今年2月、研究会で話した内容を文章化する。「特定秘密保護法が成立する時代ー団塊世代の子どもたち」というテーマであるが、このときの他の報告が団塊世代の現在の意識状態についての報告であったからである。それに対応させたというわけである。
さて「はじめに」として、いくつかのことを指摘しておかなければなりません。まず昨年12月に、安倍政権は特定密保護法を強行採決しました。私はその少し前まで、国会周辺で抗議活動を繰り広げておりました。帰りの新幹線に乗り遅れないために、最後まではいられませんでしたが、わざわざ上京したのは、この法案こそしっかりと抗議しておかなければならないと思ったからです。
私は、特定秘密保護法制定の本質は、国家権力が国民に知らせたくないことを「知らせない」、それを正当化することだと思っています。つまり、「国民主権の無化」ということです。国民が主権者であるということは、国民が政治についてきちんとした情報をもっていなければ、あるいはそれにアクセスできなければ適切な判断はできないわけです。そうした回路が切断されることになるのです。これがいちばん重要なことではないかと思います。さて、もちろんそうした回路が切断されても、情報を得ようという努力はなされるべきです。この点をめぐって、国家との熾烈な闘いが始まるでしょう。そのとき、活躍するのが、公安警察です。「左翼」の運動が退潮した今、彼らは活躍の場がなくなっています。この法律は彼らの活躍の場を提供するものでもあります。
まさに特定秘密保護法は、その他の法の状況を見ますと、「国家秘密」が個人の秘密を蹴散らしていく、というものだと考えています。
二つ目に、安倍政権のめざすものは何かを知っておくべきだと考えます。「自民党憲法草案」に、それは示されているといってよいでしょう。今日の話の本題ではないので、その説明はここではしません。ネットで全文を入手できますので、ぜひ読んで欲しいと思います。
安倍政権は、憲法の破壊だけではなく、さらなる新自由主義的改革、すなわち規制緩和、規制撤廃をおこなっていくことでしょう。アメリカを中心とした、私がいつもつかう「グローバルキャピタリスト」(国籍をこえて世界で最大限の利潤獲得をめざす資本家たち)たちの利潤の「草刈り場」として、日本を提供しようとするものです。
そのような売国的な動きを糊塗するべく、安倍首相とその周辺は、「国家主義」的な傾向を強めています。今までの歴史研究の成果を無視する歴史修正主義、それにもとづく教育の再編成が進められています。
また安倍政権は、対米従属をより強めていくことでしょう。米軍再編=日米両軍の一体化はすでに完了し、今は「集団的自衛権」を行使して海外での戦闘参加に道を開こうとしています。
さて、三つ目にメディアの状況について言及せざるをえません。安倍政権がそうした「政策」を強行突破しようとしているとき、それにブレーキをかけようとしない、もちろん『東京新聞』や『琉球新報』などありますが、発行部数の多い特に全国紙の微温的な動きは特筆すべきであります。数々の妄言がなされても、簡単に報じるだけで歯止めをかけようとしない。またNHKの翼賛化という動きもあります。
私たちが、情報を得るもっとも重要な手段であるメディアが、体制内化しているという厳しい現実があります。
以上の、政治社会状況を前提として本題に入ります。まず「団塊世代の子どもたち」の意識状況について、見ていきましょう。
朝日新聞社が発行している『Journalism』という雑誌があります。ジャーナリズムから逃亡しようとしている「朝日新聞」がこういう雑誌を刊行しているのもどうかと思いますが、それには朝日新聞が実施した世論調査の結果が載せられています。その2013年12月、2014年2月には、以下のような数字が並んでいます。
安倍内閣の支持率ですが、
2013年10月 20代59% 30代62% (平均56%)
2013年12月 20代55% 30代53% (平均46%)
ということで、特に20代の支持率が高いことがわかります。また先の東京都知事選では、20代の支持率が、舛添30.4%、田母神24.0%(60万票)と、田母神候補への支持が高いことがわかります。
さらにネットへの書き込みについて述べますと、何か事件が起こると、それを韓国や中国のせいにする、ということがあります。たとえば浜松市で給食用のパンのウィルスで子どもたちや教員が食中毒になったことがありましたが、その原因は韓国にある、そのウィルスは韓国から来たなどという、まったくのデマを平気でネットに書き込む者がいる。とにかく、事件が起きると、その原因者として韓国を置くのです。そして「反韓」の書き込みは、日常生活ではつかわれないことば、悪罵といいましょうか、きわめて汚いことばがつかわれています。そういうことばへ順応し、つかう者が増えているような気がします。その一方で、「愛国」的なことばも、そこには書き込まれていて、悪としての韓国や中国、善としての日本という、二項対立的な思考が読み取れます。
