今日は何の日、6月17日は会津藩祖「保科正之」が生まれた日。
保科正之が生まれたのは、慶長16年(1611)5月7日だが、グレゴリオ暦だと6月17日。
亡くなったのは寛文12年12月18日。これは1673年の2月4日。(私の誕生日でござる)。
徳川2代将軍秀忠は、正室が織田信長の妹「お市の方」の三女「お江」。NHK大河ドラマでも取り上げられた。それゆえ、秀忠は恐妻家でお江に頭が上がらなかった。しかし、乳母大姥局の侍女「お静(志津)」に手をつけ 懐妊させてしまった。
お静は懐妊すると宿下がりして兄の家で男児を産み、幕府に届け出たが、正室お江にバレることを恐れ、その子は武田信玄の次女見性院に預けられた。名前は「幸松」。
見性院は武田信玄の次女で武田一族の穴山梅雪(信君)の妻。穴山梅雪は織田・徳川連合軍が甲斐の武田勝頼を攻めた時、徳川に寝返り、勝頼滅亡後、家康とともに安土に参上。堺見物中に本能寺の変が起こり、家康と別行動で東帰の途中、賊に襲われて果てた。それで、見性院は家康・秀忠に庇護されて、江戸城田安門内に屋敷を与えられて住んでいた。
そして、幸松丸は元和3年(1617) 信濃・高遠の保科正光に預けられる。一般的には、見性院が武田の旧家臣だった保科を頼ったいわれているが、見落とされている事実があった。
秀忠が隠し子の正之を 預けた先が、なぜ保科正光だったのか?
実は、正光の父正直の室は、家康の妹、秀忠にとっては叔母の多劫姫だったのである。
寛永6年(1629年)6月、正之は兄の3代将軍徳川家光と初対面。
寛永8年(1631年)11月、幕府より幸松に「出府せよ」との命令が下り、重臣5名と出府、土井利勝や井上正就同席の上、「幸松儀、肥後守・信州高遠藩3万石相続仰せつけられる」と上意があり、秀忠の命で幸松は、保科肥後守正之と名を改め、高遠藩藩主となった。