現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「普化宗廃絶」は会津藩士山本覚馬の献策か

2021-11-29 15:55:31 | 虚無僧って?

虚無僧は、江戸時代、「家康公のお墨付き」という都合のいい「掟」をふりかざして、村々から強制的に米を納めさせるなど、庶民にとっては迷惑な存在になっていました。それで江戸幕府としても虚無僧の横暴、狼藉三昧な行動を取り締まる動きに変じていました。

虚無僧寺を家宅捜索してみれば、遠島(島流し)になっていた者が舞い戻って看主になっていたり、寺に女を囲って、飲む打つ買う三昧の乱れた生活で、看主以下女まで捕らえ厳しく処断します。

NHK大河ドラマ『八重の桜』でも描かれていましたが、会津藩士「山本覚馬」は、慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いが起きると薩摩に捕えられ、獄中で『管見』を書き、来るべき新時代の構想を提示します。その中で「山本覚馬」は「仏教界は堕落しきっており、その悪しき因習は、新時代には弊害となるであろうから、仏教は廃止すべき。寺は学校にし、僧侶は還俗させて生業につかせるべし」と書いているのです。

すごい卓見です。そして「山本覚馬」は 明治になって「新島譲」を援けて、キリスト教系の大学「同志社」を創立したのでした。


明治政府は、「王政復古」を掲げ、政教一致の「国家神道」を作ろうとし、神社内に併存していた寺院を廃止させる、いわゆる「廃仏毀釈」運動が始まります。

明治4年、神祇省を設置し、政治と仏教の断絶を宣言し、諸寺の寺領を没収します。寺の僧侶は還俗させられ、多くの仏像が破壊され、また美術品として海外にまで流出しました。

さらに、普化宗修験道(山伏)を「所属不明の悪しきものとして禁止します。(太政官布告)

山伏の呪術的な加持祈祷や医療行為が、西洋医学に対して「いかがわしいもの」とされ、「狐憑き」なども禁止します。

さらに明治7年には西洋にならって火葬を禁止したりもしていますが、その後、余りのエスカレートぶりに民衆の支持が得られず、緩和の方向になって行きます。

そして、山伏は京都聖護院や比叡山延暦寺、高野山真言宗などの既存の仏教宗団に所属することで復活が認められましたが、虚無僧だけは復活することが認められませんでした。それほど虚無僧は悪の根源とみなされていたのです。

事実、京都明暗寺の最後の看主となった明暗昨非は、連日連夜虚無僧が押しかけてきては居座り、酒肴を要求され、寺の什物、尺八などを持ち出して売りさばくなど、乱暴狼藉にたまりかね、本尊の虚竹禅師の像や掛け軸など寺の什物を、懇意にしていた東福寺の塔頭善慧院に預けて、出奔したのでした。


普化宗が禁止されたままだったのはそういういきさつからでした。

 

 

そして、普化宗が宗教法人としても国に認められたのは昭和25年に宗教法人として登録されたことからです。

「昔はよく虚無僧を見た」というのは、昭和30年前後のことです。私も子供の頃よく見ました。虚無僧といっても格好だけで、多くは、都山流などの尺八習いたての初心者で、「六段」や「千鳥」を吹いていました。虚無僧「本曲」が世に出てくるのは、昭和40年以降のことです。



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