦争の勝利が太平洋戦争の敗戦を招いた

2022-08-14 04:09:05 | 太平洋戦争

以前中日新聞に連載されていた「天佑なり」は 高橋是清が主人公。
これまで「日露戦争」も、戦略、戦術のみで語られてきたが、その裏で、戦費調達のために、高橋是清が外債のとりつけなど、いかに努力してきたかを知る上で興味深かった。

高橋是清 - Wikipedia

「日露戦争」は 国家予算の7倍もの戦費を要した。信じられないほどの額だった。日本がロシアに勝利したのは、ロシアのバルチック艦隊より優秀な、当時最新鋭の艦船や大砲を調達していたからだった。

そのためには、外国での公債発行などでの資金調達が必要だった。そうした経済面での話は今まで あまり論じられてこなかった。

そういえば、私が勤務していた千代田生命は明治37年、日露戦争開戦の年に創業された。当時、相前後して数十社もの保険会社が設立されたが、これも日露戦争の戦費調達の為だった。生命保険の契約は 30年という長期のため、契約者が預けた保険料は、国に貸付けられていたのだ。


さて、国家予算の7倍を投じてまで ロシアと戦わねばならなかった理由は、「ロシアの南下、満州や朝鮮半島の植民地化を防ぐためだった。

日露戦争が無かったら、朝鮮半島はロシアの植民地となっていた。もし日露戦争で日本がロシアに負けていたら、朝鮮半島どころか、日本もロシアの属国になりかねなかった。

それだけはなんとしても食い止めたいという明治人の決死の覚悟が勝利を呼んだ。
この点では朝鮮半島の人々は日本に 感謝すべきである。

しかし「太平洋戦争の敗因は、日露戦争で勝利したこと」といわれるように、日本は日露戦争の勝利に酔いしれて、そこから一歩も向上しなかった。

日本は日露戦争のままの軍装備でアメリカと戦ったのだ。日本兵が “天皇陛下から拝領した”銃は 明治38年の「三八銃」。その使い道は二百三高地突撃の時と同じく、銃剣を付けて“槍”としての機能しかなかったのだ。

真珠湾攻撃で、アメリカは「戦艦より航空機」と気付いたのに、日本は日露戦争のままの「軍艦」にウェイトを置いたままだった。

マッカーサーも言う。「日露戦争の時の日本軍の参謀は優秀だったが、東京裁判で目にした日本軍の幹部は みな小者だった」と。

アホな参謀の指揮の下 三百万人が命を落とした。その6割は戦って死んだのではない。餓死だったというから、あきれる話である。日本国民も軍部の愚かさに怒って当然。

“兵士として参加した日本人1000万人(日本男子の1/4)”
“戦死者200万人” 5人に一人が戦死。その大半は餓死
“一般国民の死者100万人” 
“合計300万人。
 5所帯に1人の割合で肉親を失う”
“家を焼かれ財産を失った者1500万人”

日中戦争 - 太平洋戦争下の中国戦線 - Weblio辞書写真で見る太平洋戦争の歴史。飢餓地獄で死んだ旧日本軍兵士。アメリカ ...

 

広島、長崎の原爆も、軍の参謀本部は情報をキャッチしながら、市民に退避を告げなかったのだから、国民は軍に見殺しにされたのだ。
沖縄の島民もしかり。日本軍に殺された。終戦記念日に放映されたNHKスペシャル『戦場の軍法会議』は、逃亡の容疑で軍によって処刑された兵隊の話。まったく見るのも辛い。まさに“敵は本能寺にあり”、真の敵は味方のはずの日本軍だった。

そしてアホな軍部の下に 一千万人以上ものアジアの同朋が命を奪われた。

福沢諭吉も云っている。「個人としては優秀でも、組織人となると愚者になる」と。日本軍はもうグシャグシャだった。

終戦の日を控え、太平洋戦争の映画20本(その2) - アスカ・スタジオ


秘書官が見た「日本のいちばん長い日」昭和20年8月14日

2022-08-14 04:01:45 | 太平洋戦争
『日本のいちばん長い日』映画にもなった。
日本のいちばん長いシン・ゴジラ - ニコニコ動画
 
 
私の叔父、牧原源一郎は、運輸大臣「小日山直登」の秘書官だったので、
小日山直登氏を偲ぶ』という本を出して、当時のことを書き残しています。
 
 牧原源一郎                   小日山直登 運輸通信大臣
 
 
 