安田浩一は『ネット愛国』(講談社、2012年)に、「愛国心とは寂しき者たちの最後の拠り所ではないのか」(138頁)、「日常生活のなかで感じる不安や不満が、行き場所を探してたどり着いた地平が、たまたま愛国という名の戦場であった」(313頁)、「被害者意識は強烈」(342頁)、「(ネット空間の)大衆化はネットの世界に論理ではなく感情を持ち込んだ。・・ネット言論は“激しさ”“極論”こそが支持を集める」(350頁)と記しています。
日常生活で虐げられている状況から現出する怨念が、攻撃的な「愛国」主義、国家主義へと転化する、というのでしょうか。
しかしこのような言説には、「既視感」があります。
それは、1930年代のドイツです。第一次世界大戦後のドイツは、ワイマール憲法という当時としては民主的な憲法をもった国でした。しかし、第一次大戦でドイツは敗れたわけですが、それを認めない、「敗戦」を否認する動向があり、それは「背後からの一撃」論(戦争それ自体は敗れはしなかった)、あるいは「防衛戦争論」(ドイツは防衛のためにやむなく戦ったのだ)というかたちで主張されました。このような、第一次世界大戦を正当化し、敗戦を認めない思潮は、1960年前後にフィッシャーにより否定されるまで存在していました。 第一次大戦の敗北と戦後の政治的不安定、そして国民が生活の苦難を味わうなかでドイツの名誉や誇りを回復しようという動きが活発となり、それを利用してナチスが台頭したのです。
ヒトラーらナチスは、ドイツ敗戦の裏にユダヤ人がいる、というように「敵」(=ユダヤ人)を設定し、「生きた言葉は、硬直化した書き言葉以上の力を持つ」、「広範な大衆に働きかけ、少数の論点に集中し、同一の事柄をたえず繰り返し、反論し得ない主張になるまでテキストを確実に把握し、影響が広がることを望みながら辛抱強く忍耐すること」(ヒトラー)という手法で、国民のなかに支持を広げていきました。
さて次に、現在の日本の状況について考えてみましょう。
いったいこの「現在」は、いかなる時代なのか、という疑問を持ちます。といいますのも、戦後日本が産みだした人権や平和主義、国民主権の日本国憲法、あるいは藤堂基準法などの労働法制その他、民主的な法や制度が軒並み崩されてきています。よく私が指摘するのは、労働基準法です。法として存在しているけれども、労働現場では実質的には無視されている、ということです。
丸山真男は、「ファッショというのはどこでもそうで、軍部がそうだけれど、厳格な実定法主義の立場からみたら許しがたい勝手なことをやる。あとで、それを法律で正当化するけれども、その時々においては法を破っているわけです」(『丸山真男回顧談』上、岩波書店2006年 262頁)と指摘しています。
今まさに、そういう時代ではないかと思うのです。まさに「戦後民主主義」が崩されている時代、今まで、内実はともかく、法や「制度」はありました。しかし今、そうした法や「制度」が崩され始めています。教育基本法はすでに葬り去られ、教育委員会制度は首長の権限が大幅に強化されて教育の中立性はなくなろうとし、格差拡大のなか、消費税の増税は民主的な応能負担の原則を消し去ろうとしています。そして日本国憲法の改憲が叫ばれています。
1990年代半ばから本格化してきた、こうした傾向は強まりこそすれ、弱まることはありません。1994年、「政治改革関連法」が成立し、小選挙区制が導入されました。翌1995年、阪神大震災・地下鉄サリン事件、その年労働者を三分割し、基幹的な仕事を担う者以外は非正規労働者にするという日経連報告がだされました。
1996年には、「安保再定義」が行われ、日米安保体制が世界安保へと拡大されました。
この頃から、労働者の給与総額が減(平均所得は1999年から減)となり、自殺者数が3万人を数えるようになりました(1998年から)そして失業率約5%は、1999年からというように、新自由主義的改革が進み、格差社会が出来上がると同時的に、「平和の風景」が後退してきたのです。
新自由主義的政治改革が民主的な「制度」を破壊していくのですが、その際には国家主義的な攻撃も行われてきました。国家主義的な装いをもった新自由主義的改革。
小泉政権、そして第一次安倍政権。そこでは2006年「改正教基法」が制定され、2007年には防衛庁が防衛省となり、全国学力テストが実施され、改憲のための国民投票法が制定されました。そして民主党政権をへて第二次安倍政権へ。そこでは特定秘密保護法、消費税増税など、自民党が狙っていたことがつぎつぎと実現していきました。
それに対する「戦後革新勢力」は、“護憲”、「・・するな」などと主張、これらはまっとうなものではありますが、政治的な言説上では「守旧派」としての存在と見なされてしまいました。政治勢力としても、きわめて小さな存在へと縮小していきました。
