憲法を考える 9条と怪人二十面相
2014年5月3日
国が曲がり角にあります。カーブの先は…。他国のために戦争をする国でしょう。憲法九条が破壊されるのに、国民が無関心であってはなりません。
<そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました>
不気味な書き出しです。江戸川乱歩の探偵小説が出版された一九三六年には、陸軍の青年将校らが反乱を起こした二・二六事件がありました。翌年には泥沼の日中戦争が始まる時代でした。
◆「解釈改憲」は変装だ
新聞紙面をにぎわす怪人二十面相はとびきり変装が得意です。安倍晋三政権が宣言している「解釈改憲」もメディアを連日にぎわし、驚くべき変装術を見せてくれます。憲法九条は専門家が研究しても、集団的自衛権行使など認めているとは、とても考えられません。それを政権が強引に解釈を変えようとする変装です。
解釈改憲も集団的自衛権も難しい言葉です。でも、「お国」を守ることが個別的自衛権なら、他国を防衛するのが集団的自衛権でしょう。憲法は九条一項で戦争放棄を宣言し、二項で戦力の不保持と交戦権の否認をしています。一項は一九二八年のパリ不戦条約が基とされ、先進国では常識です。
平和憲法の核心は、九条二項にあるのです。日本は近代戦を遂行する戦力を持ってもいけません。ドイツの哲学者カント(一七二四~一八〇四年)も「永遠平和のために」の中で、「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」と訴えました。
<なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである>
◆専守防衛で国民守る
軍隊を持たねばいいというカントの考えは明瞭です。とくに日本国憲法はヒロシマとナガサキの悲劇を経てつくられました。大国同士が核ミサイルを撃ち合ったら、滅亡しかありません。ヒロシマの約四十日前にできた国連憲章と比べても、戦力を持たせない同条二項は先進的です。
でも、国民を守るため、自衛の実力は必要だと過去の政権は考え、自衛隊がその役割を担いました。諸外国のように他国防衛もできる戦力ではなく、「専守防衛」の実力のみです。憲法の読み方のぎりぎりのラインなのです。
中国や北朝鮮の脅威がさかんに唱えられていますが、もちろん個別的自衛権が使えます。でも他国防衛など、憲法から読み取るのは不可能です。無理筋なのです。
集団的自衛権行使を封じることこそ、九条の命脈と言っても過言でありません。でも、政権はこの無理筋を閣議決定するつもりです。事例を限定する「限定容認論」という変装術も使います。
五十五年も昔の最高裁判決を持ち出すのも変装です。個別的自衛権のことを言っている判例なのに、「集団的自衛権を認めている」と“誤読”するのです。
政策は憲法の枠内でしか行えませんが、それを逆転させる変装術です。閣議決定されれば、九条二項は存在しないことと同じです。多くの有力な憲法学者に見解を聞く手続きが不可欠です。恐らくみんな「憲法は集団的自衛権を認めていない」と言うでしょう。
米国は日本が手下になってくれるので、「歓迎」します。でも、自衛隊が海外へ出れば、死者も出るでしょう。わざわざ平和憲法がそんな事態が起きないように枠をはめているのに、一政権がそれを取り払ってしまうというのです。ここは踏みとどまるべきです。
急“転回”を人ごとと思う空気こそ危機であるともいえます。危険を覚えるのが、限られた人々だけでは困ります。お天気のあいさつでもするように、みんなが「解釈改憲」を語るべきです。
それどころか、護憲集会に自治体の後援拒否の動きが広がっています。大学でもそうです。学生が「憲法改正反対」を唱え、教室で集会を開こうとしたら…。明治大学は「思想色が強い」と判断し、集会は「認められない」。慶応大学も「学生有志による教室利用や集会は、理由にかかわらず認めない」と回答しています。
若者の血が流れても「反戦集会」さえできないのでしょうか。
◆戦争を考える悪者は
乱歩は別の作品で、怪人二十面相に戦争批判を語らせています。
<まだ戦争をやろうとしているじゃないか(中略)そんなことを、考えているやつは、おれたちの万倍も、悪ものじゃないか>
憲法解釈をおろそかにし、戦争に道を開けば、天下の大泥棒から悪者扱いされます。