おぢのニセコ山暮らし

山暮らしと世間のあれこれを書き綴ります

「ノーパン喫茶」の時代

2016年12月08日 | Weblog

 

午前6時の気温はマイナス8度。

今朝の積雪はサラッと5センチ程度のパウダースノーだ。

いよいよ本格的な冬がやってまいりました。

きのう朝は、午前9時に家を出てニセコグラン・ヒラフスキー場に行ってまいりましたです。

初滑りでござる。

写真はスキー場の1000メートル地点。

ボードの皆さんは中華系の観光客のようでした。

いつもより遅い時間に行ったおぢ、当然のことながら新雪斜面はほとんど荒らされておりました。

いまご当地で滑っておるのは、世界のあちこちからやってきた若者たちがその中心じゃ。

たいていはホテルや飲食店などで働きながらスキー、スノボを楽しんでおる皆さんとは、先日も書いた。

きのうリフトで一緒になったのはドイツ人の若者で、それにしてはやたら英語がうまくて、早口。

フツー英国を除くヨーロッパの皆さんの英語は、ニッポン人にも分かり易いことになってますけど、彼は全く違ったのでした。

何を喋っておるの半分も分かりませんでしたけど、どうやらスキーのインストラクターだとか。

「ここのスキー場はどうだい?」と聞いたら、「ヨーロッパの雪質とは雲泥の差」みたいなことを申しておりました。

こっちが「アイアムローカル」と言ったので、ベンチャラしたのかもしれませぬ。

まだまだ雪は少なくて、コース外はもちろん、コース内も滑ることのできないところは多い。

あと1~2メートルは必要です。

ってことで、2本滑って帰宅いたしました。

あと1~2回は足慣らししないと、若者と見まごうばかり? の滑りはできませんです。

ところで、

今週号の週刊現代に「『ノーパン喫茶』を語ろう」っていう対談があって、たいした懐かしい気分になったのでした。

ミニスカのウエイトレスが「パンツを穿いていない」という、バカバカしくも男にとっては夢のような喫茶店が登場したのは、1980年代のことだった。

おぢは30代だったか?

対談は、映画監督で当時の風俗取材といえばこの人、山本晋也監督に、週刊文春で「人生エロエロ」を連載中のみうらじゅんさん、これに「ノーパン喫茶の女王」と言われたイブちゃんでござる。

イブちゃん、当時テレビでしかお目にかかっておりませんけど、なんとも懐かしい。

でもって、これ、最初はパンストにミニスカートだったのだそうです。

いきなりノーパンではなかったのだとか。

さらには、ノーパン喫茶が初登場したのは、大阪ではなく京都だったのだそうな。

どうでもいいことですけど、知りませんでしたわ。

札幌ススキノにもありましたですぅ~

そして、これがどんどんエスカレートし、首都圏などではとうとう「ノーパンしゃぶしゃぶ」なる店まで登場した。

もちろんノーパンウエイトレスがいるしゃぶしゃぶの店だ。

どう考えても珍妙な取り合わせですけど、「バブル感」がよくでておる。

でもって、このノーパンしゃぶしゃぶを有名にしてくれたのは、当時の大蔵省の官僚さまでござった。

銀行のMOF坦(MOFはMinistry of Financeってことで大蔵省、現在の財務省の担当)が、新宿の「楼蘭」っていうノーパンしゃぶしゃぶで大蔵官僚を接待したという大スキャンダルでござった。

ときはバブルの真っ最中、大手銀行は不動産からなにからにデタラメ融資をしておったころのことでござる。

ノーパンで、なおかつしゃぶしゃぶってのも、男心をたいしたくすぐるわけ。

ですが、これで接待されておった大蔵官僚が羨ましい気がしたのはおぢだけか?

でもって、当時の大蔵大臣三塚博と日銀の松下総裁がこの大スキャンダルで辞任に追い込まれておる。

接待されてたのに、しぶとく生き残った大蔵官僚もいましたけどね!!

バブルを象徴するカネまみれの季節でもありました。

考えようによっては、ニッポンも元気だった。

おぢも、30代のアッパラパーってことで、仕事も「あっち」も元気でした…