念願かなって、金子みすヾ記念館に行ってきた。
記念館の入口は狭そうだけど、奥行きは広い。
金子みすヾは1903年(明治36年)、
今の山口県長門市仙崎で生まれる。
3歳で父親を亡くし、働き手の亡くなった金子家は、
母の妹の嫁ぎ先の上山文英堂(書店)の後押しで、
金子文英堂を始めた。
生家跡に記念館としてその書店が再現されている。
1926年(大正15年)、23歳の時、
上山文英堂の店員と結婚。
夫から梅毒をうつされ、発病。
夫から創作と手紙を書くことを禁じられる。
1929年(昭和5年)離婚。
その当時、親権が父親にあり、娘を渡せと、
三月十日に連れに行くと言う手紙を受け取り、
三月九日に一人で写真を撮りに行き、
その写真の受取書と三通の遺書とを残して、
26歳の短い生涯を自ら閉じた。
遺書には、
「ふさえ(みずヾの娘)を心豊かに育てたい。
だから、母ミチにあずけてほしい」とあり。
娘のふさえさんは、
みすヾが命をかけて願ったように、
母ミチの養女となり、心豊かに育てられたと。
童謡詩人、矢崎節夫氏の努力により、
みすヾの弟の手元にあった
手書きの三冊の童謡集が見つかり、
みすヾの詩は甦った。
二階のみすヾの部屋の復元
星とたんぽぽ 私と小鳥と鈴と
青いお空の底ふかく、 私が両手をひろげても、
海の小石のそのやうに、 お空はちつとも飛べないが、
夜がくるまで沈んでる、 飛べる小鳥は私のやうに、
晝のお星は眼にみえぬ。 地面を速くは走れない。
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ。 私がからだをゆすつても、
きれいな音は出ないけど、
散つてすがれたたんぽぽの、 あの鳴る鈴は私のやうに、
瓦のすきに、だァまつて、 たくさんな唄は知らないよ。
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。 鈴と、小鳥と、それから私、
見えぬけれどもあるんだよ、 みんなちがつて、みんないい。
見えぬものでもあるんだよ。
みすヾの詩は、
見えるものと見えないもの、
生と死、昼と夜、光と影のように、
二つで一つという大切なまなざしがいつもある。
自分中心、こちら側中心ではなく、
相手側、むこう側から見ることの
やさしさに気づかせてくれると。
看護の精神にも通ずるな~
「相手の立場に立ってケアする。」
みすヾワールドにどっぷり浸かれた一日でした。