こうして日本は、私が主張する「グローバル私益国家」、無国籍企業による最大限利益追求を可能とする経済への再編成が進み、彼らの私益のための軍事力の世界的展開を志向する政治社会へと変貌を遂げていったのです。
この項続く
さて「はじめに」として、いくつかのことを指摘しておかなければなりません。まず昨年12月に、安倍政権は特定密保護法を強行採決しました。私はその少し前まで、国会周辺で抗議活動を繰り広げておりました。帰りの新幹線に乗り遅れないために、最後まではいられませんでしたが、わざわざ上京したのは、この法案こそしっかりと抗議しておかなければならないと思ったからです。
私は、特定秘密保護法制定の本質は、国家権力が国民に知らせたくないことを「知らせない」、それを正当化することだと思っています。つまり、「国民主権の無化」ということです。国民が主権者であるということは、国民が政治についてきちんとした情報をもっていなければ、あるいはそれにアクセスできなければ適切な判断はできないわけです。そうした回路が切断されることになるのです。これがいちばん重要なことではないかと思います。さて、もちろんそうした回路が切断されても、情報を得ようという努力はなされるべきです。この点をめぐって、国家との熾烈な闘いが始まるでしょう。そのとき、活躍するのが、公安警察です。「左翼」の運動が退潮した今、彼らは活躍の場がなくなっています。この法律は彼らの活躍の場を提供するものでもあります。
まさに特定秘密保護法は、その他の法の状況を見ますと、「国家秘密」が個人の秘密を蹴散らしていく、というものだと考えています。
二つ目に、安倍政権のめざすものは何かを知っておくべきだと考えます。「自民党憲法草案」に、それは示されているといってよいでしょう。今日の話の本題ではないので、その説明はここではしません。ネットで全文を入手できますので、ぜひ読んで欲しいと思います。
安倍政権は、憲法の破壊だけではなく、さらなる新自由主義的改革、すなわち規制緩和、規制撤廃をおこなっていくことでしょう。アメリカを中心とした、私がいつもつかう「グローバルキャピタリスト」(国籍をこえて世界で最大限の利潤獲得をめざす資本家たち)たちの利潤の「草刈り場」として、日本を提供しようとするものです。
そのような売国的な動きを糊塗するべく、安倍首相とその周辺は、「国家主義」的な傾向を強めています。今までの歴史研究の成果を無視する歴史修正主義、それにもとづく教育の再編成が進められています。
また安倍政権は、対米従属をより強めていくことでしょう。米軍再編=日米両軍の一体化はすでに完了し、今は「集団的自衛権」を行使して海外での戦闘参加に道を開こうとしています。
さて、三つ目にメディアの状況について言及せざるをえません。安倍政権がそうした「政策」を強行突破しようとしているとき、それにブレーキをかけようとしない、もちろん『東京新聞』や『琉球新報』などありますが、発行部数の多い特に全国紙の微温的な動きは特筆すべきであります。数々の妄言がなされても、簡単に報じるだけで歯止めをかけようとしない。またNHKの翼賛化という動きもあります。
私たちが、情報を得るもっとも重要な手段であるメディアが、体制内化しているという厳しい現実があります。
以上の、政治社会状況を前提として本題に入ります。まず「団塊世代の子どもたち」の意識状況について、見ていきましょう。
朝日新聞社が発行している『Journalism』という雑誌があります。ジャーナリズムから逃亡しようとしている「朝日新聞」がこういう雑誌を刊行しているのもどうかと思いますが、それには朝日新聞が実施した世論調査の結果が載せられています。その2013年12月、2014年2月には、以下のような数字が並んでいます。
安倍内閣の支持率ですが、
2013年10月 20代59% 30代62% (平均56%)
2013年12月 20代55% 30代53% (平均46%)
ということで、特に20代の支持率が高いことがわかります。また先の東京都知事選では、20代の支持率が、舛添30.4%、田母神24.0%(60万票)と、田母神候補への支持が高いことがわかります。
さらにネットへの書き込みについて述べますと、何か事件が起こると、それを韓国や中国のせいにする、ということがあります。たとえば浜松市で給食用のパンのウィルスで子どもたちや教員が食中毒になったことがありましたが、その原因は韓国にある、そのウィルスは韓国から来たなどという、まったくのデマを平気でネットに書き込む者がいる。とにかく、事件が起きると、その原因者として韓国を置くのです。そして「反韓」の書き込みは、日常生活ではつかわれないことば、悪罵といいましょうか、きわめて汚いことばがつかわれています。そういうことばへ順応し、つかう者が増えているような気がします。その一方で、「愛国」的なことばも、そこには書き込まれていて、悪としての韓国や中国、善としての日本という、二項対立的な思考が読み取れます。