8月14日は 午前10時から閣議が開かれる予定なので、各大臣は総理官邸に集まっていた。そこへ、「全員 即刻参内せよ。平服でも苦しからず」と。豊田軍需大臣、太田文部大臣は開襟シャツだったので、いくらなんでも、陛下の午前にこのままで出ることはできない。君のを貸せ」というので、私は早速脱いで、ワイシャツとネクタイを差し上げた。両大臣はそれを着けて参内された。
 
そのため、私は一足遅れて宮内省裏玄関に駈け付け、そこで待機していた。しばらくして、皇族方を始め重臣閣僚が大勢戻って来られた。皆、真っ赤な顔に涙が光っていた。実にこの時、ご聖断が下り、陛下のお諭しがあったである。
 
(中略)
 
夜になって、そのことが過激派青年将校の側に洩れたので大変なことになった。
腰抜け重臣閣僚を屠れ。神州不滅、最後の一兵まで戦え」というようなビラを
撒き、決起した。私はなんとしても大臣を護らねばと、白鞘の短刀を握りしめ、
「もしもの時は、私がこれを振り回して防ぎますので、その隙に逃げてください」と大真面目でいうと、小日山大臣は笑って、「そんなもので防げると思うのか」と、泰然としておられた。
 
 
「総理官邸が暴徒に襲われた」と一報がはいり、大臣は早速官邸に車で駈け付けた。下村情報局総裁が、坂下門で拉致され行くへ知れず。
近衛師団長が射殺されたとか、阿南陸相が割腹自殺されたとか、情報が乱れ飛んで、どれが正規軍の報道か反乱軍の報道かわからない。陛下の録音盤は一体どうなっているのか、それさえわからない始末だった。
 
15日の朝、小日山大臣は 阿南大将自決の場へ駈け付けて、大将の死を悼まれた。昨夜、総理官邸での閣議を終えてから、阿南大将は血走った顔をして、幅広の軍刀をガチャつかせて、総理の室に入っていかれるあの姿を私はこの目で見ているのである。定めて、総理に最後のお別れの挨拶であったと思われる。息が絶えたのは恐らく明け方のことであったろうと思われる。実に立派な武人であったと感に堪えない。
その後も、阿南大将と親しかった小日山大臣は二回も私宅を訪ねてご遺族を慰めておられた。
「阿南大将は死んで陸軍を収めた。米内大将は長らえて海軍を収めた」と述べられている。
この日の正午までは、実に長い一日であると思われた。
 
(以下略)
 
まさに、映画の『日本のいちばん長い日』そのまま、
 
こんな記述も
 
「小日山大臣は会津武士だから、敗戦の責任を負って 腹を切らないとも限らんから、君はよく注意していてくれ」と心配してくれる人もあったが、そのことを話すと、大臣は「俺はそんなことはしないよ」と。
 
それ以前、10日の記述では、「小日山大臣は会津人なので徹底抗戦派かと思われていたが、私には『戦争ができなくなって降伏するのに、条件つけて何になるか』と言っておられたところを見ると、鈴木総理と同じく、この機を逃さず 終戦に持ち込む決意であったと思われる。
 
 
日本のいちばん長い日」原田眞人監督が監修した緊張感溢れるポスター ...
 

運輸秘書官の見た終戦秘話

2022-08-14 04:01:19 | わが家のこと

8月15日終戦記念日。毎年アップさせていただいております。再掲です。

私の伯父牧原源一郎は、終戦時国会議員で小日山直登運輸大臣秘書官だった。小日山直登氏は、戦局不利となった昭和20年5月、東条英機の後を受けて組閣された鈴木貫太郎内閣で、満鉄総裁から運輸大臣に登用された。小日山氏は会津出身で、大臣就任とともに、同郷の代議士牧原源一郎を秘書官としたのである。その牧原源一郎が『小日山直登を偲ぶ』という本を遺している。それによると、

「小日山運輸大臣は、秘書官(牧原源一郎)を伴って、九州各県の慰問のため、7/18 東京を発ち、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と1週間かけて巡回。帰途、広島に立ち寄った。西部司令官の畑俊六元帥、広島県知事の高野源進氏もともに同郷人(会津出身)であったから、その夜、会食を共にした。この晩も多数の敵機が上空を飛んでいたが、一発の焼夷弾も落とさない。市民は「広島には
爆撃は無し」と考えていたようにも見受けられた。ところが、その日から10日たった8月6日には、原子爆弾を投下され、高野知事の夫人も死亡された。畑元帥と高野知事は幸いに難を免れた。

