会津鶴ヶ城の天守閣にあったという『泰西王侯騎馬図屏風』。
八曲一双のうち半分は、長州藩士「前原一誠」の遺族から、池永氏へ、
そして現在、「神戸市立南蛮博物館」の所蔵するところとなっている。
では、残る 4曲一双は?
松平家が所有していたが、実は、戦争中、一時私の家に保管されていた。
叔父「牧原源一郎」は、福島県選出の国会議員として、東京の目黒区に家を構えていた。そして、どういういきさつか、松平容保のご子孫から この襖絵を預かっていたようだ。しかし、戦争末期、空襲が激しくなり、「東京では危ないから、疎開する」と、運び出され、そのまま行へ不明になってしまった」と叔父が語っていたのを 聞いたことがある。
とろがところがである。最近になって、叔父源一郎の長女(美智子)が戦後嫁いだ先の高瀬家で「この絵は私の家で預かっていた」とのこと。高瀬家は江戸時代から続く漆器店「白木屋」の店主で、幕末も明治にも、相当の金を拠出して会津の経済を支えてきた豪商。高瀬喜左衛門氏は青年会議所、商工会議所等の会頭を務め、会津若松市長にもなった人物。
その高瀬家からいかなる経路で渡ったものか。昭和30年代の末、西宮市の藤井氏が所有していたのをサントリー美術館が購入した。
そのとき、「出所を明かさないという条件で、某氏から買取った」というような説明がなされていた。なにかいわくありげである。
殿様から預かった品が、持ち出されて 行くへ不明になったとあれば、世が世なら切腹もの。事実、叔父源一郎の妻「みと」は戦後自殺している。自殺の理由は不明だが、この絵の紛失にからめて、フィクション(つくり話)として推理小説を書きたいと思っていたが、そのことを父に話すと、父にひどく叱られた。父は「戦後は、殿様も(生活に)苦労されていたから、(極秘に)手放した(売った)のだろう」と。
30年ほど前、東京の上野精養軒で毎年開催される「会津会」に 私が初めて出席したときのこと。松平の殿様(保定氏)も臨席されていて、後方の末席に座っていた私のところまで来られ、「牧原さんには、大変お世話になりました」と、初対面の私に丁重に頭を下げられた。
私はびっくり、大変恐縮した。そのとき この 『泰西王侯騎馬図』のことが脳裏をかすめた。