安田浩一は『ネット愛国』(講談社、2012年)に、「愛国心とは寂しき者たちの最後の拠り所ではないのか」(138頁)、「日常生活のなかで感じる不安や不満が、行き場所を探してたどり着いた地平が、たまたま愛国という名の戦場であった」(313頁)、「被害者意識は強烈」(342頁)、「(ネット空間の)大衆化はネットの世界に論理ではなく感情を持ち込んだ。・・ネット言論は“激しさ”“極論”こそが支持を集める」(350頁)と記しています。
日常生活で虐げられている状況から現出する怨念が、攻撃的な「愛国」主義、国家主義へと転化する、というのでしょうか。
しかしこのような言説には、「既視感」があります。
それは、1930年代のドイツです。第一次世界大戦後のドイツは、ワイマール憲法という当時としては民主的な憲法をもった国でした。しかし、第一次大戦でドイツは敗れたわけですが、それを認めない、「敗戦」を否認する動向があり、それは「背後からの一撃」論(戦争それ自体は敗れはしなかった)、あるいは「防衛戦争論」(ドイツは防衛のためにやむなく戦ったのだ)というかたちで主張されました。このような、第一次世界大戦を正当化し、敗戦を認めない思潮は、1960年前後にフィッシャーにより否定されるまで存在していました。 第一次大戦の敗北と戦後の政治的不安定、そして国民が生活の苦難を味わうなかでドイツの名誉や誇りを回復しようという動きが活発となり、それを利用してナチスが台頭したのです。
ヒトラーらナチスは、ドイツ敗戦の裏にユダヤ人がいる、というように「敵」(=ユダヤ人)を設定し、「生きた言葉は、硬直化した書き言葉以上の力を持つ」、「広範な大衆に働きかけ、少数の論点に集中し、同一の事柄をたえず繰り返し、反論し得ない主張になるまでテキストを確実に把握し、影響が広がることを望みながら辛抱強く忍耐すること」(ヒトラー)という手法で、国民のなかに支持を広げていきました。
さて次に、現在の日本の状況について考えてみましょう。
いったいこの「現在」は、いかなる時代なのか、という疑問を持ちます。といいますのも、戦後日本が産みだした人権や平和主義、国民主権の日本国憲法、あるいは藤堂基準法などの労働法制その他、民主的な法や制度が軒並み崩されてきています。よく私が指摘するのは、労働基準法です。法として存在しているけれども、労働現場では実質的には無視されている、ということです。
丸山真男は、「ファッショというのはどこでもそうで、軍部がそうだけれど、厳格な実定法主義の立場からみたら許しがたい勝手なことをやる。あとで、それを法律で正当化するけれども、その時々においては法を破っているわけです」(『丸山真男回顧談』上、岩波書店2006年 262頁)と指摘しています。
今まさに、そういう時代ではないかと思うのです。まさに「戦後民主主義」が崩されている時代、今まで、内実はともかく、法や「制度」はありました。しかし今、そうした法や「制度」が崩され始めています。教育基本法はすでに葬り去られ、教育委員会制度は首長の権限が大幅に強化されて教育の中立性はなくなろうとし、格差拡大のなか、消費税の増税は民主的な応能負担の原則を消し去ろうとしています。そして日本国憲法の改憲が叫ばれています。
1990年代半ばから本格化してきた、こうした傾向は強まりこそすれ、弱まることはありません。1994年、「政治改革関連法」が成立し、小選挙区制が導入されました。翌1995年、阪神大震災・地下鉄サリン事件、その年労働者を三分割し、基幹的な仕事を担う者以外は非正規労働者にするという日経連報告がだされました。
1996年には、「安保再定義」が行われ、日米安保体制が世界安保へと拡大されました。
この頃から、労働者の給与総額が減(平均所得は1999年から減)となり、自殺者数が3万人を数えるようになりました(1998年から)そして失業率約5%は、1999年からというように、新自由主義的改革が進み、格差社会が出来上がると同時的に、「平和の風景」が後退してきたのです。
新自由主義的政治改革が民主的な「制度」を破壊していくのですが、その際には国家主義的な攻撃も行われてきました。国家主義的な装いをもった新自由主義的改革。
小泉政権、そして第一次安倍政権。そこでは2006年「改正教基法」が制定され、2007年には防衛庁が防衛省となり、全国学力テストが実施され、改憲のための国民投票法が制定されました。そして民主党政権をへて第二次安倍政権へ。そこでは特定秘密保護法、消費税増税など、自民党が狙っていたことがつぎつぎと実現していきました。
それに対する「戦後革新勢力」は、“護憲”、「・・するな」などと主張、これらはまっとうなものではありますが、政治的な言説上では「守旧派」としての存在と見なされてしまいました。政治勢力としても、きわめて小さな存在へと縮小していきました。
こうして日本は、私が主張する「グローバル私益国家」、無国籍企業による最大限利益追求を可能とする経済への再編成が進み、彼らの私益のための軍事力の世界的展開を志向する政治社会へと変貌を遂げていったのです。
この項続く