ボクが関与している静岡県近代史研究会が、7月例会で「大正デモクラシー」をとりあげる。
「大正デモクラシー」については、『歴史評論』2月号の特集が「大正デモクラシー再考」となっていて、それに影響されての企画ではある。とはいっても、やはり「大正デモクラシー」は、再考しなければならないテーマである。というのも、「大正デモクラシー」に関する議論そのものが「戦後民主主義」に対する危機意識があったからであって、その頃と比較すれば、「戦後民主主義」は、現在もっと危機に陥っており、まさに断末魔ともいうべき状態をなっている。
『歴史評論』2月号には、千葉功の「研究史整理と問題提起」がまず掲載され、1960~70年代にいかなる研究がなされてきたのかが手際よくまとめられている。そこには、信夫清三郎、井上清、藤田省三らによる「大正デモクラシー」研究の出発から、本格的な研究がなされた時期の、松尾尊兌、三谷太一郎、金原左門、鹿野政直の名前がある。そしてその「大正デモクラシー」を否定する伊藤隆らの名もあげられている。
その後の研究は、たまにあるくらいで、栄沢幸二、安田浩、岡田洋司、源川真希の著書が紹介されているが、これらは読んだことはない。ということは、ボクの「大正デモクラシー」理解は、1970年代までのものであるということだ。
ボクは『浅羽町史』(2000年)で「大正デモクラシーと地域の再編」として章立てし、第三節で「大正デモクラシーと国民教化との相克」を書いている。
ボクは、松尾、金原、鹿野らの著作で「大正デモクラシー」を学んだのだが、『浅羽町史』ではこう書いた。
明治の終焉は近代日本を新たな段階へと進めていくこととなった。大正期の時代表徴として「大正デモクラシー」が挙げられるが、それはただ単に中央政治の舞台で政党がその比重を増した(政党政治)ということだけではない。青年、女性、労働者、農民などの階層が、様々な要求をもった主体として歴史のなかに大きく登場してくることにより、国家のなかに包摂されていた「社会」が自立的な動きを開始することであったし、民主主義的な傾向が地域に浸透していくことでもあった。と同時に、その「社会」のなかで、個人が個としての生を描き始めた。私たちは、浅羽地域にも、そのような「
個」として生きる人々を発見することができる。
これがボクが「大正デモクラシー」を「地域」から捉えようとした視点であった。そして「政党の動向」、「地租軽減の請願」、「米騒動」、「民力涵養運動」を記し、さらに青年団の機関誌をもとに、農村に波及してきた「大正デモクラシー」の息吹を記した。
もちろん一般に想起される「大正デモクラシー」そのものが、農村で展開されたということはできないが、そうした傾向が農村にも浸透していたことを示したのである。
さて、現在の時点で「大正デモクラシー」を考えようとする時、以前と同様に、「戦後民主主義」の評価と切り離すことはできない。「大正デモクラシー」から「戦争の時代へ」という流れは、現今の「戦後民主主義」の状態との相似形としてボクには見えてくる。
もう一度「大正デモクラシー」を学ぶこと、同時に1930年代のヨーロッパの経験も、ともに真剣に学ぶ時期にあるように思う。
デモクラシーは、伊藤隆はそう考えていないようだが、やはり「善」なのである。そしていうまでもなく、ファシズムは「悪」である。「善」をより拡充するためこそ、学問は生かされなければならないと考えるからである。
「大正デモクラシー」については、『歴史評論』2月号の特集が「大正デモクラシー再考」となっていて、それに影響されての企画ではある。とはいっても、やはり「大正デモクラシー」は、再考しなければならないテーマである。というのも、「大正デモクラシー」に関する議論そのものが「戦後民主主義」に対する危機意識があったからであって、その頃と比較すれば、「戦後民主主義」は、現在もっと危機に陥っており、まさに断末魔ともいうべき状態をなっている。
『歴史評論』2月号には、千葉功の「研究史整理と問題提起」がまず掲載され、1960~70年代にいかなる研究がなされてきたのかが手際よくまとめられている。そこには、信夫清三郎、井上清、藤田省三らによる「大正デモクラシー」研究の出発から、本格的な研究がなされた時期の、松尾尊兌、三谷太一郎、金原左門、鹿野政直の名前がある。そしてその「大正デモクラシー」を否定する伊藤隆らの名もあげられている。
その後の研究は、たまにあるくらいで、栄沢幸二、安田浩、岡田洋司、源川真希の著書が紹介されているが、これらは読んだことはない。ということは、ボクの「大正デモクラシー」理解は、1970年代までのものであるということだ。
ボクは『浅羽町史』(2000年)で「大正デモクラシーと地域の再編」として章立てし、第三節で「大正デモクラシーと国民教化との相克」を書いている。
ボクは、松尾、金原、鹿野らの著作で「大正デモクラシー」を学んだのだが、『浅羽町史』ではこう書いた。
明治の終焉は近代日本を新たな段階へと進めていくこととなった。大正期の時代表徴として「大正デモクラシー」が挙げられるが、それはただ単に中央政治の舞台で政党がその比重を増した(政党政治)ということだけではない。青年、女性、労働者、農民などの階層が、様々な要求をもった主体として歴史のなかに大きく登場してくることにより、国家のなかに包摂されていた「社会」が自立的な動きを開始することであったし、民主主義的な傾向が地域に浸透していくことでもあった。と同時に、その「社会」のなかで、個人が個としての生を描き始めた。私たちは、浅羽地域にも、そのような「
個」として生きる人々を発見することができる。
これがボクが「大正デモクラシー」を「地域」から捉えようとした視点であった。そして「政党の動向」、「地租軽減の請願」、「米騒動」、「民力涵養運動」を記し、さらに青年団の機関誌をもとに、農村に波及してきた「大正デモクラシー」の息吹を記した。
もちろん一般に想起される「大正デモクラシー」そのものが、農村で展開されたということはできないが、そうした傾向が農村にも浸透していたことを示したのである。
さて、現在の時点で「大正デモクラシー」を考えようとする時、以前と同様に、「戦後民主主義」の評価と切り離すことはできない。「大正デモクラシー」から「戦争の時代へ」という流れは、現今の「戦後民主主義」の状態との相似形としてボクには見えてくる。
もう一度「大正デモクラシー」を学ぶこと、同時に1930年代のヨーロッパの経験も、ともに真剣に学ぶ時期にあるように思う。
デモクラシーは、伊藤隆はそう考えていないようだが、やはり「善」なのである。そしていうまでもなく、ファシズムは「悪」である。「善」をより拡充するためこそ、学問は生かされなければならないと考えるからである。