白虎隊は実は、身分によって「士中白虎」「寄合白虎」「足軽白虎」の三部隊があり、さらにそれぞれ二つの中隊で組織されていた。合わせて300名ほど。
そして「白虎士中二番隊」の隊員は37名。そのうち18名が日向隊長とともに帰城している。残り19名だが、そのうち3人は戸の口で戦死、戦乱の中で撃たれ戦死はぐれ、ばらばらに飯盛山にたどりついた。
生き残った白虎隊士は開城後東京に護送され、囚人としての扱いを受けた。その中に「牧原豊四郎」の名がある。護送の任に当たったのは小倉豊津藩だった。
豊四郎は、牧原の本家筋。甲賀口で父牧原一郎が切腹した時、介錯をした。その後城に入り、生き残りの白虎隊士の統率に当たったようだ。そして東京に護送されても、会津藩士の名に恥じないよう、隊士たちをよく教導したという。だが、その後の行くへは不明。たぶん、東京にそのまま残ったのであろうか。
10年以上も前になるが、従兄の牧原源治郎が亡くなり、川崎市の鶴見で葬儀を行った。そこの葬儀場の人が「先日、牧原一郎」という方の葬儀がありましたが、ご親戚ですか」と聞いてきた。一昨年、会津の大窪山墓地に行ったら、新しく「牧原一郎」の墓が立てられていた。牧原一郎のご家族の方、ぜひ連絡いただきたい。