『徒然草』の115段に「宿河原で二人の“ぼろぼろ”が
相争って死んだ」という話がある。その“ぼろ”については
「“ぼろ”の衣を着ていたからボロ」、「河原乞食の類」と
解釈されてきたが、ちょっと待って、『徒然草』には
「河原に集まって 九品の念佛を唱えていた。昔はいなかったが
近き世に、梵論字(ぼろんじ)、梵字、漢字などいひける者、
その初めなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、
佛道を願ふに似て、闘諍(とうじょう)を事とす。放逸無慚の
ありさまなれども、死を輕くして少しもなづまざる〔執著しない〕」
とある。『徒然草』は鎌倉時代の末期に書かれたとされる。
鎌倉時代の末に「ぼろぼろ」いう連中が発生したが、その
初めは「梵字」「漢字」と呼ばれていた、というのだ。
まず「九品(くほん)の念仏」というのは、「極楽往生を
遂げるための念仏」。「九品」とは「極楽往生の際の九つの
階位」。
「宿」は「夙(しゅく)」に通じ、死体捨て場だ。室町時代
以前、庶民は埋葬されず、河原などに打ち捨てられた。
その河原で 死者の弔いをする者が現れた。その連中が、
「一字金輪」の「梵字(種字)」か「漢字」 を書き記した
幡(旗)を掲げていたので「梵字」とか「漢字」と呼ばれて
いた。漢字を読める庶民は少なかった時代だ。なにやら
文字が書かれていれば、「唐・天竺から来たもの」と
有りがたがった。
そして彼らは 「一字金輪の呪(じゅ)=のーまくさんまんだ
ぼたなん ぼろん」を、調子を変えて9回唱えていたのだろう。
「ぼたなんぼろん」の「ぼろん、ぼろん」が耳に残り
「ボロン字」などと呼ばれたのだ、と私は考える。
つまり、虚無僧の原型は「高野聖」や「放下僧」「ささら者」
などと同類の「念仏宗」だったのだ。
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