ハンナ・アーレントは、ユダヤ人を何百人と殺戮した全体主義を検討する。
全体主義は、様々な現れ方をする。こういう記述があった(114)。
人びとを人間として「余計な者」にすること、多様でそれぞれが唯一無二の人びとが地上に存在するという人間の複数性を否定することが全体主義の悪であった。
もちろんこれは、ナチスドイツに於いては、国家がそれを行ったのだが、しかし現在のわが日本に於いては、これと同様のことが街頭やネットの世界で行われている。いやそれは出版界でも、堂々と行われている。そしてそのような志向は、現政権の中枢の人たちも共有しているのだ。
警戒感をもたずにはいられない。
政治的道具としての反ユダヤ主義の危険性は、ユダヤ人が抽象化され、ユダヤ人一般として見なされることにある。具体的にユダヤ人と接触したことのない群衆(モッブ)が、個人的経験ぬきでイデオロギーとして反ユダヤ主義に染まる。
こういう記述に、ボクは現在の日本の状況と重ね合わさざるをえないのだ。「反ユダヤ主義」を「反韓」、「ユダヤ人」を「韓国人」とすれば、まったく「合同」となる。
アーレントは、あのホロコーストを脳裏に浮かべながら、人間や社会や政治のあり方を思考する。そしてその思考は、普遍的なものにまで高められていく。ハンナ・アーレントが今も読まれるのは、彼女の思想がそうした普遍性を持つに至ったからである。
たとえば、「誰でもない者」(179頁)によって構成されている官僚制。多くのユダヤ人を虐殺したアイヒマンは、そうした官僚のひとりであった。己をむなしくして、与えられた「業務」を淡々とこなす。
ボクの周辺でも、そうした人間は容易に見つけることができる。思考しない、あるいは「誰か他の人の立場に立って考える能力」(187頁)を欠如した人間。
アーレントは「思考の欠如」を指摘している。「思考に動きがなくなり、疑いを入れない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態」(174頁)。
これはおおかたの日本国民が陥ってる、まさに現代日本の姿ではないかと思ってしまう。
こういう引用があった。
もしわれわれが、自分の価値観に従い自分の経験に即して立ち上がらず、自分の確信や感情を犠牲にして、全体主義的制度への協力を一歩踏み出してしまうならば、協力するたびごとにさらにきつくなる網の目に捉えられてしまい、ついにはそこから自由になることができなくなってしまうのである。(195~6頁)
そして「絶望的な状況においては「自分の無能力を認めること」が強さと力を残すのだ」(201頁)という。「業務」として犯罪的なことを強いられることがある、そのときにどう対応するか。ここにひとつの回答がある。
ユダヤ人が、次々と「絶滅収容所」に運ばれていく。そのとき、
世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった。
これがアーレントの、考えであった。この絶望を、アーレントは真正面から考えようとしたのである。彼女の思考のすべてに、あのアウシュヴィッツがある。
人間は、他者を「無意味な者」として消滅させた、という過去をもつ。ボクたちの思考も、これを包含するものでなければならない。
全体主義は、様々な現れ方をする。こういう記述があった(114)。
人びとを人間として「余計な者」にすること、多様でそれぞれが唯一無二の人びとが地上に存在するという人間の複数性を否定することが全体主義の悪であった。
もちろんこれは、ナチスドイツに於いては、国家がそれを行ったのだが、しかし現在のわが日本に於いては、これと同様のことが街頭やネットの世界で行われている。いやそれは出版界でも、堂々と行われている。そしてそのような志向は、現政権の中枢の人たちも共有しているのだ。
警戒感をもたずにはいられない。
政治的道具としての反ユダヤ主義の危険性は、ユダヤ人が抽象化され、ユダヤ人一般として見なされることにある。具体的にユダヤ人と接触したことのない群衆(モッブ)が、個人的経験ぬきでイデオロギーとして反ユダヤ主義に染まる。
こういう記述に、ボクは現在の日本の状況と重ね合わさざるをえないのだ。「反ユダヤ主義」を「反韓」、「ユダヤ人」を「韓国人」とすれば、まったく「合同」となる。
アーレントは、あのホロコーストを脳裏に浮かべながら、人間や社会や政治のあり方を思考する。そしてその思考は、普遍的なものにまで高められていく。ハンナ・アーレントが今も読まれるのは、彼女の思想がそうした普遍性を持つに至ったからである。
たとえば、「誰でもない者」(179頁)によって構成されている官僚制。多くのユダヤ人を虐殺したアイヒマンは、そうした官僚のひとりであった。己をむなしくして、与えられた「業務」を淡々とこなす。
ボクの周辺でも、そうした人間は容易に見つけることができる。思考しない、あるいは「誰か他の人の立場に立って考える能力」(187頁)を欠如した人間。
アーレントは「思考の欠如」を指摘している。「思考に動きがなくなり、疑いを入れない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態」(174頁)。
これはおおかたの日本国民が陥ってる、まさに現代日本の姿ではないかと思ってしまう。
こういう引用があった。
もしわれわれが、自分の価値観に従い自分の経験に即して立ち上がらず、自分の確信や感情を犠牲にして、全体主義的制度への協力を一歩踏み出してしまうならば、協力するたびごとにさらにきつくなる網の目に捉えられてしまい、ついにはそこから自由になることができなくなってしまうのである。(195~6頁)
そして「絶望的な状況においては「自分の無能力を認めること」が強さと力を残すのだ」(201頁)という。「業務」として犯罪的なことを強いられることがある、そのときにどう対応するか。ここにひとつの回答がある。
ユダヤ人が、次々と「絶滅収容所」に運ばれていく。そのとき、
世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった。
これがアーレントの、考えであった。この絶望を、アーレントは真正面から考えようとしたのである。彼女の思考のすべてに、あのアウシュヴィッツがある。
人間は、他者を「無意味な者」として消滅させた、という過去をもつ。ボクたちの思考も、これを包含するものでなければならない。