翌日は、大阪で当時大阪鉄道局長をされていた佐藤栄作氏(後の総理大臣)が出迎えてくれ、この日は、佐藤局長の案内で京都に遊んだ。その夜、東海道大垣付近でB29の大空襲に遭遇した。そんなことがあったため、予定は随分遅れて、29日に漸く東京に帰ることができた」と記されている。

東条英機にも用賀の自宅を訪ね面会している。東条は「もう自分でも、どうしたらよいか分らない」と弱気だったとのこと。

Wikipedia などで「小日山直登は8月6日の2日前に広島に行き、あやうく被ばくを免れた」と書かれているが、私の伯父の日記では7月の28日。「その日は満月だった」という記述からも7月28日は間違いない。


父の終戦

2022-08-14 04:00:48 | わが家のこと

 

私の父「牧原五郎」は、昭和16年春、慶応大学を卒業して東京電力に入社。 

勤務わずか4ヶ月で徴兵。8月に故郷の会津若松65連隊に入隊し、12月に支那へ。

満州の新京で士官候補生として経理学校に通い、主計少尉として、中支、南支までひたすら行軍。「徐州 徐州と 軍馬は なびく~」の歌の通り。

 

父は「主計少尉」だったので、食料や衣類の手配が職務だから直接戦闘に加わることはなかったようだが、何回か敵の襲撃を受けて、死に目に遭っている。多くの部下、戦友を失ったが、自分は、一人も人を殺すことはなかった。そのおかげで、無事 帰還できたのでは」という。

記録によれば、昭和19年から終戦までで 2,000人が亡くなっている。しかし、その内戦死は630人で、他は戦病死。つまり、コレラやマラリア、そして餓死。なんということだ。

「毎日コレラで何十人も死んでいく。その戦友の遺体を埋葬した人が翌日にはコレラにかかり一週間後には死んでいく」と、すさまじい。父もマラリアで一週間高熱にうなされた。薬も治療法も無い戦場。それでも回復した。その強靭な生命力には驚く。まさに、敵は身内にあり。現在のコロナどころではない。

昭和21年の5月に引き揚げてくるまで、4年半、戦争という未曾有の世界の中で 戦ってきた。

その思いを東電を定年退職してから 『従軍記』 としてノート2冊に書き残していた。 

「終戦」の項は

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新寧を出てから数日後、昨日までは日に何度となくブンブン襲ってきていた敵機が、今日は朝から全然姿を見せない。「おかしいなァ。変だァ」と思った。

そのうち「広島に 今までにない ものすごい爆弾が落とされたそうだ」「日本は降伏したらしい」との口コミが流れてきた。噂は通信隊から出たようだった。

半信半疑でいたら「将校集合!」の指令があり、大隊長のもとに全員集まった。大隊長から 「只今、軍旗を奉焼し奉れ」との命令があったと発表された。

これで降伏は決定的。噂は本当だったと思った。涙がとめどなく流れ、田んぼの中に入って泣いた。ショックが収まると、今度は、「遺骨になってでなければ帰れないと思っていた内地に、これで生きて還れる」と、うれしさがこみ上げてきた。

しかし、一つの不安が沸いた。徹底抗戦に凝り固まっている連中が「我々は降伏を認めない。最後まで戦いを続けようと言い出しはしまいか、と心配になった。

それは杞憂だった。皆 案外素直だった。

それからは、我々は全く意気消沈。敗軍の将兵はただ黙々と武漢まで歩き続けた。

漸く武昌に到達し宿営していた時、「貴部隊は 湘桂作戦の時、多数の良民を連行して行ったが、その者たちをその後どうしたか報告せよ」と、支那軍から言ってきた。あわや「戦犯」かと思った。

たしかに、物資の輸送のための要員として、多数の良民を連行した。然し、彼らは途中でポロポロ逃亡した。後まで残っていた者も「湖南省から先は絶対に行きたくない」と言うので、衝陽攻略戦が終わった頃、皆解散した。もちろん、それまでの賃金は払ってやった。

その旨、回答したら、その後  支那軍からは何も言ってこなかった。

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この後、九江近くの部落で 10ヶ月もの間、抑留生活にはいる

当初は村人たちも穏やかで、食料調達に協力してくれたりしていたが、やがて、新四軍(共産軍)が入り込んできて、日本兵がさらわれたり、掠奪しに襲撃してくるようになった。軍刀、拳銃は所持していたが、抵抗することはできず、敗戦の悲哀をしみじみ感じた。

