1943年5月19日、京都帝国大学で田辺元の講演会があった。
1943年、この年9月23日、学生の徴兵猶予が停止される、そして10月21日には神宮外苑で出陣学徒壮行会が開かれる。
その年である。
田辺は「死生」というテーマで講演をした。田辺は京都帝国大学を代表する哲学者であった。その講演には、学生だけでなく一般の聴講者も集まった。
学生をはじめとした若者たちの前には、戦場での「死」というものが存在していた。しかし、若者たちは、なぜ自分が死ななければならないのか、「国家のために死ぬ」ことの意味は何か、煩悶を繰り返していた。どう考えても、その解が見つからない。わらをも掴む思いで、田辺の講演を聴こうとした。田辺は、こう話した。
決死ということは、もっと積極的に実践して、死が可能としてではなく、必然的に起こることを見抜いて、我々がなおそれをあえて為す時にいうのである。これは実際に生を死の中に投ずることであり、生きていながら死を観念的に考えることではない。自分は安全な生にいながら死の可能性を考えることではない。必ず死ぬことがわかっていて、死は逃れ得ぬことを知っていて、なお為すべきことを為す、実践すべきことを実践すること、我々の生を死の中に投ずることである。
田辺は、生の側から死を見つめるのではなく、実際に生を死の中に投げ込めというのだ。まさに為すべきこととしての死を死ね、というのである。
では、「国家のために死すべき者として死ぬ」とはどういうことか。田辺はこう語る。
国が単に特殊な国という性質を越えて神を実現しているのである。神聖なもの絶対的なものであるという時は、神と国とが個人を通じて結びつくのであって、人は国を通して現実に身を捧げるものとして具体的存在をもっている。身を捧げるのが具体的意味を持つのは、国と神とが一に結びつけられた時、即ち神と国家が区別されつつ一つである時であって、このこのことによって人が国に身を捧げることにより神にふれ、神につながるのである。
人が国に身を捧げることによって神につながる絶対化された立場から、翻って国を神の道に一致せしめるように行為すること、即ち国をして真実と正義を失わしめざることが我々の本分なのである。
田辺は、近代天皇制の原理のなかに身を投じることこそが、「国家のための死」の意味であることを説いたのである。若者が死ぬ(身を捧げる)ことによってしか、国の「真実と正義」は維持できない、というのである。
おそらく田辺は、1943年段階の近代天皇制国家が狂っている、「真実と正義」を失っていると認識していたのであろう。しかし、「真実と正義」を取り戻すためには、若者が身を捧げる、すなわち無残な死を死ななければならぬ、というのだ。
こうして若者たちは、戦場で、あるいは特攻隊として無残な死を死んでいった。
だが、こういうあり方は間違いである、田辺もそれに気づく。
1944年、田辺はこう記す。
言うべきことは言うべきであると思いながらそれをあえて言い得ぬ無力、実践的に勇気のないことを痛感せざるを得ない。(中略)しかしいかにすれば良いのか、真に正しい方策は何かということがわからないのであり、従って単に実践的に無力であるというのみならず、知識においても深く無力を感ずるのである。
田辺はこのあと、自らが「懺悔(ざんげ)」にたどりついたことを記す。
さて。
戦争が行われると、戦場で若者が死ななければならない。現代の若者は、いったい何のために死ぬのか。安倍首相が「戦争ができる国にする」と主張するとき、いったい何のための戦争に参加させ、何のために死ねと言うのだろうか。おそらくなんの意義づけもできないだろう。なぜならアメリカのために死ぬのだから。だからこそ、軍事法廷をたちあげ、死刑を含む重罰によって死地に赴かせるのである。戦場で戦闘行為に従事しないと死刑だぞ、というように。
1945年に終わった戦争に於いては、若者は近代天皇制の原理のなかに「意味」を見出そうとした。そして無残な死を死んでいった。しかしそれが間違いであったことに気づいた田辺は「懺悔」の道に入り込んだ。
今、重罰を背景にして死地に動員されようとしている若者たち、おそらくそこで死を死んでいく若者がでるだろう。そしてまた、田辺が間違いであったと気づいたように、日本人もそうした若者に強いられた死は、間違いであったと気づくのだろう。
だがそのとき、日本人は、田辺が「懺悔」の道に、あえて言おう「逃げ込んだ」ように、「懺悔」の道に「逃げ込む」のか。
ボクは思う、「懺悔」は一度だけでたくさんである。そしていつか気がつくであろう日本人に、ボクは「懺悔」の道に「逃げ込む」な、学ばない日本人よ、考えない日本人よ、無残な死を死んでいった若者の煩悶を直視せよと叫ぶだろう。
1943年5月19日、講演が行われた第一教室は1時間前から立錐の余地がないほどに多くの若者が集まったという。「国家のために死ぬ」ことの意味を探しあぐねる若者たちだ。
そういう講演は、あってはならない、二度と!!