江戸時代、山伏にもピンからキリまであった。山岳修行一筋に生き、村人から崇め奉られた聖もいただろうが、大部分は市井に住み、近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは山参りの代参をしたり、山登りの先達を勤める。また、いかがわしい占いで荒稼ぎするごろつきまで。
江戸時代の山伏は、修行者というよりは、祈禱者であった。
明治政府は「山伏もいかがわしい者」として、虚無僧とともに禁止令を出した。しかしその後、山伏は仏教寺院の法流につながることで復権したが、虚無僧はとうとう公認されなかった。
修験道は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される。
当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の
増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていった。
現代では、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院
(本山修験宗)、同伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。また、日光修験や羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもある。