浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「中日新聞」社説

2014-05-03 22:24:47 | メディア

憲法を考える 9条と怪人二十面相

2014年5月3日

 国が曲がり角にあります。カーブの先は…。他国のために戦争をする国でしょう。憲法九条が破壊されるのに、国民が無関心であってはなりません。

 <そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました>

 不気味な書き出しです。江戸川乱歩の探偵小説が出版された一九三六年には、陸軍の青年将校らが反乱を起こした二・二六事件がありました。翌年には泥沼の日中戦争が始まる時代でした。

◆「解釈改憲」は変装だ

 新聞紙面をにぎわす怪人二十面相はとびきり変装が得意です。安倍晋三政権が宣言している「解釈改憲」もメディアを連日にぎわし、驚くべき変装術を見せてくれます。憲法九条は専門家が研究しても、集団的自衛権行使など認めているとは、とても考えられません。それを政権が強引に解釈を変えようとする変装です。

 解釈改憲も集団的自衛権も難しい言葉です。でも、「お国」を守ることが個別的自衛権なら、他国を防衛するのが集団的自衛権でしょう。憲法は九条一項で戦争放棄を宣言し、二項で戦力の不保持と交戦権の否認をしています。一項は一九二八年のパリ不戦条約が基とされ、先進国では常識です。

 平和憲法の核心は、九条二項にあるのです。日本は近代戦を遂行する戦力を持ってもいけません。ドイツの哲学者カント(一七二四~一八〇四年)も「永遠平和のために」の中で、「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」と訴えました。

 <なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである>

◆専守防衛で国民守る

 軍隊を持たねばいいというカントの考えは明瞭です。とくに日本国憲法はヒロシマとナガサキの悲劇を経てつくられました。大国同士が核ミサイルを撃ち合ったら、滅亡しかありません。ヒロシマの約四十日前にできた国連憲章と比べても、戦力を持たせない同条二項は先進的です。

 でも、国民を守るため、自衛の実力は必要だと過去の政権は考え、自衛隊がその役割を担いました。諸外国のように他国防衛もできる戦力ではなく、「専守防衛」の実力のみです。憲法の読み方のぎりぎりのラインなのです。

 中国や北朝鮮の脅威がさかんに唱えられていますが、もちろん個別的自衛権が使えます。でも他国防衛など、憲法から読み取るのは不可能です。無理筋なのです。

 集団的自衛権行使を封じることこそ、九条の命脈と言っても過言でありません。でも、政権はこの無理筋を閣議決定するつもりです。事例を限定する「限定容認論」という変装術も使います。

 五十五年も昔の最高裁判決を持ち出すのも変装です。個別的自衛権のことを言っている判例なのに、「集団的自衛権を認めている」と“誤読”するのです。

 政策は憲法の枠内でしか行えませんが、それを逆転させる変装術です。閣議決定されれば、九条二項は存在しないことと同じです。多くの有力な憲法学者に見解を聞く手続きが不可欠です。恐らくみんな「憲法は集団的自衛権を認めていない」と言うでしょう。

 米国は日本が手下になってくれるので、「歓迎」します。でも、自衛隊が海外へ出れば、死者も出るでしょう。わざわざ平和憲法がそんな事態が起きないように枠をはめているのに、一政権がそれを取り払ってしまうというのです。ここは踏みとどまるべきです。

 急“転回”を人ごとと思う空気こそ危機であるともいえます。危険を覚えるのが、限られた人々だけでは困ります。お天気のあいさつでもするように、みんなが「解釈改憲」を語るべきです。

 それどころか、護憲集会に自治体の後援拒否の動きが広がっています。大学でもそうです。学生が「憲法改正反対」を唱え、教室で集会を開こうとしたら…。明治大学は「思想色が強い」と判断し、集会は「認められない」。慶応大学も「学生有志による教室利用や集会は、理由にかかわらず認めない」と回答しています。

 若者の血が流れても「反戦集会」さえできないのでしょうか。

◆戦争を考える悪者は

 乱歩は別の作品で、怪人二十面相に戦争批判を語らせています。

 <まだ戦争をやろうとしているじゃないか(中略)そんなことを、考えているやつは、おれたちの万倍も、悪ものじゃないか>

 憲法解釈をおろそかにし、戦争に道を開けば、天下の大泥棒から悪者扱いされます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知新聞社の社説

2014-05-03 22:19:17 | メディア
【憲法記念日】9条の精神を守るために
2014年05月03日08時08分

 日本国憲法が施行された1947年、当時の文部省が中学生向けの社会科読本「あたらしい憲法のはなし」を作ったのはよく知られている。中でも戦争放棄と戦力を持たないことを定めた9条の解説は印象深い。

 〈みなさんは、けっして心細く思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません〉

 憲法施行からきょうで67年。集団的自衛権の行使容認を目指す安倍政権の取り組みが進む中、〈正しいこと〉とされてきた9条の精神が重大な岐路に立っている。

 集団的自衛権は自国が武力攻撃されなくても、同盟国が攻撃を受けた場合に実力で阻止する権利だ。従来、政府は「専守防衛」の範囲を超えるとして認めてこなかった。

 それを安倍政権は一転、行使容認にかじを切ろうとしている。

 首相が設置した安全保障に関する有識者懇談会(安保法制懇)は、今月中旬ごろ報告書を提出する。9条の下でも許容される必要最小限度の実力行使に、集団的自衛権が含まれるよう憲法解釈の変更を促す内容だ。それを受けて政府は夏以降の閣議決定を目指している。

 しかし、歴代政権が積み重ねてきた憲法解釈とどう整合性を取るのか。説得力のある説明はない。

 行使には首相の総合判断や国会承認など6条件を必要とし、文民統制を強調してはいる。とはいえ「放置すれば日本の安全に重大な影響が出る場合」など曖昧な条件もある。特定秘密保護法と同様、恣意(しい)的な運用につながる懸念が拭えない。

 「たが」が外れる

 安保法制懇はもう一つ、9条の「国際紛争」の定義についても新たな解釈を政府に要請している。

 9条が武力行使を禁じているのは全ての国際紛争ではなく、日本が当事者となる紛争に限定する。つまり、これまでは武力行使を全面的に禁じていたのを、禁止対象を絞ることで武力を行使できるようにする。具体的には日本の領土問題が絡まない紛争などにも、自衛隊が参加できるようになる。

 そうなると「必要最小限度」という「たが」は外れ、自衛隊の海外での武力行使が際限なく拡大していく可能性も否定できなくなる。9条はもはや何も禁じていないに等しく、死文化してしまおう。

 安全保障政策の大転換にもかかわらず、安倍政権は憲法改正の是非は問わない。代わりに安保法制懇や内閣法制局長官を首相の考えに近いメンバーで固め、法制懇の結論ありきのような提言を機に解釈改憲を進めようとする。

 曲がりなりにも平和国家として歩んできた戦後日本の進路を変えるのに、それがふさわしいやり方とはどうしても思えない。

 最近の共同通信の世論調査で安倍内閣が60%近い支持率を保っている中でも、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲には反対が50%を超えている。憲法の平和主義を〈正しいこと〉と受け止める世論が、なお根強いことを示していよう。

 集団的自衛権の行使容認が真に必要だと考えるなら、慎重な論議を通して粘り強く世論の理解を求める努力を続けなければならない。政権がそれをせず9条の空洞化に専心することには、異議の声を上げ続ける必要がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

濁流と土嚢

2014-05-03 22:14:53 | 政治
 今日は「憲法記念日」。各新聞社、社説で憲法の危機を訴える。

 ボクは、最近某紙に書いた文を載せる。書いたのは先週。風邪で寝ていたとき。



続く日常

 ここ二三日風邪を引いて横になっている。じっと耳を澄ますと、鳥のさえずり、車のエンジン音、近所の子どもの声・・・・いつもと同じ日常の音が聞こえてくる。ぼくたちは今の日常が今後も続いていくという当然の思いの中で、日々を過ごしている。
 しかし、少し想像力を働かせると、直接見えることはないが、堤防の向こう側には濁流があって、ぼくたちのこの日常に流れ込もうとしていることに気がつく。
 
「集団的自衛権」と「積極的平和主義」
 
 メディアで騒がれている「集団的自衛権」。「自国と密接な関係にある外国が武力攻撃をうけたとき、自国は直接攻撃されていないにもかかわらず、武力攻撃をしてきた国家と戦争する権利」、つまり自国が攻撃されていないのに、他国を攻撃し、戦争を始める「権利」だという。「積極的平和主義」を唱える安倍政権が、この「集団的自衛権」を行使しようとしているのだ。
 「積極的平和主義」について、安倍首相のお友達・長谷川三千子氏は「積極的平和主義は常に戦争に近いところを行く。時々戦争そのものになるだろう。実際、食料かなにかを運ぶのでも殺されるだろう。戦地と非戦闘地域との境目はない。積極的平和主義とは戦地に行くことだと考えなければいけない。」と語った。 
消える平和憲法

  ぼくたちは日本国憲法の平和主義を学んだ。戦争放棄、武力による威嚇・行使はしません、戦力は持ちません、交戦権を否認します・・・しかし今、安倍政権の無法によって、この平和主義が葬られようとしている。
 いや安倍政権によってというのは正確ではない。1990年代からその準備は進められてきていた。戦争という濁流は、少しずつ水量を増し、今や決壊寸前だ。安倍政権は2014年から5年間の「中期防衛力整備計画」を決めた。総額24兆円を遙かに超え、特徴としては敵基地攻撃能力の整備、日本版海兵隊の創設、つまり他国を攻撃する戦備をもつというのだ。もう平和憲法は、無視されている。

土嚢を積み上げることはできるのか

  「自国と密接な関係にある外国」とは、アメリカである。2006年から始められた「米軍再編」により、日本の自衛隊は在日米軍と一体化(陸軍は座間、空軍は横田、海軍は横須賀)し、すでに合同訓練を頻繁に行っている。日米共同作戦の準備は、おおかた終わっている。しかしただひとつ、それを困難にしているものがある。日本国憲法である。安倍政権は明文改憲、96条先行改憲を試みたが強い反対に遭った。そこで解釈壊憲で乗り切ろうとしているのだ。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(「安保法制懇」)」を設置し、内閣法制局長官をかえ、着々と準備をしている。

 堤防の向こうには、戦争という濁流が見える。堤防を決壊させないように、ぼくたちは土嚢を積み上げることができるのか。

 濁流が日常生活に入り込まないように・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

色彩の饗宴

2014-05-03 08:44:17 | 日記
 愛知県立美術館、クリムトの「人生は戦いなり(黄金の騎士)」を所蔵している美術館であるが、今そこでシャガール展を開催している。

 昨日、フジ子ヘミングのコンサートのついでに寄った。積極的に見たいというわけではなかったが、まあ行ってみようと思ったのだ。ボクはもうかなり前、東京で行われたシャガール展をみていて、そのときに大量に購入したシャガールのポストカードが未だに残っている。だから二度目であるが、しかしシャガールは多作だから、初見のものも多かったはずだ。

 以前見たシャガールの絵の特徴は、多用される「赤」。しかし今回は「青」も印象に残った。

 たくさんの絵を見たが、そのなかで気に入ったのが「赤い馬に乗る女曲馬師」(タピスリー)である。



 この馬の「赤」がよい。もちろん実物の「赤」はこんなものではない。そしてこの「赤い馬」は小ずるそうで、カワイイのである。

 シャガールの絵は、『色彩の饗宴』といわれるほど、色彩が見る者の眼に入ってくる。そしてその色彩で描かれたもろもろのかたちが、これまた時空を超えた世界でその存在を展開する。その展開する存在たちが、天井画であったなら降り注いでくるし、そうでなかったら迫ってくる。異次元の夢の世界。

 シャガールの絵は、一目見ればすぐわかる。こういう絵は、この画家しか描けない。「こういう絵」を描けるまでに、画家は“努力”する。

 ずっと昔バルセロナにいったとき、ミロ美術館に行った。ミロの絵は、ミロの独自の世界を簡単に描いていると思っていたら、その絵に到達するまでに描かれた多数のデッサンをみて、ミロでさえ“努力”なのかと驚いた記憶がある。

 一定の領域というか「高み」にまで到達する人は多くはない。そこに到達するまでの“努力”と“運”が、プロを生み出すのだとおもう。

 フジ子ヘミングも同じ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時空を舞う音

2014-05-03 00:33:47 | 日記
 夜、フジ子ヘミングのピアノコンサートに。全国ツアーで、二カ所だけチケットが完売しなかったというので、ボクは名古屋/愛知県芸術劇場コンサートホールに行った。

 ボクの席は二階席。ステージの上、ボクの席からフジ子ヘミングのピアノを弾くところがよく見えるところ、ちょうど一階の客席を見おろすかたちになる。もっとも良い席である。SS席。なんと1万2000円。

 素晴らしい演奏であったことをまず記しておかなければならない。

 まず、クラシック音楽の漫画、たとえば「のだめカンタービレ」をみると、ピアノ演奏の場面で、ピアノから音が立ちのぼっていくように描かれているが、まさに今日、ボクはフジ子ヘミングが弾くピアノから音が立ちのぼってくることを感じた。

 その音、ひとつひとつの音が輝き、それが生きていてホールの空間に立ちのぼると同時に降りてきて、ボクらの耳に到達する。

 その音、ユニセフのマークに子どもたちが手をつないでいる絵があるが、フジ子ヘミングの音はそういう感じである。それぞれが個である音が、手をつなぎ、音楽を織りなしていく。その音をたとえるなら、それは子どもでないといけない。なぜか、ひとつひとつの音が輝いて、生きているからであり、またとても活動的であるからだ。フジ子ヘミングは81歳。しかし彼女の指が生み出す音は、81という年輪を重ねながらも、生き生きとしている。

 今日、スカルラッティ、ショパン、リストなどの曲が演奏された。いつも読書やネットに向かっているとき、ボクはバックにクラシック音楽をかけているが、だからだろうか、それぞれの曲の個性にあまり気がついていなかった。だが、今日、いろいろな曲を真剣に聴き、四方八方に飛び跳ねる曲、内にこもろうとする曲、やるせない曲・・・・曲は、いろいろな表情をもっていること、同じ作曲家のものでも、曲によってかなり曲想が異なっていることを教えてもらった。

 最後のラ・カンパネラは、フジ子ヘミングを象徴する曲であるが、さすがに圧巻の演奏であった。ピアノから湧き出したあの音が、ホールの四次元の空間を、個性をもったひとつひとつの音がつながりあって、舞い踊るのだ。ボクは、目を閉じながら、それを感じることができた。

 コンサートホールでの生演奏は、オーケストラでもピアノリサイタルでも、音は決して平板ではなく、厚みをもっている。その厚みをもった音が、聴衆の全身をつかむのだ。この音は、CDなどでは絶対に出ない。

 音楽にしても、美術にしても、生であることが重要だ。なぜかというと、生は輝いているからだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする