現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「愛知一中」OBのOさんに聞く

2022-08-15 08:26:15 | 太平洋戦争

(今日8月15日終戦の日 これも数年前書いた記事の再掲です)

 

Oさんが亡くなられたとの知らせ。91歳でした。
以前戦争中のことをお聞きしました。

Oさんは戦時中愛知一中(現旭丘高校=東大医学部進学率No.1)に在籍していた。

愛知一中」というと、数年前、NHKでも紹介された「予科練総決起事件」があった学校です。

昭和18年7月、校長や教師らが「国家の危急存亡の時」と生徒の愛国心を炊きつけたことで、3、4年生の生徒全員が「海軍の飛行予科練習生」への志願を決め、校長に提出した

これに あわてたのは親たち。一中は名古屋でもエリートが集まる学校だった。親としてみれば、わが子は「末は博士か大臣か」と期待していたのに、一兵卒として散るだけの「特攻」に志願するというのはなんとしても止めたいけれど、正面きっては口にできない。

当時の新聞はこの事件を「快挙」と賛美した。しかし、親の必死の説得で、結局 約700名中 56名が入隊した。そして3人が戦死した

NHKスペシャル「15歳の志願兵」

 

Oさんは 大阪の陸軍幼年学校に入隊し、そこで終戦を迎えた。8月15日、終戦の玉音放送を、炎暑の中、制服制帽に身を正し、校庭に直立不動して聞かされたが、内容は聞き取れず、「もっと頑張るように」と激励の勅諭かと思っていると「直ちに解散」の命令。

幼年兵も 米軍が進攻してくれば 捕えられ殺される」と言うので、国民服を泥につけて(わざと汚して)、きのみきのまま名古屋行きの汽車に乗った。大阪から名古屋までの汽車には引き揚げる海軍の兵隊たちがたくさん乗っていて、
彼らは、缶詰などの食料をふんだんに持っていた。海軍はいいなと思った。

家に帰ってみれば、栄の一等地にあった「履物店」は空襲で跡形も無し。「両親は死んだか」と思って あきらめていたら、闇市でばったり再会した。

 

というような話だった。


そこで、2013年に上映された水谷豊主演の映画『少年H』での疑問点について聞いてみた。
「中学校で、正門に、中学生が銃を構えて歩哨に立つということはあったのか。実弾による射撃訓練などあったのか」と。

Oさんの答えは「無かった。中学校での実弾訓練も無かった。配属軍人が腰に下げていた短剣でさえ、木刀だった」と。



真実を語る勇気

2022-08-15 03:42:16 | 太平洋戦争

2015年に書いたブログの再掲です。今ネットで検索しても下記の本は出てきません。

「私が見た憲法」より

『欽定憲法下の中学校』 村上 宏 1927(昭和2)年兵庫県生まれ。2013年6月11日 記

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空襲の激化に伴い、敵機の目をごまかすため「白いビルの壁には黒い色を乱雑に塗るように」との通達に従って、C中学の校史には「竿の先に雑巾を付け、屋上の胸壁から乗り出してコールタールを付けた」という生徒の体験談がある。

 


その一方で、私(村上氏)が居た D校(現神戸市、当時は武庫郡魚崎町)は、「校舎を目立たなくしたって、運動場が目立ってまるわかりだ。バカなことはやめとけ」と 校長が一蹴した「記念誌」に書かれている。

この校長先生は、軍人養成校への進学を勧めに来た軍人を前に、予科練などは 本校の生徒が行くところじゃない。『この中学へ入ってきて間違った』と思うやつは行けばいい」と発言された由。

日本は資源に乏しい国だが、お隣の国(中国)では 道端に石炭がゴロゴロ転がっている。あれをちょっと欲しいなァということで戦争が始まった 」などとも 話された。

当時、これがどんなに危険な発言だったか。密告でもされたら、校長のクビが飛ぶどころでなく、どんな目に遭わされるか命も危ない時代だった。

英語の先生も風変わりだった。「"見る"と "見える"は 日本語でも英語でも違うんだよ」と、教室の窓から外を眺め、配属将校が運動場で教練をしていたのを見て、英作文の例題として、私は運動場の軍人を "見る"。彼はのんきそうに "見える" 」と。

これが当人(配属将校)の耳に入ったら「帝国陸軍を侮辱するもの」としてぶんなぐられても当然だった。


教頭」は さらに輪をかけた硬骨漢で、予科練志願の意向を示した生徒に
「お前はムダ死にしたいのか」と どなりつけたという。

「真珠湾で多数の敵艦を撃沈した」という大本営の発表に 生徒たちが拍手喝采したとき、「ばかなことを喜ぶな。この戦争、しまいには日本が負ける」と生徒たちを諭したと、D校の記念誌に書かれている。

他の中学では当局の顔色をうかがい「敵性国家のことば」として英語の授業を「自主的に」廃止した後も、この学校では 勤労動員が始まるまで 英語の授業を続けるほど偏屈だった。

反面、配属将校の一人を 戦後30年近くも事務職員として雇っていたほど 寛容でもあった。

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これを書かれた村上氏は
この学校の生徒で 予科練を志願した者はいないし、各中等学校へ予科練志願者数の割り当てがあったことは全く知らなかった。校長や教頭が 国の至上命令を敢えて無視、握り潰していたのであろう。

何度も当局に呼び出され、注意や警告を浴びていたに違いないが、生徒の私たちには何も知らされず、その実情は今となっては わからない

ある日、校長が担当された「修身」の題目は「勇気」。危険なことに立ち向かうだけが「勇気」ではなく、目の前のお菓子を食べずにがまんするのも「勇気」だと説かれた。

国の方策に同調しなかったら、たちまち「非国民」「国賊」と非難され、どんな目に遭わされるか判っていた時に、校長や教頭は 時勢に迎合せず、これが“ほんとうの勇気”であることを 身をもって示していたのだと気づいたのは、私が高齢者と呼ばれる年齢に達した頃だった。


と、この(村上宏氏)は書いている。こういう校長や教頭、教師もいたのだと感動する。