昭和21年5月20日、やっと「乗船命令」が出て、九江から揚子江をくだり、南京に上陸。そこから貨車に詰め込まれて、上海へ。途中、関門があって、貢物を要求され、また列車が停車するたびに支那人が掠奪しに襲ってきた。

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その後、上海から引き揚げ船で 日本に帰還。 満州でソ連に抑留された人たちからみれば、比較的順当な帰還だった。

しかし、その最後に、佐世保湾で船が座礁し転覆。海に投げ出される。

「日本まで、無事帰ってきたのに、ここで死ぬのか」と。

その時、アメリカ兵のボートに助けられ、「つい先日まで、憎きアメ公 と思っていたアメリカ兵に助けられるとは」と

感慨を述べて父の『従軍記』は終わっています。

 


福沢諭吉が“国賊”呼ばわりされた?

2022-08-14 03:58:26 | 太平洋戦争

私の父は昭和16年3月に慶応大学を卒業し、8月に故郷の会津若松第65連隊に入隊した。田舎のこと、学士上がりの一兵卒は、上官からにらまれた。

父の『従軍記』の中に、上官に呼び出され、「貴様は慶応か。福沢諭吉は国賊だ。許せん」との理由で、往復ピンタどころか、顔が腫れあがるまで、さんざんに殴られた」という記述がある。

「福沢諭吉・国賊」で検索して、一件だけみつけた。
2009年の「福沢諭吉展」に関連するサイトです。
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福澤が「国賊」と言われた時代がありました。昭和戦前・戦中の時期です。慶應義塾は「国賊福澤諭吉」の創立した「自由主義者の巣窟」といわれた。自粛自粛、統制統制という波の中で、自由主義などというのは禁句という空気が満ちていました。

そのことと関連して、特攻隊で亡くなった上原良司という慶應の学生が書き残した「所感」と題する手記を展示しています。

上原良司の「所感」と題する手記は、上原が特攻隊員として鹿児島県の知覧から出撃する前夜に書かれたもので、
新版・きけわだつみのこえ』(岩波文庫)の巻頭を飾っていることで有名です。
 
この文章の中では「自由」あるいは「自由主義」という言葉がたびたび記されています。最後の一節「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」という部分は、涙を禁じ得ない。信ずるところを臆せず述べる。悲しいながらも凛とした態度には感服させられます。


福沢諭吉の「脱亜論」は今日でも通じる

2022-08-14 03:58:05 | 社会問題

戦時中は“国賊”といわれた福沢諭吉先生。
戦後は一転して、「朝鮮、台湾の植民地化を是認した侵略主義者だった」と、批判されるようになった。


批判された論文は、福沢諭吉の『脱亜論(だつあろん)』

これは、1885年(明治18年)『時事新報』に掲載された「社説」で、「無署名」だったが「福沢諭吉」の寄稿とされ、近年になって福澤諭吉は 朝鮮と中国を蔑視し、侵略、植民地化を肯定した人種差別主義者であった」というような批判の声が出てきた。

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<福沢諭吉『脱亜論』の要旨> 

日本の不幸は中国と朝鮮半島だ。

西欧諸外国から見れば、日本も中国・朝鮮と同列に見られる。
しかし、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本とは大きな隔たりがある。中国・朝鮮の精神は千年前と違わない

中国も朝鮮も、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、道徳的な退廃をもたらしており、国際的な紛争でも 「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない
(中略)
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。 「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に 与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。

日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。 ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。

この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい

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たしかに、これだけを読めば、福沢諭吉は、中国・朝鮮を「悪友」呼ばわりしている。だが、福沢諭吉がこの結論に達するまでには、いろいろ手痛いしっぺ返しを受けているのだ。

福沢諭吉は、中国、朝鮮の近代化、独立を願って、両国からの留学生を受け入れ、私財を投じて、朝鮮で初めてのハングル交じりの新聞「漢城旬報」を創刊したり、さまざまな支援を行ってきた。

しかし、朝鮮の留学生に塾の金を持ち逃げされたり、応援した政治家が 義捐金を女に使い込んでフヌケになったり、また、改革を唱えた者が捕らえられ、残酷な方法で処刑されるに及んで、福沢諭吉は 大いに失望したのである

尖閣列島や竹島、慰安婦問題をめぐって、韓国や中国とは友好的になれない情況を見るとき、福沢諭吉の思いは、100年経った今日でも、全く通用するものであるといえる。