紀州興国寺は、なんと富士山麓に勢力をもつ葛山
(かずらやま)氏によって勧進された寺だった。
葛山氏の祖「葛山五郎景倫」は、源実朝の家臣で、
実朝の命を受け中国に渡る予定だったが、実朝が
暗殺されたため、高野山に上り、出家して実朝の
菩提を弔う。その忠心に感じた北条政子が、葛山
景倫に紀州由良の地頭職を与える。
景倫は高野山で知り合った「願性(覚心)」に、
実朝の遺骨を中国の雁蕩山に分骨することを託して、
渡宋させる。
そして「願性(覚心)」が帰国すると、所領の由良に
「西方寺」を建立し、「願性(覚心)」を開山に据える
のである。
というわけで、「願性(覚心)」が開いたという寺は
「興国寺」ではなく、初めは「西方寺」だった。
中国行きを夢みていた実朝の遺志を表した名だった。
「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝の騒乱が
始まって、後醍醐天皇の南朝の元号「興国」に由来
するものと考えられる。
そこで、紀州興国寺の二世「孤峰覚明」が浮かび上がって
くる。「孤峰覚明」は、後醍醐天皇の子で南朝二代目の
後村上天皇の帰依を受け、寺号を「興国寺」と賜った。
これにより、興国寺は南朝方の色彩を強める。
そして「孤峰覚明」の弟子「抜隊得勝」が、相模の出で、
甲州塩山に向嶽寺を建て、山梨、静岡、神奈川の地域に
末寺700を誇る教線を拡大するのである。
それで、沼津にも「興国寺」があった。伊勢新九郎は、
初めは沼津の「興国寺」に寄宿していたのかもしれない。
だが、伊勢新九郎が、今川氏親からあてがわれた所領は
富士山麓の富士郡 (現裾野市)である。伊勢新九郎は、まず
富士郡に居を構え、葛山氏と親しくなり、数年後に
その娘を妻にした。
沼津の興国寺に入るのは、その後、小田原に攻めるために、
葛山氏の縁助で、移り住んだのかもしれない。
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